1月, 2010年

デフレとインフレが世界を変える

2010-01-30

安いといえば人は集まる―TVを見ても、新聞を見ても、最近は“安い”“安い”のオンパレードである。まるで“安く売ることが時代を制する者だ”と言わんばかりの報道が多い。確かに“高級品”“ブランド品”“高価格商品”の売れ行きは総じて良くない。百貨店業界の落ち込みがそれを象徴している。景気自体がパッとしないのだから、少しでも安い商品へと客が流れるのは、ある意味で当然ともいえる。私自身だって、懐具合が良くないときには自然と“安い”方に傾く。どんなに高級で良い品物であると解っても、そちらには手が伸びない。消費者の感覚というのは比較的みんな似ているもので、例えばインターネットの商店街で、昨日まで在庫があった商品が今日になったらもう無くなっている―というケースは珍しくない。元々高価な品やブランド品でも、珍しく安くなっていて「欲しい」と思っても何故かすぐには決断がつかなくて翌日になったら、もう「売り切れ」と表示されているケースだ。その瞬間、高価な品物であっても通常より安ければ欲しい人は多いのだ、と気が付く。そして決断できなかった自分を悔む。まるで“セール品の山”に群がる主婦のようで何とも浅ましく、恥ずかしいが事実なのだから仕方がない。良いモノを安く求めたい―という心理は自然なことなのだから、恥じる必要はないのかもしれないが、もしかして待っていれば“もう少し安くなるのでは…”などと邪まなことを考えた自分が情けないのだ。

日本国内のニュースだけ見ていると、あたかも世の中は“デフレ一色”で、ものみなすべてが値下がりしているように感じられるが、新興国などでは必ずしもそうではないし、天然資源はむしろ“じわじわと値上がりしている”モノも多い。どちらかといえば先進諸国の株価が依然停滞し、天然資源豊富な新興諸国の株価が再び上昇し始めていることは注目すべきだ。世界は広く、世の中は複雑で、何事も一辺倒の見方だけで捉えられるものではない。

最近の日本では「モノが売れない」とよく言われるが、実際には「モノが溢れていて」いつでも手に入るから買わなくなって来ているだけなのかもしれない。或いは“吟味しながら買う”ようになっただけなのだ。情報化社会は「選択・選別の時代」でもあるが、同時に「縁の時代」でもある。人でも物でもそうであるが“縁”があって初めて“知り合う”ことができ“触れ合う”ことができる。人でも物でも溢れているからこそ“出逢い”は貴重で、それによって“人生が劇的に変化”していくこともある。私は時々、本をまとめ買いする。その多くは占術書だ。ネットで注文することもあるし、カタログから注文することもある。新刊の場合もあり、古書の場合もあるが、古書は総じて価格が高い。このデフレの時代に、古書だけは価格が中々下がらない。モノの価格というのは“需要と供給”の関係で決まっていくものなので、そういう点では“高くても求める人々がいる”証とも言えるだろう。高くても“出逢えて良かった”と思う本もあれば、中身を見て唖然としてしまう本もある。新刊書ではるかに安く、きれいで読みやすい類似本があったりすると我が眼力のなさにガックリと来る。もっとも、カタログだけで購入する本は書名と著者名しか判らない。ほとんどは表紙さえも見ることは出来ない。言ってみれば勘で買うのだ。だから最近は高額な本はなるべく買わない。私は“財産”としてとか“収集家”として本を購入するわけではない。あくまでも実占上の参考になるか、研究対象としての価値があるか、という観点から購入する。だから、仮にそれを所有していて財産としての価値が上がったとしても、そのこと自体には何ら興味がない。大体、貴重な本なら売るわけがない。それに私は購入した本に対して“丁寧に扱った”試しがない。それが貴重であればある程、線を引いたり、折り曲げたり、破いたりで、ボロボロにしてしまう。きれいなままなのは私にとって“つまらなかった本”だ。

それだけに、それが新刊であれ古書であれ、滅多に出会えないような貴重な本に出会った時の喜びは大きい。人でもそうであるが、出逢いというのは「縁」で、今のように情報があふれ、物や場が溢れていればこそ、かえって“出逢えそうで出逢えない”ケースは多いものだ。それだけに“出逢い”は大切にしたい。占いだって「お見合い」ではないが“波木星龍のような占い”を求めている方はまだまだ“いるもの”と思われる。けれども、縁がなければ、結局“実際に占って”差し上げることは出来ない。不思議なもので、九州在住の方であっても、占う機会に恵まれる場合もあるし、同じ札幌市内に居ながら、中々巡り会えないままの方もいる。

話は戻るが、新興諸国の中には明らかに“経済が右肩上がり”で、その内、先進諸国を抜いていくだろうと思われる国もある。そして、それを私に予感させるのが、デフレとは逆の物価全体がインフレ気味になりつつある地域だ。早い話が、やや乱暴な論理かもしれないが、デフレ気味の国は景気が下降しやすく、インフレ気味の国は経済が上昇しやすいのではないだろうか。その色分けが、最近妙に判然としつつあるような気がするのは私だけであろうか。何十年か経った時、今の新興諸国の方が、全体的に世界経済をリードしている…というような状況が現出するのかもしれない。

