12月, 2009年

季節の廻りと運勢の廻り

2009-12-26

毎年、この季節になると“若かった日々”のことを思い出す。私は室蘭で育った。気温だけでいえば、そんなに寒い地域ではないのだが、冬場になると猛烈な風が吹きまくるので、体感温度が低く感じられる所だった。北風の吹かない札幌で暮らすようになって、気温はむしろ低いのに“室蘭のような寒い冬”を感じたことがない。それでも、雪が降り出すこの季節は“しばれる室蘭”の“粉雪舞う室蘭”の“神を呪った室蘭”の凍てつくような日々を思い出す。

幼い頃、私は窓の隙間から雪が入り込んで、障子枠のそれぞれに斜めに降り積もっていくような部屋で育った。まだ記憶がおぼろげな頃、昼間は誰もいなくて、何もなくて、大通りに面した二階の窓から何時間でも外の様子を見つめているような子供であった。母は病気がちで、入退院を繰り返していた。父親は昼と夜と重労働を掛け持ちしていて、私が寝てしまった後でなければ帰ってこない。滅多に顔は見なかった。兄と姉は学校へ行き、その後、幼いながらアルバイトまでしていた。したがって、私はいつも一人であった。

けれども、そういう日々を寂しいと思ったことはなかった。私は無類の空想好きで、窓の外を見ながら、さまざまな空想をめぐらすことが好きでたまらなかった。だから一人でも、窓ばかり見ていても、寂しくなどなかったのだ。ただ真冬は寒くて、クリスマスでも、お正月でも、何も買えなくて、何も貰えなくて、だから少しだけ皆が羨ましかった。そういう中で、私は「運命」に興味を抱いた。欲しかったおもちゃを手にした子供のように、私は運命の謎を解き明かしてくれるかもしれない“占い”に夢中となった。人は“何故みんな同じような家に生まれないのか…”私の最大の謎はそこにあった。クリスマスになると、どういう訳か街の教会から牧師さんがプレゼントを届けてくれた。多分“恵まれない家庭の子供たち”にボランティアでサンタに扮して届けてくれていたのだと思う。自分が望むプレゼントではなかったが、キリスト教は「ありがたい宗教だ」と思った。

部屋の片隅に置いてあった女性週刊誌は、まだ平仮名しか読めない私には難しかったが、それでも一人の平凡なOLが“占い師になっていく”過程が描かれていて、私を妙に惹き付けた。そして、占い師になろう…と漠然と思った。でも、マンガ家もいいな…と漠然と思った。私は「まぼろし探偵」にひどく憧れていたのだ。マフラーをなびかせオートバイでやって来る“正義の味方”だ。夏には雨漏りがし、冬には障子のふすまに雪が積もる部屋の中で、私は占いの本を読み、マンガを描く“独りぼっちの少年”だった。

それから大人になって、私は勤め先で毎年冬が近づくと“猛烈な忙しさ”に追われていた。10月後半から12月の半ばまで、どういうものか職場部署内の私の仕事量は急激に増え、必死に仕事を消化していく日々が続いたものだ。それが終って暇となり、寒さも加わって体調を崩し、年末から年始にかけては大体が風邪をひいているとか、孤独感が強まって憂鬱になって引き篭もっているとか、あまり良い思い出がないのがこの時期だった。

プロ占い師という生活に切り替わっても、奇妙なもので10月後半から12月半ばにかけては忙しくなるケースが多い。ひとつには“占いの実占”だけでなく、年末年始用の“占い原稿”の締め切り日が重なっているケースが多いからだ。それでも、ここ何年か比較的暇だったのだが、今年は何故か忙しかった。忙しかったからといって、必ずしもそれが収入と直結しているわけではない。どの仕事でもそうだと思うが、必ずしも「仕事量」=「収入」と繋がっていないところが、運命の面白いところだ。この時期、昔の会社員時代なら“ボーナス”というものが出て、それに一喜一憂したものだが、今ではそのボーナスもない。もっとも、それは私だけではなく、今なら会社勤めをしていても、まともに貰えなくなって来ている人が多いのかもしれない。昨日、久しぶりに少しだけ空きが出来たのでパチンコ店に行ったら、空席が目立っていた。この季節に空席が目立つのは、やはり世の中、忙しい人が多いのか、それとも“遊ぶお金なんかない”人が多いのか、どちらかだろう。年賀状を書かなければいけない季節でもあるが、毎年ぎりぎりまで書くことをしない私は、多分、今年もぎりぎりの攻防をするのに違いない。事業仕分けではないが、年賀状も“どの人に出して、どの人に出さないか”は難しいところで、結局、その時の気分に左右されるところが大きい。書く内容にしても、通り一遍ではつまらないし、かといって特別書かなければならない内容があるわけでもない。時に「占い原稿」よりも、こっちの方が難しかったりもする。

