10月, 2015年

四柱推命の謎と真実

2015-10-30

占い業界に大激震! 鬼才・波木星龍先生による四柱推命占いの脱構築! ここまで解明しちゃっていいんかい! 東洋占術の最高峰といわれる四柱推命。習熟すればこれほど的中率の高い占いはありませんが、一歩まちがうと迷路をさまようことになりかねません。これから四柱推命を学びたい方はまず本書を読むことをお勧めします。 既存の四柱推命の本をいくら読んでもわけがわからなくなるのは当たり前。本書は四柱推命がその成立過程から背負っていた問題点をていねいにひとつづつ解き明かし、豊富な実占的経験と哲理によって真に実用的な占術として再構成。

日本の推命学をリードした人々

2015-10-30

日本における四柱(子平)推命学の歴史の始まりは、それほど遠いものではありません。

それどころか、西洋占星術が日本国内に採り入れられた年代よりも、四柱(子平)推命が日本国内に採り入れられた年代の方が、はるかに遅いのです。どのくらい遅いのかというと、おおよそ700年ほど遅いでしょうか。ただ、西洋占星術の方は一時期、完全に命脈が断たれているので“空白期間”が長く、そのため四柱推命よりも後から入ってきた占術であるかのように誤解されているのです。

解りやすくするため、主要研究家の特徴などを比較しやすいよう箇条書きとします。

桜田虎門

『推命書』全三巻 1818年刊 / 仙台藩の漢学者

中国の「淵海子平」の和訳書だが、実占書ではなく誤訳と省略が多い内容の書。“長崎の蘭法医”という説もあるが、実際は仙台藩お抱えの漢学者だったらしい。この人には『五行易指南』の著書(訳書)もあるが、実占家と言える人物ではない。

松本義亮

『四柱推命奥儀秘伝録』全五巻 1902年刊 / 「天祥館」創設の実占家

独学で中国の古書「淵海子平」と「星平会海」を研究。
日本の風土に合った「子平」を完成させ、「四柱推命」と名付けて実践した。
1908年、長崎から大阪に居を移し、以後80歳で死亡するまで普及に努めた。

山岸乾斎

『推命宝鑑』全三巻 1907年刊 / 真言宗の僧侶

四国出身。おそらく独学で中国の「淵海子平」や「星平会海」を研究。
「淵海子平」の解説書とも言うべき内容の『推命宝鑑』を最初に出版。
「星平会海」の解説書とも言うべき内容の『造化之枢機』を後に出版。

伊藤耕月

『実地研究・四柱推命秘伝書』全三巻 1912年刊 / 京都に「神祥館」創設

鳥取県出身。印刷業を営みながら、松本義亮に師事。
その後、「天祥館」との間でトラブルが生じ、やがて裁判沙汰にまでなった。
『四柱推命秘伝書』の内容は、松本氏の著書とほぼ同様で、新たな研究はない。

阿部泰山

『四柱推命学大奥秘伝』 1924年刊 / 『阿部泰山全集』全22巻が有名

淡路島出身。京都の自宅で定期的に推命学の講習会を開き、門人の育成に努めた。
門人の中から実占家として活躍した人も多い。本人は研究と普及を主としていた。
『阿部泰山全集』は推命だけでなく「紫微斗数」や「六壬神課」も含んでいた。

高木 乗

『生まれ日の神秘・四柱推命学』 1930年刊 / 「命理学会」創設

新聞記者出身で、確かご子息の早世が発端で、推命学を研究し始めたらしい。
やがて、関東では彼が主宰する「命理学会」が、推命学の一大勢力となっていく。
彼が発行し続けた月刊誌「人」も、推命学の全国的な普及という点で一役買った。

中村文聡

『波動命理学』 1936年刊 / 「日本運命学会」創設

18歳で家を飛び出し、21歳で『人相と手相の神秘』を出版、一躍有名となった。
四柱推命関連では『推命判断秘法』で、推命学における自身の研究を集大成。
中国の原書『韋氏推命学講義』や『新命理探原』の和訳も行い、普及に努めた。

宇田川豊弘

『四柱推命学大奥秘』全十二巻 1946年刊 / 「弘聖會」創設

キリスト教系の「日本エホバ教団」と深く関係している人物らしい。
最初は四柱推命に対し『紫苑議定書』という謎の書名を与えている。
四柱推命とは別に『運命学の科学的研究』という姓名学主体の著書もある。

石橋菊子

『四柱真髄推命の秘訣』 1947年刊 / 石橋方象学院創設

阿部泰山に学ぶ。その後、比較的早く独立して石橋方象学院を創設。
1936年に中国の推命家・陳耕山原著『新訳・三才発秘』全三巻を訳出・出版。
関西における推命学の普及にも大いに貢献。多数の門人・実占家を育成。

増永篤彦

『新推命学』上下巻 1951年刊 / 日本心理学会員

京都大学・大学院卒。臨床的性格学の研究を兼ね、実証的に四柱推命を研究。
数多くの珍しい実例命式を著書に掲載。『推命実例鑑定要訣』の著書もある。
心理学者として『人の研究』、『性格の発見』、『性格入門』等も刊行している。

西川 満

『人間の星』1959年刊詩人・小説家・算命家

会津若松市出身だが、幼くして父親の関係で台湾に渡り、台湾の新聞記者となる。
その後、『台湾風土記』等発表。小説家として第22回直木賞候補ともなっている。
算命学にも造詣深く『千里眼算命』、『人間の星奥の奥』、『星の連環神示』がある。

火山博幽

『高等推命哲学口伝』 1964年刊 / 推命行動哲学研究所創設

推命学を通じての「行動哲学」というものを打ち立てようとしていた形跡がある。
他にも『推命百法解論』や『推命追判断幽義』等の独自研究書も出している。
また、内容不明ながら『占法要訣奇弁抜粋』という著作も発表している。

板井祖山

『命運を拓く・四柱推命学入門』 1965年刊 / 関西拠点の推命家

実占主体の推命学研究家。自らの波乱に満ちた前半生から推命家を志した。
『四柱推命学奥儀』、『四柱推命学応用』、『四柱推命学の叡知』と独自色を強めた。
基本は阿部泰山方式。本格的な研究書としては『推命学真解精義』がある。

佐藤六龍

『四柱推命術奥義』 1966年刊 / 運命学専門出版「香草社」創立

大阪出身だが東京を母体として活躍。新聞記者が前身。多数の師に付いた。
台湾の張耀文と組み「中国・透派」に継承されてきた占術を広く普及させた。
箱入りの『四柱推命十干秘解』、『四柱推命術密儀』、『四柱推命術極秘伝』等多数。

加藤普品

『子平真詮和解』 1968年刊 / 現「聖至会」創設

漢文に精通した実占型の推命研究家。中国の推命家からも高い評価を受ける。
『子平真詮精解』の著作もある。活躍中の丹藤龍則や山口荘令の門人を育てた。
断易においても「普品流断易」として独自色を打ち出している。