「おみくじ」の“占い”と、「占い師」の“占い”

2010-01-15

日本人の多くが正月になると神社へ向かう。日頃それほど信仰心があるとも思えないような人までもが、どういう訳か神殿に向かって手を合わせようとする。大きな神社であればあるほど大混雑で、長時間並んでやっと賽銭箱の前まで辿り着いても、手を合わせられるのは一瞬で、とても“きちんとした祈り”など捧げられそうもない。それでも人々は賽銭箱にお金を投げ入れようとする。何となく賽銭箱にお金を入れないと、お参りした気にはなれない。あの箱は不思議だ。財布を引き寄せる磁石でも付いているのか。

お参りした後で、多くの人は「おみくじ」も引く。100円だったり、200円だったり、300円だったりする。どこが違うのかはよく分からない。これまで「おみくじ」を引いたことがない…というような人はいるのだろうか。そして当然のことだが占い結果を見る。「大吉」「吉」「小吉」「中吉」「半吉」「末吉」「小凶」「凶」…とあるらしいが、幸いなことに、私自身はこれまで「凶」を引いたことはない。私の友人に「凶」を引いた人物がいて「別に悪いことなんか何にもないよ」と笑っていたが、その年の12月になって父親が亡くなった。まあ84歳だから、悪いことといえるかどうか微妙だが、吉年とは言えなかっただろう。そうすると案外「おみくじ」もバカには出来ないのかもしれない。実際、私は元旦と3日に神社へと出掛けて「おみくじ」を引いた年があり、その両方とも「大吉」だった年は確かに“幸運”だった。神社ではないがヨーロッパに旅行した時、イタリアの教会だったが、ロウソクに灯を燈して“祈りを捧げると願い事が叶う”という祭壇があって、私も購入して灯を燈そうとしたのだが、何度やっても私のだけ灯が点かなかった。そうしたら帰国後、願いが叶うどころかトラブルが続発したものだ。

こういう神仏に関連した占い?というのは各地であるが、海外などでもこれまで結構行ってきた。妙な言い方になるが、神仏による「おみくじ」的な占いは、どういう結果が出ようと責任を問われることがない。台湾では何と「下下下」という結果が出て、ガイドも思わず絶句していた。日本語的にいえば「運勢は下の下の下」ということで最低だった…という訳だ。まあ、頼むよ神仏さん。

最近の“マスコミ向け占い”は、運勢の順位を星座順に与えたりするが、個人を対象とした占いで「下の下の下」はさすがにキツイ!。それでも許されるのは“神仏の判定”だからだ。大体、当たるかどうか全く責任を取らなくても、どこからもクレームが付かないようになっているのが「神仏おみくじ」のすごいところだ。私など最初に種々当てて見せて、ようやく信頼を得て“将来の判断”を行っても許されるというのに…。

それにしても日本の神社仏閣というのは、海外の教会とか寺院とかに比べて“地味な印象”を持つのは私だけであろうか。もう少し華やかさがあると、もっと観光客を呼べるのに…等と不謹慎なことを考えたりしてしまう。東南アジアにある仏教系寺院、或いは道教系寺院の多くは“御守り”も派手である。日本のように“お札”だけが入っているのではない。考えてみると、御守りというのも神社へ行けば誰もが購入してしまう“魔法のグッズ”だ。つまり「お賽銭」「おみくじ」「御守り」の“三点セット”こそ、神社を神社として守り続けている“必殺収入源”なのかもしれない。それぞれの単価は低いとはいうものの“礼拝者の数”を掛け合わせると、何とも巨額が投じられている計算になる。う~ん、神社は何と素晴らしい収入源をお持ちであることか。我が家にも早速「お賽銭箱」を用意しなければ…。

いや、待てよ。大体、私は何で神社へ行き、何で「おみくじ」を引き、何で御守りを購入するのか。私は“占い師”ではなかったか。おみくじを購入するくらいなら、自分で運勢を占えば良い。その方が手っ取り早いし、その方が当たるではないか。御守りだって製作できる。何でわざわざ「おみくじ」を買い、何でわざわざ御守りを購入するのか。おかしいではないか。いや、おかしいというなら毎年種々の『開運暦』を購入したり、占いの入門書を未だに種々購入したり、海外へと出掛けて種々の占い師に観てもらうこと自体おかしいし“ムダな行為”ではないか。仕分け人がいたなら、真っ先に切り捨てられてしまいそうなものではないか。恥ずかしくないのか。こんなことをやっているから「一流占い師」から「三流占い師」へと“格付けチェック”で落っことされて“世の中”から消えてしまうのだ。この“愚か者めが!”――ということで、今年も自虐的に新年をスタートするのであった。