「占い師」という職業の人の中には、年末年始に忙しくなる人もいるのだろうが、私は毎年、この時期は暇にしている。というより余程のことがない限り、仕事を入れないよう心掛けているからだ。人が休む時には休みたいからでもあるし、自分が運気的に良くないからでもある。幼い頃の影を引きずるかのように、引き篭もりたがる。昔、年末に地方へイベントに行ったら、車の事故に遭って顔面を怪我したことがある。また、元旦からイベントに出たら、腹痛で二日目をキャンセルしたこともある。TVの元旦番組では、せっかく31日の夜中まで掛って原稿を書いたのに、その番組内容が急きょ変更になってギャラは貰ったが、原稿は幻となったこともある。どうも、年末年始に仕事すると良くないのだ。私は公務員的な生活の仕方が合っている。それなのに、なぜボーナスは支給されないのだろう。不思議だ。

人間の持つ素質・才能の引き出し方

2009-12-15

最近、久しぶりに角川春樹が週刊誌の誌面に登場した。40歳の年齢差ある新人女優ASUKA(27歳)に肩入れし“結婚”を周囲に公言している―というゴシップ記事だった。角川春樹といえば、一時期“映画界の風雲児”として話題作を続々と世に送ったものだ。そして今『笑う警官』という北海道警察内部の腐敗を扱った作品を映画化・監督し、現在公開されている。その映画でも抜擢された新人女優・歌手に入れ込み、カードによる贅沢三昧を許し、彼の事務所自体の経営状態がひっ迫していて企業として存続の危機に追い込まれている、と週刊誌は予測していた。

それはともかく、角川春樹という人物は“人間の運命”を研究している私からは大変に興味深い。まず本人自身の波乱万丈な人生。角川書店・創業者の長男として生まれ「角川」という名を隠して関連会社に就職し、その一方で夜はスナックを経営する―という形で社会人のスタートを切っている。角川に入社してからも、社長の反対を押し切って『ある愛の詩』を公開して成功を収め、社内の地位を固めたらしい。私がまだ10代のときに大ヒットした映画だ。その美しい音楽と共に「愛とは決して後悔しないこと」という台詞が記憶に残る。その後だったと思うが角川春樹は、新人女優・薬師丸ひろ子を売り出しに掛かる。私は当時たまたま東京へと旅立っていた。東京駅近くの車窓から「薬師丸ひろ子」という―ただそれだけを描いた巨大な看板が目に何度も飛び込んできたものだ。後にも先にも、あんな名前だけの巨大な看板は見たことがなかった。その時は新人女優ということすら知らなかったが、名前だけは印象的で記憶に残った。こういう売り出し方をしたのも、角川春樹が最初であった。

その後も『悪魔が来りて笛を吹く』や『人間の証明』の大ヒットで、映画製作プロデューサーとして手腕を発揮していく。松田優作が個性を発揮し始めたのも角川映画だ。『人間の証明』は森村誠一の原作だが、この映画化がなければ森村誠一という小説家もメジャーにはなれなかった。この作品以前から、私はこの作家に興味を持って愛読していたが、文章が硬く、情緒的深みに乏しく、ストーリーとして面白いが文学作品としては薦められないタイプの作家だった。ただ構成能力は大変に優れた作家であった。要するに素質はあるが人気の乏しい作家だったのだ。ところが角川春樹が映画化したことによって“ベストセラー作家”へと変身してしまった。もはや“過去の作家”であった横溝正史ブームを再び起こさせることに成功したのも、角川作品として巨費を投じて宣伝し、映画化に成功したからだ。新人女優として、原田知世を売り出したのも角川映画だった。つまり、彼は様々な“未知の才能を発掘する”ことにたけていたのだ。

自らも筆をとり、俳句集『花咲爺』で蛇笛賞を受賞するなど才能を発揮した。現在も俳句雑誌を出し続けている。古代船「野生号」を建造して航海するなど冒険家でもあった。出版社長業としては今では当たり前となっている文庫本に大衆小説を加えた功績が大きい。ただ、その半面、私生活は無茶苦茶だった。五度の結婚と離婚、コカイン密輸事件による逮捕と拘留、追われるような形で角川書店や角川春樹事務所のトップの地位を譲るなど、本当に波乱に満ちているのだ。

彼のような“生き方”には、当然批判もあるだろう。公私混同の激しすぎる人物でもある。自ら「魂はスサノオノミコト」と主張するなど“危ない部分”もある。ただ「運命」というのは不思議で、彼がいたからこそ松田優作や薬師丸ひろ子や森村誠一が“世に出て”それぞれの個性と才能を花開かせたことは間違いがないのだ。“個性”と“才能”と“狂気”は紙一重であり、“人間の運命”というのも又、紙一重で…大きく異なった方向へと切り変わっていくものなのだ。

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