朝田啓郷

『推命学の革新』全二巻 1970年刊 / 「日本推命学会」創設

実業家としても成功した人物で、推命学のデータを集めるため財産を投じた。
その成果として表したのが『推命学の革新』及び『革新推命学入門』であった。
月刊誌「推命学界」も発行し、推命学の実占的な研究・啓蒙に精力的に挑んだ。

内田明道

『四柱推命術』 1972年刊 / 独自理論を展開する実占家

最初は「黒潮太平児」、次に「内田勝郎」、最後に「内田明道」と名乗った。
終戦後シベリアで捕虜としての生活期間が長く、運命を研究する発端となった。
『四柱推命の原理と暦』、『四柱推命不老学』、『四柱推命占い』等の著作がある。

武田考玄

『滴天髄和解大全』全四巻 1973年刊 / 「日本命理学会」創設

放送プロデューサーを経て、推命学の本格的講座を開設、多数の門下生を育てた。
徹底した“科学的理論”が売りだが、多少理論に溺れ過ぎの感が否めない。
『考玄命稿集』では、不明な生れ時刻を“勝手に創作”して命式を出している。

中田青山

『通変星喜忌選別法』 1976年刊 / 「命理研鑽会」創設

「滴天髄」、「窮通宝鑑」、「子平真詮」等、主に中国原書の和訳本を手掛ける。
四柱推命の普及を目的とした『命理入門』全十三巻を継続的に執筆し続けた。
彼の書籍は基本的に“手書き”ガリ版刷りで、実占生活に基づいている。

中井瑛祐

『中国推命術』 1977年刊 / 「中井運命学教室」創設

16歳のとき、高木乗の推命学の著作を読み、運命学の本格的研究を志す。
主に中国原書を頼りに独学で推命学を学ぶ。理論に傾かず、実例研究にも熱心。
研究者向けの『四柱推命実験録』の著作もある。『大六壬占術』も執筆している。

安田 靖

『実践四柱推命学』 1978年刊 / 「日本推命学研究所」創設

初代・高木乗に学んで、実業家から推命家に転身。各地に推命学教室を開く。
通信教育用「四柱推命学ビデオ」や、「四柱推命干支早見表」も制作する。
やがて『五行推命学』を出版、五行主体の独自の見方を確立し普及させる。

槇 玉淑

『天徳占星術入門』 1979年刊 / 虎門流推命学の研究家

小中学校教師を経て占術家となる。推命学では、何故か「虎門流」を名乗った。
実例主体の推命学実占が特徴。『羊刃殺入門』、『健康推命入門』等の著作もある。
女性向けに書き上げた『女の四柱推命』や『愛の四柱推命』も興味深い。

高尾義政

『原典算命学大系』全十一巻 1980年刊 / 「朱学院」創設

中国の戦国時代に起源をもつという「鬼谷子算命学」の第十三代宗家とされる。
長崎に亡命した中国人算命家・呉仁和から、膨大な体系を伝授されたと言われる。
専門書はべらぼうに高価だが、『天中殺算命占術』など廉価の入門書もある。

亀石厓風

『四柱推命学事典』 1980年刊 / 「大乗推命学会」創設

現代風にアレンジした四柱推命学を展開。全国各地に推命学教室を開く。
『四柱推命学現代看法』や『四柱推命学看命辞典』は類を見ないような大書。
その一方で、『こんな男と結婚するな』、『玉の輿で大開運』など入門書も多数。

西澤宥綜

『命譜春秋』 1981年刊 / 「五立命学会」創設

暦法の研究家でもある。また、推命学の学術的観点からの研究にも優れる。
手書きであり、高価だが、資料として貴重な研究書を多数出版している。
『現代命譜総覧』、『計量推命学・看法』、『癌の推命看法』等の専門的書籍がある。

鮑 黎明

『中国命理枢要』 1983年刊 / 「中華星相学会」創設

日本に亡命した父と、新聞記者だった母との間に生まれ、十代から占術に親しむ。
どちらかというと「紫微斗数」や「風水」の方で注目すべき研究・著作が多い。
推命書としては『先天八字大占術』、『桃花運―愛の占い』等の入門書もある。

北条一鴻

『三元四柱推命』 1986年刊 / 諸葛流四柱推命継承者

自らの占術・著作を“諸葛孔明からの真伝”とし、その継承者と自認する。
「奇門遁甲」がメインの研究家で、孔明等の中国兵法の研究から入っている。
どの流派とも異なる“命式の立て方”で、「命宮」を求めるのが一番の特徴。

翠 真佑

『男と女の宿命星』 1986年刊 / 「真佑会」創設

夫の仕事の関係で東南アジア滞在中に、中国正統の「命主占法」を伝授される。
専門書として『中国命理四柱推命』の著書もあるが、優しい実用書執筆が多い。
古神道研究家でもあり「箱根九頭龍神社」の発揮人。政界・財界に信者が多数。

阿藤秀夫

『透派秘伝―子平大法』 1995年刊 / 「古代中国運命学研究所」創設

「阿藤大昇」の別名も持つ。明治大学でフランス文学を専攻。緯書の研究家。
中国占術の歴史的文献を収集、整理、比較研究を行い、独自の解釈で実占研究。
『三命奇談・滴天髄』、『子平管見』、『子平の体系』など歴史的にも貴重な占術書。

推命学研究の異説について ―その2・蔵干―

2015-10-30

「四柱(子平)推命」という占術は、元々“異説”が多いのですが、その中でも多くの異説にあふれているのが「蔵干」と呼ばれているものに関する異説です。

「蔵干(ぞうかん)」に対しては、すでに“vol.9”の記述の中で若干の説明もしているのですが、ここにあらためて“その全体像”について、明らかにしておきたいと思います。

まず「蔵干」とは一体何なのか、という点についてですが、文字通りでいえば「蔵されて(隠されて)いる十干」ということで、十二支の中に含まれている“十干としての作用”ということになります。なぜ、隠されている十干を求めるのかと言うと、年干・月干・日干・時干は、その総称として「天干=天元」と呼ばれ、年支・月支・日支・時支は、その総称として「地支=地元」と呼ばれ、四柱八字の干支の中に「天元」と「地元」は含まれているのですが、「人元」が含まれていなかったからです。つまり、推命判断の基礎となる“命式”の中に「人元」が欠けているので、それを抽出して“三元による推命学を成立させようとした”ということなのです。

それでは、何故、推命をするのに「三元」が必要なのかと言うと、古来、中国では「運命」が構成される三要素として“「天」・「地」・「人」の三元が必要”と捉えていたからです。「三元」或いは「三才」と呼ばれるものが備わらなければ、“運命が形を成すことはない”という捉え方なのです。これは、すべての中国占術に共通した考え方です。そこで、個々の運命を推し量るために、「人元」となってくれるものを「支蔵干」に求めたのです。

