素顔のひとり言

「平等」と云う名の間違った学校教育

中学校の卒業式を地元警察が厳戒態勢をとる中で挙行し、式後の卒業生が校長室で暴れたとして2名が逮捕されたらしい。この中学校では昨年来、校長、教頭とも休職などに追い込まれているのだと云う。何ともやりきれない報道だ。一時期、収まったかに見えていた学校教育の崩壊は、収まっているどころか見えない形で進んでいたのかもしれない。

それにしても、日本の文部省や教育委員会なるところは、いったい何を履き違えてしまったのだろうか。小・中学校では「平等の観点から、あだ名を禁止する」のだと云う。どうも「あだ名」が「差別意識を生み出す」と勘違いしているらしい。そういえば運動会では、差別をなくす目的から、手をつないで走り、同時にゴールする徒競走の学校も出てきているらしい。何と愚かな「平等」意識だろう。

教育は別に平等でなど有る必要はない。教育を受けられるチャンスは平等に与えられなければならないが、教育そのものは平等である必要などないのだ。逆に平等にし過ぎることで、本来なら育っていく能力や素質や個性が埋没していく可能性の方が大きい。運動能力とか、芸術的素質とか、知能指数とか、個々ばらばらで違っているからこそ良いので、ロボットのように全員が同じだったら、教師もまたロボットやコンピュータの方が向いているかもしれない。

義務教育だから全員卒業させなければならない、などと云う発想自体がおかしなことで、義務教育を受けるチャンスは与えるが「そのチャンスを放棄する者には卒業資格を与えない」方が、よほど平等の精神にのっとっている。教えてもらいたくない児童に、なぜ教えなければならないのか、学ばなかった児童になぜ卒業資格を与えるのか…誤った教育の概念が、歪んだ教育現場を作りあげている。

私は「教育」と云う問題が出るたび、古代エジプトと古代中国とで使われていた「教える」の象形文字を思い出す。この二つの古代帝国は、文化・文明では大きく異なるが、もちろん文字そのものも異なるが、共に象形文字が使用されたと云う共通点を持つ。そして双方の国とも「教える」と云う文字には「鞭の象形」が使われていた。つまり、古代帝国の時代から、子供を教育するためには、また幼少期に教えを身に付けるためには、鞭のような「痛み」が必要だったと云うことなのだ。

それが自然であり、本来の姿でもあるのだ。大人が子どもに対し恐る恐る教育すると云うのでは逆ではないか。不自然なのだ。だから子供たちは真剣に学ぼうとはしない。家庭でも学校でも、子供が悪いことをしたら殴らなければならない。鞭を持つ必要はないが、痛みの中で学ぶ、と云う形の方が幼少期の場合は自然であり、本来の姿なのだ。中学生になってから始めたのでは手遅れになる。あくまでも3・4歳から小学3・4年生くらいの時期までに…である。そのくらいの時期まで「痛み」を伴う形で教えれば、あとは黙っていても先生の言うことを聴くようになる。

いや、本当は痛みなどなくても、幼い頃から必死で学ぼうとする子供たちはいる。発展途上国や東南アジアの貧しい国、戦争で緊張感の続いている国・地域の子供たちだ。なぜ、これらの地域の子供たちは鞭がなくても自ら進んで真剣に学ぼうとするのか。それは学校へ行くことが、そして知識を身につけることが、将来の生活を楽にし、職業選択を可能にし、収入源を保証し、親・兄弟を助け、出世や成功に不可欠で、生きていく上で重要であることを本能的に察知しているからだ。掘立小屋のような学校でも、ボロボロになった教科書でも、子供達は生き生きと勉強する。生きていかなければ…と云う強い生命力と本能とが勉強に駆り立てるのだ。

当然、これらの地域の子供たちだって、勉強より遊ぶ方がいいに決まっている。だから勉強の合間の遊び時間は楽しい。でも、楽しいだけでは生きていけないことを本能的に知っている彼らは、学びの時間は真剣に学ぶのだ。緊張感のない日本に、このような地域の子供たちと同じになれ、と云ってもなれるものではない。だから、せめて「平等」だけは止めた方が良い。学校卒業後に無くなってしまう平等を教えてどうするのか。それに「全員卒業」や「全員一等賞」は平等の押し付けでしかない。誰も喜ばない。学校にもまともに行かないで、勉強をしないで「卒業証書」を受け取っても嬉しくないのは当然だ。

ただ誤解されたくないので記しておくが、私は基本的に学校側が規制をかけ過ぎるのは感心しない。子供たちの服装や髪形は自由にさせれば良い。或いは子供たち自身に制服を選択させれば良い。そういう外見的なことを細かく規制し過ぎるから反発を招く。それよりも、学習態度や言葉遣い、倫理観を厳しく教えれば良い。服装や髪形などより倫理観の徹底の方がはるかに重要だ。それらを幼少期から厳しく教えれば、服装や髪形や生活態度など、黙っていても改まるだろう。


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