今日の迷言・余言・禁言

「人間」としての“難題を提起する”植松聖

今日16日、一つの注目すべき“判決”が言い渡される。これまで裁判員裁判という形で16回の公判を経ての“判決”となる。実は判決は最初から決まっていて「死刑」ということになる。何しろ、19人も殺害、24人にも重軽傷を負わせた事件である。「死刑」以外は考えられない。ところが、この判決を受け入れる一方で、一切自分の罪を認めず、正当性を主張してきたのが植松聖被告である。2016年7月26日「津久井やまゆり園」に侵入し、入所者たちを次々と殺傷した。個々に入所していたのはいずれも重度の身障者たちだ。植松被告は元々ここで職員として働いていた。普通に考えれば、もっとも入所者たちを理解し、寄り添う側の人間なはずであった。ところが、彼はここで働いていく中で、果たして入所者たちはこのようにしてまで生き続けることが望ましいことなのだろうか、と考えるようになる。特に、その家族の方達の負担は重く、或る意味で厭でも身障者の生活を支えていくことを強要される。そういう在り方が、健常者としての日常を“犠牲にしなければならない”在り方が、正しいと言えるのだろうか、と考えるようになる。もし、自分で望んで“こういう姿として”産まれてきたわけでもない身障者たちを“楽にして”あげて、その家族の方達にも“正常な生活”を取り戻してあげることができるなら、その方が双方にとって望ましいことなのではないか。これこそが、植松被告が犯行を決行し、43名もの死傷者を出しながら、何ら反省するどころか、わびる気持ちもなく、その正当性を主張している根幹の考え方なのだ。もちろん、身勝手な主張であり、決して許される考え方ではない。但し、人間を“生物の一種”と捉えなおすなら、生きていく上で、弱者がはじかれ、強者が生き残り、生存競争を生き残っていく在り方は、ごく自然に見受けられるものである。人間の持つ“ヒューマニズム”がそれを許さないだけだ。われわれは“生物の一種”でもあるが、同時に“理性”と“協調”の中で生きていく“特異な存在”であり、その人間的な部分が、植松聖被告の考え方を排除する。けれども、植松被告はそれに対して「不幸に慣れただけで、本当の幸せではないと思う」と言い切る。今でも「自分の考えを世の中が実践できれば、幸せになる人がもっと増える。そういう意味で犯行は良い仕事だった」彼は「死刑」を受け入れるが、罪は認めていないのだ。


最近の記事はこちら

「健康・余裕」の百歳なら良いのだが…

なんとなく北海道のニュースを眺めていて「敬老の日」に北海道だけで100歳以上のお年寄りが3867人もいると知って、その数の多さに驚いてしまった。昔は“百歳以上”というのは本当に稀で、文字通り「長寿」だ…続きを読む

続々と発見される「未開封の墓と棺」

このところエジプトでは「墓」や「棺」の“発見”が続いている。それも古代エジプトの古王朝時代に埋葬地として有名だったサッカラの地から相次いで発見されている。9月なって発見された13基の棺は、なぜか積み重…続きを読む

早期の「画像公開」が“発見”に繋がった

千葉県習志野市で9月10日から“行方不明”になっていた中学3年生の少女が19日に無事発見・保護された。最近は“行方不明”となっても、早期に情報公開や画像公開した場合には、その多くが発見・保護されている…続きを読む

5億4000万円「金券ショップ」も加担している⁉

2014年~2016年のわずか2年間の間に5億4000万円分もの切手が「金券ショップ」で換金されていたことが明らかとなった。それも換金したのは、東京の芝郵便局と神田郵便局の当時“課長”と“課長代理”と…続きを読む

作る「銅像」間違えている“お粗末”芸術家

有名人が、その生れ故郷に彫像や銅像を建てられることは珍しくない。そのほとんどは、その街の“誇り”として、記憶に遺したいから建てられる。ところが、たまにはまったく別の目的から、彫像や銅像を建てられること…続きを読む

Copyright© 2015 NAMIKISEIRYU All Rights Reserved.