こうして支蔵干(厳密には、年支・月支・日支・時支の蔵干すべてだが、通常は「生まれ月日から求める蔵干」が代表する)は、「人元」として命式を彩り、四柱推命の“核をなす”存在へと変わっていくことになります。日本では「生まれ月日から求める蔵干」を指して「月支元命」とか、ただ単に「元命」と呼ぶことも少なくありません。

それでは、この「人元」(月支元命)である命式上の「蔵干」は、どのような意図のもとに表出されているのでしょうか? 実は、これに関しては“流派”“門派”によって違いがあるのですが、その代表的なものをいくつか比較してみることにしましょう。

★古典原書の「月律分野表」に基づく蔵干

A『玉井奥訣』による蔵干表

月支余気中気正気
月支余気中気正気
戊・壬

B『淵海子平』による蔵干表

月支余気中気正気
月支余気中気正気
戊・壬

C『三命通會』による蔵干表

月支余気中気正気
月支余気中気正気
  庚

★「古歌」に基づく蔵干表

月支余気中気正気
月支余気中気正気

★「節気蔵干」説に基づく蔵干表

月支余気中気正気
月支余気中気正気

★「特異な蔵干」説に基づく蔵干表

月支余気中気正気
月支余気中気正気

*表中「―」の部分は、それに該当する蔵干が存在していないことを表わしています。

これらの蔵干表には、あえて日数を示しませんでしたが、それぞれの蔵干は「月支」への節入り後、何日を経過して生まれているかによって、「余気」「中気」「正気」の“どの気の区分”に属しているかが定まり、“その蔵干”がもっとも強く作用する、とされています。けれども、各期間の日数には様々な説があり、頭から中気を採用しない流派も存在しています。同じ十二支の中でも、中気を用いる流派と、そうでない流派があるなど“統一的見解”“明確な根拠”は見受けられません。したがって“蔵干の区分”というものは絶対的なものではなく、あくまでも“一つの目安”として捉えるべきです。

「蔵干」の根底にあるのは“十二支に隠されている五行作用”です。

「十二支五行」は、十干と異なり“専一ではない”という点が、蔵干を複雑なものとしているのです。そして、その“遠因”としてあるのは、古代エジプトの“デカン思想”なのです。

推命学研究の異説について ―その1・暦―

2015-10-30

四柱(子平)推命を始めとして、東洋系の推命学占術の根底にあるのは「干支暦法」です。

ところが、この干支暦という暦は、必ずしもすべての占い師が同一の暦区分を用いているわけではありません。しかも、占術の種類によって用いる暦法を変えているケースなども見られます。

たとえば、“一年の起点”や“一日の起点”を、どこに置くか…という問題があります。

一般的な干支暦においては、西暦の2月4日前後に当たる「立春」を“一年の起点”として、暦における新しい年度の起点・出発点として捉えています。

ところが、それに異を唱える研究者もいるのです。

西暦2010年・日本の旧暦西暦2010年・台湾の五術暦

日本の江戸時代の暦内田明道による「年の境界」

たとえば、12月22日前後の「冬至」を“一年の起点”として捉えようとする研究者がいます。

また、旧暦(太陰太陽暦)による「1月1日」を“一年の起点”として捉えていた研究者もいます。

或いは、1月6日前後の「小寒」を“一年の起点”として捉え直した研究者もいます。

さらには、旧暦による「12月1日」を“一年の起点”として伝承し続けている研究者もいます。

干支暦上において「立春」が“一年の起点”として定着したのは、今から2100年ほど前のことです。とはいうものの、必ずしもそれで各種占術の起点を統一してきたわけではありません。

現代でも多くの門派・流派では、たとえば「紫微斗数」や「星平会海」では、旧暦「1月1日」を“一年の起点”として扱っているからです。また「奇問遁甲」や「九星気学」では「冬至」を“一年の起点”として扱うとか、冬至前後の「甲子日」を“一年の起点”として扱っているからです。さらに「風水」では、「小寒」を“一年の起点”として扱っているケースもあるからです。

四柱(子平)推命において、年初「冬至」説を主張している研究者に内田明道や加藤普品がいます。ともに実占を重視した推命家で、内田氏は十万人以上を鑑定した結果として、年初「冬至」説を主張されています。

旧暦(太陰太陽暦)による「12月1日」(原初の暦11月1日)年初説を主張している研究者に北条一鴻がいます。これは「鬼谷子算命学」と同様な異端推命学の一派による伝承を守っているからです。

年初「小寒」説を主張している研究者に台湾の陳飴魁がいます。陳氏は実占的なデータから、年初とする区切りが「小寒」の切り替わりからが「もっとも妥当」と捉えているようです。

このように、必ずしも「立春」年初説だけが存在しているわけではないのです。

これに関連して、真勢易龍などが主張する「黄帝復古暦」説というものも紹介しておきましょう。

これは年初の区切りとしては「立春」で同一なのですが、暦の起点が「甲寅年・甲寅月・甲寅日・甲寅時」の“甲寅暦元説”を採用していて、そのために十干を2つ移動させた「月干」を並べた干支暦を「黄帝暦」として推命に用いています。

確かに「黄帝暦(伝承上だが黄帝時代の暦)」だけでなく、古代の「夏暦(これも伝承上だが「夏王朝」時代の暦)」なども「甲寅」を干支の筆頭に持ってきていました。また、中国の戦国時代(紀元前600~250年頃)における天文記録を見ると、「寅の節」「寅の刻」をいかに天文観察上で重要視していたかがわかります。

この流派の場合、干支暦上の1日の区分も―午前0時からではなく「寅(午前3時)」時刻から開始する―としているのが特徴です。つまり午前2時頃に生まれていたとしても、「黄帝暦」上は「前日の生まれ」とみなすのです。

実は、この1日の区分についても、古くから異説はあります。「子の刻(午後11時~午前1時)」の中間に当たる「午前0時」を起点とするのが一般的ですが、「子」の開始時刻としての「午後11時」からすでに1日が始まる―として、午後11時を過ぎて生まれた児は「翌日生まれとして扱う」という流派も存続し続けています。

もう一つ、注目すべき干支暦を紹介しておきましょう。

それは「チベットの干支暦」です。ここでは、もともと存在している「チベット暦」による「1月1日」が“一年の起点”となります。さらに“一日の起点”も午前0時ではなく、「チベットのおける日の出時間」を採用し続けています。

西暦2010年・チベット暦

この「チベット暦」は、実は台湾で発行されている『五術万年暦』に記されている「農暦」と“1日のずれ”しかありません。他には“閏月の組み込み方”が違っているのですが、多分、同一の暦法原理から作成されているものと思われます。この台湾の「農暦」というのは、日本でいう「旧暦」(太陰太陽暦)と基本的には同一です。したがって「チベット暦」も、元々は中国から伝わった太陰太陽暦なのかもしれません。それにしても、チベットと台湾と両方の地域で、旧暦による「1月1日」を“一年の起点”として採用していたことは注目すべき事実です。

