四柱推命の源流

「東洋占術の王道」とも言われる四柱推命ですが、その原初の姿から現在に至る種々な研究までを本当に正しく認識している占術家はほとんどおりません。 そこで、原初からの中国系占術が誕生し、変遷していく真実の姿を皆さんに公開しようとするものです。

神話伝説から生まれた五行相生理論

五行相勝(相剋)理論(中国戦国時代末・約2400~2200年前)から少し遅れて、「五行相生理論」が登場(約2150~2050年前)してくることになります。占いの研究者の感覚からすると相生理論の方が先にありそうですが、実際には逆な誕生順序なのです。もちろん、この「相生理論」の方も、「王朝交替説」に由来しているのです。すでに過去となった王朝交替が、見事に五行相勝の理論に当てはまっていたため、新たに誕生した五行相生説においては、その当時における神話伝説の帝王たちの順序を引き合いに出して展開されることになります。

つまり、ここで語られる神話伝説上の帝王たちは、

  • 」の徳を備えた「伏義(ふくぎ)」氏(「包犠・太昊」とも呼ばれる)出現―→相生―→
  • 」の徳を備えた「神農(しんのう)」氏(「炎帝」とも呼ばれる)出現―→相生―→
  • 」の徳を備えた「軒轅(けんえん)」氏(「黄帝」とも呼ばれる)出現―→相生―→
  • 」の徳を備えた「金天(きんてん)」氏(「小昊」とも呼ばれる)出現―→相生―→
  • 」の徳を備えた「高陽(こうよう)」氏(「せんぎょく」とも呼ばれる)出現―→相生―→

という順序で、その当時の人々の間に、五帝王として出現していたことが知られていたのです。
図らずも「木」→「火」→「土」→「金」→「水」の相生順になっている…という仮説です。

これらの順序の法則を、自然界に求めると、

  • 「木」である「樹木」の枝と板とをこすり合わせると、「火」である「炎」が生じ、
  • 「火」である「炎」で焼き尽くされたものは、「土」である「灰」となって土が生じ、
  • 「土」である「岩盤」の奥には、「金」となる「砂金」や「宝石」が生じていて、
  • 「金」である「金鉱」の近くには、必ず「水」である「水脈」が生じていて、
  • 「水」である「雨」の恵みある所、必ず「木」である「樹木」「草花」が生じている、

ということになるのです。

自然界の原理が、ここでも「王朝交替説」という形で巧みに利用されたのです。
改めて「相勝(相剋)」「相生」の二つの五行理論を図解すると【1図】のようになります。

相勝(相剋)・相生の二つの五行理論(図解)

けれども、五行相勝(相剋)理論にしろ、五行相生理論にしろ、自然界の栄枯盛衰を表す理論として人々を納得させるものを持っていました。その当時だれもが信じた「天人相関説」の具体的な表れとして、王朝交替を画策する人々だけでなく、当時の学者・大衆にも見事に受け入れられたのです。やがて王朝交替説だけでなく、人間の運命の栄枯盛衰を推し量る羅針盤としても、占術家たちに継承され、現在まで2000年以上の長きにわたって用いられることになっていくのです。

今日、日本で「四柱推命」(「子平」「算命学」「命理学」「八字」「命学」等…)と呼ばれる占術の土台をなしている基礎は、十干十二支で構成された干支暦に基づく命式の表出と、その組み立てを陰陽・五行理論に基づく相互作用の分析・解読から判断することにあるといえます。そこで干支暦の成り立ちや仕組みについて、もう少し知っておいていただかなければなりません。

すでに述べたように、干支暦の出現は早く、今から3000年以上前の商王朝(一般的名称は「殷王朝」)期には使用されていたことが確実視されています。ただし、その当時の干支暦は、その日付だけが干支によって記されているもので、「月」は「漢数字」で表わされ、「年」は「王即位から○年」というような記され方をしていました。そして、まだ「時刻」に対しての表記は存在していませんでした。

「月」の表記は「一月」~「十二月」までですが、時として「十三月」の月も存在していました。それは当時の暦が「太陰太陽暦」だったからで、月の満ち欠け(形状)に従って「1か月」を定めていたからです。月の満ち欠けを用いると、1か月は「30日間の大の月」と「29日間の小の月」の繰り返しとなります。現代のように「31日間」の月というのは存在しないのです。そこでどうしても、1年間の日数が現代よりも少なくなります。つまり、毎年、徐々に季節が移動することになるのです。そこで季節の調節をするため数年間に一度「閏月(うるうづき)」と呼ばれる調節月を暦に挟むこととなるのです。その閏月のことを、商王朝では「十三月」として扱ったのです。

干支構成表

干支暦の表記に「干支日」だけでなく、「干支年(歳)」や「干支月(節)」や「干支時(刻)」が登場するのは、中国における戦国時代中期頃(紀元前400~300年代)ですが、戦国末期と思われる記録によれば「甲子」を60干支の起干支とはせず、「甲寅」の方を起干支として、甲寅年・甲寅月・甲寅日…から暦日をスタートさせています。やがて前漢代の『太初暦』の改暦で、干支月が飛ばされる形となって、現代と同じ配列「月干支」表記へと変わりました。【1表】

その後は、太陰太陽暦から太陽暦への切り替えはありましたが、干支暦そのものは年・月・日・刻に何ら手を加えることなく今日まで60干支を循環させ続けています。


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