手相の変化と運命の変化

2010-01-04

年末から年始にかけて、私のところには毎年恒例のように“新たなる年の運勢”を観てもらいに来る人たちがいる。私の鑑定法の特徴の一つは金色のスタンプインキを使って“手型を採る”ことだが、これまで何回も観ている方、毎年のように観る方の場合は手型を採らないこともある。ただ、手相が大きく変化してきた場合は必ず採取する。したがって、私は或る意味で“手型コレクター”だ。理論よりも実践を重視する私は、この眼で確かめたことでなければ、どんなに多くの“占い教科書”に書かれてあった解釈であっても、決して信じない。駆け出しの頃、それで失敗してきたからだ。そういう意味で、真実を物語る手型は貴重なのだ。

大体が、西洋系でも東洋系でも、外国の翻訳書・権威書を信じ奉っている占術家ほど信用できないものはない。そういう人は“自分自身の確かな研究がない”ことをひけらかしているようなもので、自分自身の目で“検証する”という作業を行おうともしていない。占いを、いったい何だと思っているのか。

同じ人の手型を何枚も所有している私は、数年間の違い、時には十数年間とか、二十数年間とかの違いをも、保管していることになる。当然、そうして来なければ分からない変化に気付くこともある。手相の変化は、そのまま“運命の変化”である…と自信を持って言い切ることができる。逆にいえば、この“手相の変化”があるから、私はためらわず、依頼者の手を観ることが出来るのだ。もし手相が全く変化しないなら“運命は変わらない”ということになり、どう努力しようが、頑張ろうが、どうにも出来ない…ということになって、実際のところアドバイスが意味を持たない。手相の変化は“運命は変わる”ということを証明してくれていて、だから自信を持って現在や未来の運命を“変えるためのアドバイス”も役に立とうというものだ。

手相でも人相でもそうであるが、相の変わり方というのは人それぞれであって“急激に変わる人”もいれば“徐々に変わっていく人”もいる。当然のことながら“良く変わる”場合もあれば“悪く変わる”こともある。“運勢に先んじて変わる”ケースもあれば“運勢を追っかけるように変わっていく”ケースもある。必ずしも一様ではない。ただ明確なことは、手相でも人相でも“二重意義”というのがあって「相」というのは決して“一つのこと”だけを表しているのではない。この事実を、実はプロの占い師でも、知らない方が多すぎるのだ。その結果として、間違った予言を平気で行うことになる。

例えば手相で「結婚線」と呼ばれている線がある。この線に対して、多くの手相家は“結婚について表している線”だと誤解している。ところがそうではないのだ。この線は“その人の「性愛対象」となる特定人物との関係”が表されている線なのだ。従って「結婚」そのものを表す線ではない。例えば“交際している男女”で、妙な言い方だが“性愛対象”となって何年も経っている場合、当然、その関係は「結婚線」に反映される。したがって、仮に“結婚するつもりがなかった”としても、その意思には関係なく結婚線に反映される。つまり手相家が、その線から“結婚について判断・予言”しても当たるはずがないのだ。実質的な関わりのない“片想い”の場合はどうかというと、相手側にその意識が全くなくても、本人の中で明らかな「性愛対象」となっていて、将来的には結婚も意識し、その想いが長期に亘っている場合、その相手からの影響力は結婚線に反映される。独身で何本も結婚線が刻まれているのは不思議なことではないのだ。では“職業としての性愛”はどうなのか? というと、職業意識が先行しているなら、当然、性愛対象になっていないから、結婚線には反映されない。どんなに“その行為”を行っても“職業行為”としての意識しかないのだから反映されようがないのだ。この辺のところをきちんと踏まえていないと、正しい鑑定は出来ない。

もちろん、入籍しているとかいないとか、結婚式を挙げているとかいないとか、同性愛であるとか近親婚であるとか、何回目の結婚であるとか内縁・同棲であるとか…種々な問題に関係なく“性愛対象となる特定人物との関係”なら、この線に反映されている…と思った方が良い。その反映の仕方だが、実は“今現在の状態”と“将来的な関係”とが、同時に“結婚線には表現されている”のだ。ここも誤解の多いところで、片方だけが示されているわけではない。だから今現在の状態を読み取ることもできるし、将来的な関係を予測することもできる。専門的になるので書けないが、同じ結婚線でも、その読み取る場所は微妙に異なる。但し「将来的な関係」はあくまでも“その可能性”であって“一つの結論として用意されている可能性”にすぎない。決定的なものなどではないのだ。なぜなら、結婚線の形状が変わる可能性を持っているからだ。変わる可能性を持っているものを捉えて、断定的な判断は出来ない。

したがって「何歳のときに結婚する」とか「結婚できない」とか「何回結婚する」とか「結婚しても離婚する」とか、いろいろな判断・予言を行う手相家がいるが、上記のような基礎的事実を踏まえれば、この線だけから“やぶから棒に結婚を予知する”のは極めて危険な判断だと言える。昨今のように“単純・明快な結婚生活”のみの時代が去って、独身主義者、事実婚者、同性愛者、離婚経験者、籍は入りながらの単身者など複雑な文様が“結婚鑑定に加わる”時代に入りつつある現代―占いが「結婚」というものを確実に捉えるためには、もう少し手相家自身が“手相の根本的な基礎知識”を見直す時代に入ったとは言えないだろうか。

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