このように占術というのは、古代における“アバウトな仮説・理論”に基づいてスタートしていることを踏まえておかなければいけません。

鬼谷子算命学と四柱(子平)推命学との間

2015-10-30

算命学上の人体図鬼谷子算命学(通称「算命学」)と呼ばれる「推命学」の一分派があります。「四柱推命」を主とする広義の推命学分野には種々の分派があるので、その内の一つが「鬼谷子算命学」であると見ることはできます。ただ日本においてはオーソドックスな「四柱推命学」と、“天中殺”で知られる「算命学」とが、全く別々の推命学でもあるかのように扱われているのが実情のようです。そこで、この二つの占術の共通性と違いを明らかにすると共に、それぞれの優劣についても示しておきましょう。まず歴史的な観点から言うと「鬼谷子」というのは、中国の戦国時代(今から2500年以上前)頃の人で、実際に「四柱(子平)推命」が成立していた時代の人物ではありません。ただ「四柱推命」が種々な呼ばれ方をしている中で、「算命」というのも“一つの呼ばれ方として”存在したことは事実で、すでに述べた推命学原書の誕生過程の中で、『李虚中・命書』(上巻)には「鬼谷子撰、李虚中註」という記載があります。

つまり『命書』として知られる推命学創成期の原書(上巻)は、鬼谷子という伝説的仙人が収集・記述・著作して、それを李虚中が評註した作品ということになっているのです。もっとも、それをまともに受け止める研究者は少ないのです。

大体『李虚中・命書』という表題とはなっていても、実際に李虚中が記述したのは上巻のみ、というのが今日では定説となっています。中巻や下巻には、明らかに後世の手が加えられているからです。そして、上巻の撰者とされている「鬼谷子」も、評註者である「李虚中」自身ではないのか…と視る研究者も少なくありません。

この李虚中自身の推命学で注目すべき部分は「年干支」を「我」として、捉えていた点です。今日であっても、たとえば気学では「生年九星」を「本命星」とし、奇門命理学でも「生年干」を「我」と見立てています。したがって、唐代の推命学において「年干支」を「我」だと捉えたとしても、無理からぬことと視ることができます。それが宋代の徐子平に至って、的中性から「我」を「年干支」から「日干」へと改めた―とされています。

今日の「算命学」が ≪鬼谷子――李虚中≫ の流れに沿った「命書」的な捉え方をする推命学かと言うと、必ずしもそうとは言えません。李虚中の推命学では「年干支」であった「我」が、現代日本に伝えられる「算命学」においては通常の「四柱推命」と同じく「日干」とされていて、そういう意味では、他の推命学流派と同様な原理として登場しているからです。それが原初からそうだったのか、それとも途中から「日干」に変更したものなのか私には不明です。けれども、オーソドックスな推命学との明らかな違いも随所に見受けられます。

まず「算命学」では、「年干支」「月干支」「日干支」を用いますが、「時刻干支」は採用しておりません。確かに『李虚中・命書』(上巻)では、時刻干支までは扱っていないので、そういう意味では古典・原書に基づいての結果なのかもしれません。時刻干支は扱っていないのですが、その占術原理・体系は大変に整っていて、一般の「四柱(子平)推命」を凌駕する統一性があることを認めないわけにはゆきません。もうひとつ、算命学の特徴を際立たせているのは、四柱推命の「命式」に当たるものとして、「人体図」或いは「人体星図」と呼ばれる図表を作成することです。

六親図人体星図

もうひとつ、「算命学」で注目すべきは「六親法」と呼ばれる図表を提出することです。これによって、四柱推命ではあいまいとなりがちな「父」「母」「夫妻」「兄弟」「姉妹」「息子」「娘」などの干関係が明確となるからです。ただし、判然としすぎて応用が利かない欠点はあります。

ここで参考のため、四柱推命上の「通変星」と、算命学上の「十大主星」とが“同一異名の存在”であること、又、四柱推命上の「十二運星」と、算命学上の「十二大従星」とが“同一異名の存在”であることを知っていただきましょう。

算命学上の名称 四柱推命上の名称 五行関係 具体的な意味・作用
貫索星 比肩星 我と同気 自我・独立・頑固・孤独
石門星 劫財星 我と同気 散財・投機・商売・観光
鳳閣星 食神星 我の洩気 飽食・怠惰・自由・安穏
調舒星 傷官星 我の洩気 理想・批評・反抗・正義
禄存星 偏財星 我の剋気 才能・奉仕・情愛・投資
司禄星 正財星 我の剋気 蓄財・家庭・堅実・温和
車騎星 偏官(七殺)星 我の殺気 闘争・重圧・緊張・事故
牽牛星 正官星 我の殺気 名誉・地位・管理・慎重
龍高星 偏印星 我の生気 焦燥・放浪・幻想・人気
玉堂星 印綬星 我の生気 芸術・信仰・学習・伝統
算命学上の名称 四柱推命上の名称 輪廻転生 具体的な意味・作用
天報星 胎星 胎児 前世・変転・機転・多才
天印星 養星 赤子 無垢・愛嬌・養育・援助
天貴星 長生星 出産 恩恵・先祖・思想・名誉
天恍星 沐浴星 産湯 波乱・愛欲・酒食・嗜好
天南星 冠帯星 成人 冒険・我儘・美容・挑戦
天禄星 建禄星 自立 独立・事業・増収・親族
天将星 帝旺星 家長 権威・自我・孤立・決断
天堂星 衰星 老成 思慮・沈着・研究・引際
天胡星 病星 衰退 妄想・芸術・病気・旅行
天極星 死星 死亡 休止・直感・衝動・技芸
天庫星 墓星 墓石 継承・探究・収集・財産
天馳星 絶星 魂魄 多忙・移動・幻想・過敏

このように比較してくると、「算命学」の方が「四柱推命」よりも、学問体系として整っているのではないか―と思われる方がいるかもしれません。けれども、そうとも言い切れないのです。明らかに、歴史的背景として「出生時刻干支」を加えたのは、「徐子平」以降の推命学からです。そして、その“変革期”以降の推命学では「出生時刻干支」に対して、「部下運・子供運・晩年運」が暗示されるものと規定しています。その同じ役割を「算命学」上では、「月干」(部下・子供運)と「日支」(晩年運)に対して与えているのです。それは推命学上の根本的な論理から考えると納得し難く、「徐子平」以降の推命学の“当て嵌め方”の方が妥当と考えられるのです。つまり「鬼谷子算命学」が創始された時代には、まだ「出生時刻干支」を採用出来なかったから、すべてを「月干」や「日支」で代用しなければならなかった―と考えられるのです。

