素顔のひとり言

取り残され始めたアジアの中のJAPAN

大阪市の生活保護者が“20人に1人”に増えたとニュースは伝えている。経済の底冷えが続く関西とは言え、あまりにも多すぎる。他の自治体から流出し辿り着く形で受給する人達もいるらしいが、とにかく改善が急務の問題だ。私の住む札幌市も生活保護家庭の比率は多い。なにしろ北海道は仕事が減っている。新卒者でさえも就職が容易ではない。当然、或る程度の年齢になってしまうと、もうそれだけで面接さえシャットアウトの状況だ。生活保護者が増えるのは当然とも言える。

民主党が政権を握り“弱者に優しい政策”を打ち出してはいるが“経済の活性化策”は未だ見えない。みんなに優しいのは良いが、みんながひもじいのは困る。しかも、その弱者たちを“食い物とするビジネス”さえ横行し始めている。金が余っている人達から吸い上げるならまだしも、金が乏しい人達を食い物とするのだけは許せない。ただ、そういう人達の方にも、全く問題がないのか…と言えばそうも言えない。近年、行政に縋れば良い、社会福祉の力で何とかしてくれる…という風潮が強まりつつあるような気がする。特に、仕事をしていない若年層に…だ。かつて、タイ、フィリピン、インドネシア、中国等でそういう風潮があった。現在の日本とは若干違って、頭から働く意欲に乏しく、麻薬患者のように虚ろな目をしている人たちだった。そういう当時のアジア人たちに比べると、現代の若者の多くは健全である。それに日本人の根本的性質から来るのかもしれないが、職に就いていない人達も総じて生活態度はまじめで規律正しい。けれども、じわじわと浸透し始めている或る種“虚無感”は、かつての日本人とは明らかに違っている。

例えば戦後の日本人が多く持っていたハングリーな部分はみじんもない。いや、むしろそういうものに対して拒絶的でさえある。確かに必ずしも“経済的な豊かさは幸福を与えてくれない”それは確かであり、高度成長期を過ぎ、バブル期を過ぎて、多くの日本人たちが体得した事実だ。けれども、だからと言って“何もかもに対して投げやりとなる”のは筋違いだ。国が悪いとか、政治が悪いとか、親が悪いとか、世の中が悪いとか…そういう発想からは何も生まれない。かつての後進国であったアジアの国々は、先進国となった“日本に見習い”舵を切り始めていった。路上にたむろするだけの人達は徐々に減って、英語とIT産業が普及することによって、近隣のアジア諸国は、明らかに日本に追いつき、今や日本を追い越そうとするまでに変わった。

逆に日本は、欧米の先進国諸国がそうであるように、飽食に疲れて、働き蜂に嫌悪し、精神的な豊かさこそが“幸福を与えてくれる唯一のモノ”と誤解し「美しい国ニッポン」とか「友愛の国」とか訳の解からないことを言い出し、教育でも、体育でも、所得でもずるずると後退し出して、先進国から徐々に引き摺り下ろされようとし始めている。

勝ち負けをつけるつもりは毛頭ないが、今や日本は、どの分野であろうと“先頭集団”ではなくなりつつある。そう、仕分け人達は「世界一になることがそんなに大切なんですか!」と叫んだ。その一方で子供達には、どこかの総理の母親のように何万円もお小遣い(子供手当)をプレゼントする。親の言うことを効かなくなってくる年齢の子供達にお金を与えたらどうなるか…あまり、こういうことは言いたくないが“お金の有り難味”が解からない、親の苦労の解からない青少年が育っていくだけだ。

これもあまり話したくないが、私は極貧の家庭で育った。正直、私は“貧しい家庭に生まれ育った”ことが悔しくてしょうがなかった。幼い頃、食べたいモノも食べられず、接ぎの当たった洋服ばかり着せられていた。金持ちの子が羨ましかった。自分が情けなかった。“本当の自分はこんな家の子ではないはずだ”根拠のない確信のようなものを抱いていた。今考えると、恐ろしくプライドの高い少年だったのだ。それでいて、欲しいか?…と問われても、決して欲しがったことはなかった。食べ物でも洋服でも玩具でも、ただの一度も欲しいといったことはなかった。それでも、一度だけ間がさし、金持ちの子の家に遊びに行った時“積み木”を盗んだことがある。どうしても欲しかったのだ。それで、帰り際に玩具を片付けながら3~4個の積み木をポケットの中にねじ込んだのだ。

ところが家に戻って、私は母親から問い詰められた。母親は私が盗んだことを知っていたのだ。そして大声で泣きながら私を叱った。「私は、そんな子に育てた覚えはない」とオイオイ泣きじゃくりながら、声を振り絞って叱り続けたのだ。私は盗んでしまったそのことよりも、大声で泣きじゃくりながら私を叱る母親の顔を見て驚き、そしてうろたえていた。あの時、私は二度と盗みなどせず、母親を悲しませない…と幼心に誓ったものだ。

私は昔フィリピンへ行った時、一人の若い女性の「自分の部屋」に案内された。その家は街外れの路地裏で、いくつもの家に取り巻かれるような位置に立っていた。そのせいで真昼間だというのに真っ暗なのだ。窓は一つだけ付いていたが隣家の壁に直面していた。真っ暗な部屋には一本の蛍光灯がぶら下がっていて、それだけがこの家の生命線のように見えた。狭い室内には何もなかった。本当に何もなかったのだ。冷蔵庫はあったが、コードが外れていたし、何も入れられていなかった。キティちゃんのぬいぐるみだけが場違いな感じに座っていた。「驚いたでしょう。私には何もないの」たどたどしい日本語で恥ずかしそうに彼女は言った。私はしばし黙った。昔の、幼い頃の“我が家”が脳裏を横切ったのだ。あの頃プライドの高い少年だった私は、決して友達を家に呼ぼうとはしなかった。貧しい家を見せたくなかったのだ。だから余計に彼女が自分の家を正直に見せてくれたことに感動した。私は無意識に彼女を抱きしめ、きっと君を救いだしてあげる…とセンチメンタルなことを誓った。

あれから、もうどのくらい経つだろう。先日何かの旅番組でフィリピンを見たが、大きく変貌していた。元々マニラは都会であったが、ますます発展している印象を受けた。多分、彼女も変わっていることだろう。国は変わり、人も変わり、時代も変わる。我々はどこから来たのか。そしてどこへ行くのか。


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