四柱推命と星平会海が共有している星たち

2015-10-30

現代の四柱推命は、実に多くの流派(門派)・研究者によるさまざまな観方・判断の仕方に彩られています。けれども、そのどの流儀に属するにしろ、その源となっているのは中国の徐子平・萬民英・劉伯温など宋代~明代へと続く「四柱(子平)推命の確立者たち」の業績の上に立つものであることは否めません。

その四柱推命の成立過程の中で、採用されてきたモノの一つに「神殺(しんさつ)」と呼ばれる星達があります。現代の四柱推命においては、それらをまったく用いない流派もありますが、多くの流派では採用し続けています。ただ採用している流派でも、どの「神殺」を用いるか、どの表出法を用いるか…に関しては、それぞれに異なっているのが現状のようです。

すでに述べてきたことも含め推測すると、中国における四柱(子平)推命という占術は、下記に示したような研究者や編纂された書籍を経て、確立されていったと考えられます。

古代ギリシャの天文学者でもあったプトレマイオス著『テトラビブロス(四部書=ラテン語)』
中国における「四柱(子平)推命」の原初段階をまとめた李虚中著『命書』
中国における「テトラビブロス」の翻訳書である可能性が強い唐代『(都利)聿斯四門経』
単なる翻訳書からは脱皮しようとしていたらしい張果老著『果老星宗』
翻訳書ではあったが後の「子平原理」の基となった徐子平著?『徐氏続聿斯歌』
中国独自の北斗七星に由来する占星術を体系化させた陳希夷著『紫微斗数全書』
「命書」を基礎とし中国色を前面に押し出した徐子平著『三命消息賦』
「果老星宗」と「紫微斗数」を合体させようとした鄭希誠著『星命溯源』
「果老星宗」と「紫微斗数」と「子平」の三つを合体させた水中龍著『星平会海』
あらゆる中国系の占星術と推命術を総括的に述べた萬民英著『星学大成』

もちろん、このように系統立った形や順序で研究・編纂・発刊されたわけではありませんが、こういった時代的な流れの中で「占術として確立された」ことは間違いないだろうと思われます。その証拠とも言うべきものとして、各占術に共通の「神殺」が使われているのです。

そこで、「紫微斗数」「星平会海」「四柱推命」に共通した「神殺」を、まとめてみたいと思います。

星平会海による出生図

紫微斗数による出生図と四柱推命による出生命式

ここで用いられる「神殺」には、占術によって、或いは流派によって微妙に名称や表出法が異なるモノもあるのですが、ここでは拘泥せず、要するに共通している「神殺」という点だけに注目して、その代表的なものを記していきます。

神殺表出方法具体的な意味と作用
感池(かんち)(三合の原理から表出)酒食に溺れる。男女関係でトラブルを生じやすい。
駅馬(えきば)(三合の原理から表出)移動・旅行運が強い。生地を遠く離れて成功する。
華蓋(かがい)(三合の原理から表出)名誉運を持っている。複雑な家庭環境に縁がある。
文昌(もんしょう)(干から支を見て表出)学術方面で伸びる。試験運が良い。才能発揮の相。
貴人(きじん)(干から支を見て表出)目上からの引き立て運がある。良い師に恵まれる。
羊刃(ようじん)(干から支を見て表出)突発事故や怪我に注意。激しい性質の持ち主となる。
天空(てんくう)(支から支を見て表出)心の空虚さが付いて回る。精神的に満たされない。
禄存(ろくぞん)(干から支を見て表出)金運・財運に恵まれる。職務上の役得にあずかる。
天耗(てんもう)(支から支を見て表出)不意の出費・散財が多い。労働や苦労が役立たない。
孤辰(こしん)(三合の原理から表出)親・兄弟などの縁が薄い。対人面では孤立しやすい。
寡宿(かしゅく)(三合の原理から表出)結婚で幸福を掴めない。配偶者に先立たれやすい。

「星平会海」でも「紫微斗数」でも「四柱推命」でも、数百年間にわたって、これらの虚星(実在しない星)が使用されてきました。それぞれが、明らかに「異なった占術」であるのに、明らかに「異なった占術構造を持っている」のに、誰一人それを矛盾とは感じず、疑問が呈されることもありません。逆な言い方をすれば、これらの神殺には、三占術が共有し合うだけの的確な作用が存在していたと云えるのでしょうか。

「3日=1年」大運法と、 同じ発想だった「1日=1年」進運法

2015-10-30

四柱(子平)推命について少しでも知識のある方であれば、「大運法」と呼ぶ10年間ごとの運気の流れを予知する「仮想進運法」が存在することを知っているでしょう。流派によっては「10年間ごと」に統一していない流派もあるようですが、大運法が採用されているのは共通しています。

生涯にわたる運気の流れを予測する方法としては、その他に「三限区分法」があり、「生月支=初限25年」、「生日支=中限25年」、「生時支=末限50年」の運気をそれぞれ物語る―とする大雑把な判断方法もあります。

もう一つ、日本ではほとんど行われることのない方法に、四柱(子平)推命の「命宮」を使用して、その年の流年運を推し量る方法もあります。この「命宮」を基にした「運気の予測」は、中国系の占星術である「星平会海」や「十二歳建神殺法」でも、古くから用いられてきた方法です。

オーソダックスな大運法に基づく仮想進運では「3日を1年」として扱うのが普通です。

実は西洋占星術にも、「プログレス」と呼ばれる仮想進運法は存在しています。西洋占星術の仮想進運法には「1度1年法」、「1日1年法」、「ソーラーアーク法」、「平均進度法」、「1月1年法」、「後退法」、「惑星サイクル法」、「リターン法」などがあります。

四柱推命が確立されていく年代に相当しているアラビア占星術の時代(中国における五代・宋代・元代の時代)、すでに多くのプログレスの見方、判断の方法が行われていました。一見、種々あって複雑そうですが、実際には、すべて「1日1年法」の変形だと思ってください。

西洋占星術における「1日1年法」は、1日=24時間における見かけ上の太陽(360度間)の動きは、1年=365日間の横道上の太陽(360度間)の動きに相当している―という捉え方から出発しています。したがって、太陽をはじめとする1日後(約1度の移動)の位置変化によって生じる、新たな出生時惑星との関係変化は、1年後の運勢変化に比例している―と考えるのです。

これらに対して四柱推命の大運法は、「3日を1年と見立てる」方法であり、一見すると一致していないような印象を受けます。ところが、そうでもないのです。

四柱推命における「大運法」は、正確に云うと「1干支日=1年法」なのです。

天文暦干支暦

四柱推命の場合、当然のことながら「天文暦」ではなく「干支暦」を用います。干支暦というのは60干支循環による暦なので、1年間の間に「同一干支日」が「6日」存在しているのが通常です。

例えば、ここで例題として掲げた1996年6月21日生まれの場合、出生日としては「己丑日」に生まれているわけです。その「己丑日」は60干支ごと、つまり2カ月に1回巡って来ることになります。ですから、実際には、1年間の間に6回「己丑日」が巡っていることになるのです。

ところが四柱推命の場合、西洋占星術と異なり、男女の違いによって、仮想進運する方向が異なるのです。つまり、陽干の年に出生している場合は、「男命(男児)は順行」、「女命(女児)は逆行」と定められているのです。ですから、同一干支日は1年間に6回巡っているのですが、実際には出生日に男児と女児を同時に設けたと仮定した場合、365日間の間に「男命は3回」、「女命は3回」の同一干支日と巡り合う仕組みとなっているわけです。

一見、中国占術の独自性のようにも思える「仮想進運を逆行させる」という発想が、実は先に示した種々なプログレス法の中にあった「後退法」という見方・判断の仕方です。この方法は、基本的には「1日1年法」と全く同一なのです。唯一異なっているのは、誕生日から惑星進度を逆行させ1日1年と仮想して見立てていく点です。したがって、捉え方としては中国の大運法と全く同一なのです。中国と異なるのは、それを性別で逆行させるのではなく、「もう一つの未来」として捉えている点です。

四柱推命の大運法において興味深いのは、「3日=1年」と規定することで、生月干支を運勢の出発点とし、生まれ日から順行させるか、逆行させるかによって、生月干支を出生後何年で抜け出すか、明確に規定出来たことです。

「1カ月=30日間=10年間」と月干支間を見なすことで、たとえば月干支を抜け出すまでに10日間かかっていれば「3年と4カ月で脱出」と見立てることが出来ます。26日間かかっていれば「8年と8カ月で脱出」と見立てることが出来ます。

こうして四柱推命では「太陽日」である「日干」が、どの月支を移動中に運勢が強まるか、弱まるか、判別できる方法が採用されたのです。それは基本10年間の運勢でしたが、季節を重視する運勢判断では「四季は30年ごと入れ替わる」方式であり、人生の大要は30年ごととされていました。

アラビア系占星術の秘教学的解釈では、世の中の大きなうねりは「惑星統治期間」に支配されている、と考えられていました。ここでも「1日1年法」が使われていたのですが、アラビアにおける暦は「太陰暦」であり、1年を354日と3分の1日間と規定していました。

したがって1年ごとの惑星統治期間は実質的には「354年と4カ月間」であり、秘教占星学的には古代の7天使が支配していました。その順序としては、次のように定められていました。

土星≪オフィエル≫統治期間354年4か月金星≪アナエル≫統治期間354年4か月
木星≪ザカエル≫統治期間354年4か月水星≪ラファエル≫統治期間354年4か月
火星≪サマエル≫統治期間354年4か月月≪ガブリエル≫統治期間354年4か月
太陽≪ミカエル≫統治期間354年4か月  

これを惑星統治の「大周期」と呼び、各期間には1カ月別の惑星統治が「小周期」として定められていました。この1カ月間は「太陰暦」なので29日と2分の1日間であり、実質的には「29年6カ月間」となります。つまり、ほぼ30年ごと惑星統治が変わって運気が変化するとしていたのです。

四柱推命の「格局」判断の元に潜んでいる アラビック・パーツ

2015-10-30

すでに述べてきたような経緯から、中国に誕生した「四柱推命(子平術)」は、アラビア経由かと思われる「ギリシャ系占星術」(厳密に云うと、プトレマイオス著の『テトラビブロス(四書)』)の翻訳書(唐代の「聿斯四門経」等)よりも遅れて実質的には出現しています。

そして、これまで述べてきたように、四柱推命(子平術)の創生期に撰者・著者となっている『淵海子平』の徐子平、『三命通會』の萬民英の二人が、共に西洋占星術の中国化された姿「七政四余」に関連する『星学大成』(萬民英著)や『徐氏続聿斯歌』(徐子平著?)を、書き遺していたらしいことは注目すべき事実です。

より注目すべきは、著者・撰者が不明な七政四余の書『壁奥経』に記されている「霊合120格」、同じく『琴堂歩天警句』に記されている「富着69格」の謎めいた記述――「格」と呼ばれているものの存在です。

古典的な七政四余の原書として広く知られている『果老星宗』にも、「星格・定格合わせて184の格」という記述がみられます。それぞれの七政四余書で数や名称は微妙に異なっているのですが、いずれも「格」と云う存在について記述しています。

ちなみに、いくつかの「格」を具体的に紹介すると、

「水日居官格」太陽と水星とが官禄宮にあり、才能を発揮して成功も得る。
「火月無光格」月に対立する位置に火星があって、世間的人気が奪われる。
「官福来陽格」官禄宮と福徳宮に太陽・月の光が注ぎ、大成功をもたらす。
「命坐刃郷格」命宮に土星が座っていて、故郷では事故やトラブルを招く。

等といったものが「格」として記述されています。

四柱推命とほぼ同時期に誕生している「紫微斗数」(完全に中国式の虚星占星術)にも、古典的原書においては多数の「格」についての記述がみられます。現代の紫微斗数ではめったに言及されませんが、初期の紫微斗数においては、当然のように多数の「格」が存在していたのです。

ちなみに、いくつかの「格」を具体的に紹介すると、

「明珠出海格」誠実、明朗で、好奇心旺盛、社会的地位と名誉を得られる。
「火月無光格」豪放磊落で世話好き、交際範囲が広く、若くして成功する。
「文桂文華格」博学多才で優雅な雰囲気を持ち、芸術的な分野で成功する。
「日月照壁格」先祖から不動産を受け継ぎ、自らもそれを有効に活用する。

等といったものが「格」として記述されています。

日本式の四柱推命しか知らない方の中には、「格局」といっても何のことなのか分からない方もおられると思います。中国系の四柱(子平)推命に多少なりとも知識のある方であれば、「格」及び「格局」の重要性については理解されていることであろうと思います。推命家の中には、この「格局」を命式の中に見出せなければ「四柱推命の鑑定自体が不可能」とまで極言される方さえいます。

私自身は「格局」というのはあくまで命式の「特長を認識する方法」として捉えていて、必ずしも絶対ではありませんし、どうしても当てはめなければならない…というようなものではありません。それに、格局にこだわると「生時不明」の人を判断できなくなってしまいます。

ともかく、近代までの四柱(子平)推命においては、きわめて重要視されていたのが「格」又は「格局」と呼ばれる「命式の特徴判別法」であったのです。

ただ、今日、四柱推命の多くの流派で採用されている格局の判別法は、現代的に改められたものが多く、しかも近代まで存在していた多くの格局は採用されていません。多くの人は知らないのですが、初期にはもっと多数のユニークな格局(命式の特徴判別法)が存在していたのです。

ちなみに、今は失われた「格(格局)」を具体的に紹介すると、

「日徳秀気格」四柱全体に欠陥なければ、健康運と財運に恵まれ成功する。
「勾陳得位格」四柱に沖・刑なければ、道徳心に富んでいて、富豪となる。
「飛天禄馬格」四柱に午・丁がなければ、行動力あって部下運に恵まれる。
「六陰朝陽格」大運西方を行けば、多くの人達から愛され実業で成功する。

等といったものが「格(格局)」として存在していました。

このように記してくると、「格(格局)」というのは中国占術独特のもので、いずれも中国占術だから存在していたにすぎないのではないか――と思う方が出てくるかもしれません。ところが、中国のお隣インドの占星術にも「格(格局)」に匹敵するものが存在し「ヨーガ」と呼ばれています。

インド占星術の「ヨーガ」は、中国の「格(格局)」と同じく「出生図における特殊な惑星配置」として重要視されています。しかもきわめて古い時代から継承され続けている見方です。

ちなみに、いくつかの「ヨーガ」を具体的に紹介すると、

「ダーナ・ヨーガ」お金と縁があり、人や物に投資することで財を増やす
「ラージャ・ヨーガ」多くの人を動かし、尊敬を集め、社会的名声を得る。
「シャシャ・ヨーガ」疑わしい収入減を持ち、裏ビジネスの人々と関わる。
「ガジャ・ケサリー・ヨーガ」礼儀正しく寛容で、学者として成功を得る。

等といったものが「ヨーガ」として存在しています。

さらに、このような「出生図における特殊な位置と判断」は、イスラム系の占星術で種々考案された「アラビック・パーツ」に源を発しているかもしれません。プトレマイオスの『テトラビブロス』にもアラビック・パーツの一部は記されていて、伝承では古代エジプトやバビロニアの占星術がその先駆者であった…とも言われます。このアラビック・パーツの発展系がインドの「ヨーガ」であったと捉えることは可能です。

ちなみに、ギリシャ系占星術の「アラビック・パーツ」を具体的に紹介すると、

「物質的幸運のパート」ASC+月-太陽。ここで幸運な財産を得られる。
「守護神霊のパート」ASC+太陽-月。高次元の守護霊が見守っている。
「拡大発展のパート」ASC+木星-太陽。戦いに勝利と成功をもたらす。
「愛情獲得のパート」ASC+金星-太陽。異性の人気と愛情を得られる。

等といったものが「アラビック・パーツ」として存在しています。

このように辿っていくと、四柱推命の判断基準として重要視された「格(格局)」の見方・捉え方というのは、「アラビック・パーツ」や「ヨーガ」を経て、「星平会海」→「紫微斗数」→「四柱(子平)推命」に受け継がれ、発展してきた「先天的運命の特徴把握の方法」であったと捉えるべきでしょう。

謎だった「蔵干」・「六合」と呼ばれているものの正体

2015-10-30

四柱推命による判断方法は、まず生年月日時から「命式(めいしき)」と呼ばれる四柱干支を表出し、その四柱干支の相互関係を分析するところからスタートします。通常、この四柱干支の八文字以外に「蔵干(ぞうかん)」と呼ばれているものを表出するのですが、その場合、月支の蔵干のみを表出する見方(流派)と、すべての十二支の蔵干を表出する見方(流派)とがあります。

この蔵干に関して、私は若い頃、不思議で仕方がありませんでした。

どの書籍にも、蔵干の表出法(流派により様々です)は書かれてあるのですが、肝心の「蔵干」とは一体何なのか、何のために表出するのか、どうして流派によって表出法が違うのか、「月支蔵干」と他の蔵干とを区別して扱うのはなぜなのか、なぜ月支蔵干をそんなに重要視するのか、月支蔵干の区分(月律分野)はどのようにして生まれたのか……きちんと書かれてある書籍が見当たらなかったからです。

中でも一番不思議だったのは、月支蔵干の区分(月律分野)と、その各区分に配当されている十干の原理でした。そこで推命学における創成期の原書において「月支蔵干の月律分野」とされているものを比較してみました。そうすると、次のような興味深い事実を見出したのです。

『三命通會』(萬民英)による月律蔵干

  余気 中気 正気
己 5日間 丙 5日間 甲 20日間
戊 5日間 庚 5日間 丙 20日間
己 5日間 壬 5日間 庚 20日間
戊 5日間 甲 5日間 壬 20日間

『淵海子平』(徐子平)による月律蔵干

  余気 中気 正気
甲 10日間   乙 20日間
丙 10日間 己 9日間 丁 11日間
庚 10日間   辛 20日間
壬 10日間   癸 20日間

各十二支に対する余気・中気・正気の配当は5日間だったり、10日間だったり、20日間だったりしています。また中気だけは、存在していたり、空白だったりしています。そこで、今仮に1年を360日(360度)と仮定して、余気・中気・正気を10日間で均等にすれば、次のような月律蔵干が誕生することになります。

月の12支 余気 中気 正気
己 10日間 丙(火) 10日間 甲 10日間
甲 10日間 乙(木) 10日間 乙 10日間
乙 10日間 癸(水) 10日間 戊 10日間
戊 10日間 庚(金) 10日間 丙 10日間
丙 10日間 丁(火) 10日間 丁 10日間
丁 10日間 乙(木) 10日間 己 10日間
己 10日間 壬(水) 10日間 庚 10日間
庚 10日間 辛(金) 10日間 辛 10日間
辛 10日間 丁(火) 10日間 戊 10日間
戊 10日間 甲(木) 10日間 壬 10日間
壬 10日間 癸(水) 10日間 癸 10日間
癸 10日間 辛(金) 10日間 己 10日間

このように配当すると、仮に1年を360日(360度)と仮定すれば、月支とは別に10日間ごと特定の十干(五行)が「蔵干の気」として、我々の人生に影響を与えていることになるのです。

ここで注目すべきは「中気」の十干(五行)で、120度ごとに「火」「木」「水」「金」が来て、蔵干(五行)同士が「三合会局」(正三角形)の法則の元に作用していることです。

ヨーロッパの占星術一方、西洋占星術においては、古来12星座とは別に、10日間ごと特定の惑星が「デカン」或いは「デカネート」として、我々の人生に影響を与えている…とされてきました。現代占星学では、このデカネートを誤解し「10日間ごと12星座の一つが影響を与える」と教えているのですが、本来は星座ではなく、36の神々(古代エジプト)である恒星が影響を与える(やがて惑星神に変化)期間だったのです。この「デカン」は、ギリシャ語圏では「プロソポン」、ラテン語圏では「ファキエース」と呼ばれましたが、いずれも「顔」を意味し、ルネッサンス期のホロスコープ図では外側に36の顔が描かれました。

エジプト占星術古代エジプト王国においては恒星であったデカンが、ギリシャ語圏以降は「10日間ごと影響を与える惑星神」として扱われ、さらに「惑星神の家としての12星座」へと変貌していくのです。こうして現代においては、「デカン」=「デカネート」=「10日ごとの12星座」として、次のような影響が与えられると教えられるのです。

黄道12宮 第1デカネート 第2デカネート 第3デカネート
おひつじ座(火象星座) おひつじ10度間 しし(太陽)10度間 いて10度間
おうし座(地象星座) おうし10度間 おとめ(水星)10度間 やぎ10度間
ふたご座(風象星座) ふたご10度間 てんびん(金星)10度間 みずがめ10度間
かに座(水象星座) かに10度間 さそり(火星)10度間 うお10度間
しし座(火象星座) しし10度間 いて(木星)10度間 おひつじ10度間
おとめ座(地象星座 おとめ10度間 やぎ(土星)10度間 おうし10度間
てんびん座(風象星座) てんびん10度間 みずがめ(土星)10度間 ふたご10度間
さそり座(水象星座) さそり10度間 うお(木星)10度間 かに10度間
いて座(火象星座) いて10度間 おひつじ(火星)10度間 しし10度間
やぎ座(地象星座) やぎ10度間 おうし(金星)10度間 おとめ10度間
みずがめ座(風象星座) みずがめ10度間 ふたご(水星)10度間 てんびん10度間
うお座(水象星座) うお10度間 かに(月=太陰)10度間 さそり10度間

黄道12星座は「火」「地」「風」「水」の順で巡り、第2デカネートは120度先の星座(支配星)が位置していて、正三角形の法則(アスペクト)の元に作用していることです。しかも、その支配星は「太陽」に始まり、「水星」→「金星」→「火星」→「木星」→「土星」と進んで、そこからまた逆行し、「土星」→「木星」→「火星」→「金星」→「水星」と進んで、「太陰(月)」に終わっているのです。もちろん、これは18世紀頃まで用いられた「古代の支配星」と呼ばれるもので、肉眼観察可能な7惑星のみを対象としています。18世紀までの西洋占星術に「天王星」「海王星」「冥王星」などは存在しなかったからです。

支配星黄道12星座は、古代から引き継がれてきた≪昼の6星座≫と≪夜の6星座≫とに二分されていました。実は近代まで、古代エジプト王国時代の「夏至点」に位置した「しし座」~「やぎ座」までの6星座は「昼の星座」、同じく「冬至点」に位置した「みずがめ座」~「かに座」までの6星座は「夜の星座」とされていたのです。そして肉眼観察可能な古代の7惑星には、惑星神が住まうための「昼の家(星座)」と「夜の家(星座)」とを持っていたのです。もっとも、「太陽」は「昼の家」だけ、「月(太陰)」は「夜の家」だけですが…。これこそが現代まで続いている「支配星」の真実なのです。

これらを改めて整理すると、次のようになります。

昼の家(星座) 支配星 夜の家(星座) 支配星
しし座 太陽 かに座 月(太陰)
おとめ座 水星 ふたご座 水星
てんびん座 金星 おうし座 金星
さそり座 火星 おひつじ座 火星
いて座 木星 うお座 木星
やぎ座 土星 みずがめ座 土星

ここで大変興味深い事実をお見せいたします。

実は、この「支配星の原理」は、そのまま四柱推命における「十二支六合の原理」と一致しているのです。そこで解りやすいように、まず、12星座と十二支とを次のように一体化させます。

12星座=十二支 変化する「五行(惑星)」  12星座=十二支
しし座=午 六合(太陽・太陰) かに座=未
おとめ座=巳 六合(「水」と化す) ふたご座=申
てんびん座=辰 六合(「金」と化す) おうし座=酉
さそり座=卯 六合(「火」と化す) おひつじ座=戌
いて座=寅 六合(「木」と化す) うお座=亥
やぎ座=丑 六合(「土」と化す) みずがめ座=子

つまり、四柱推命における十二支は、西洋占星術の12星座と同じく、古代の7惑星が住まう「家」の役割を果たしていて、「支の六合」として支配星が「昼の家(十二支)」と「夜の家(十二支)」を結びつけ、支配する五惑星(五行)に化することとなっていたのです。

四柱推命に残る西洋占星術の影

2015-10-30

これまで研究者の誰ひとり言及しなかった事実、それが四柱推命(子平)という占術に残っている「西洋占星術の影」、もっと言えば「転用されている占術理論と技法」に対しての見解です。

私が最初にそれを見出した時、単なる偶然の一致だろう、と考えました。まさか、古代中国の推命学の創始者達が西洋占星術から、その理論や技法を取り込んで、新たな占術を発案した…などということが信じられなかったからです。けれども、両占術の歴史的な研究が深まる過程で、それを認めざるをえないような事実が次々と出現してきたのです。まるで真犯人を追っていた刑事が、上司の中に犯人が潜んでいたことを突き止めてしまったかのような衝撃を覚えました。

それでも、冷静に考えてみると、そこに矛盾はなかったのです。

まず、「西洋占星術」という占術は、決して西洋に留まっていたのではありません。比較的早くから東洋へも伝播していたのです。私の個人的な研究・仮説では、紀元前3000年紀の時代から既に「星占い」が存在していたのは古代エジプト王国であり、数百年遅れてバビロニア帝国へと伝わり、ここで星辰信仰と結びついて大いに発展し、さらに古代ギリシャ時代の「カルデア人」と呼ばれる占術師集団によって今日のホロスコープ占断法の基礎が完成されています。

5世紀のギリシャ式ホロスコープ1世紀のギリシャ式ホロスコープ

 アラビア式のホロスコープさらにギリシャ式占星術は、一方でトルコやペルシャのアラビア圏天文学者たちへと伝わり、種々なアラビックパーツやハウスシステムが考案されていきました。他方では独自のヴェーダ占星術が存在していたインドへと伝わり、今日まで伝わるインド式西洋占星術へと発展していくことになるのです。やがて中国へと伝わった西洋占星術が、ギリシャから直接もたらされたものなのか、アラビア圏を経由してのものなのか、インド仏教的な色彩を帯びたものなのか、明確ではありません。

確かなことは、中国・唐代には既にギリシャ式占星術の翻訳書が存在しているという事実です。

最初「聿斯経(いつしきょう)」と呼ばれたギリシャ式占星術は、やがて中国式の見方も加わり「七政四余(しちせいしよ)」と呼ばれるように変りました。そして、それだけでは飽き足らなかったのか、疑似占星術ともいえる「太乙神数(たいいつしんすう)」、「紫微斗数(しびとすう)」、「星平会海(せいへいかいかい)」といった占術を次々と誕生させていきました。

西洋占星術の伝播と影響

星平会海による出生図特に「星平会海」という占術は、実際には「占(星)術」と「子(平)術」とを合体させた占術で、或る意味では西洋占星術と四柱推命(子平術)とが、同列に並べられ、合わせ技として占う形式がとられている歴史的にも注目すべき占術です。したがって、四柱推命が西洋占星術の影響を受けるのはむしろ当然のことで、切り離してしか捉えなかった今日までの考え方に無理があるのだといえます。そこで、四柱推命と西洋占星術の間にある中国式占星術の代表とも云える「紫微斗数」に注目しましょう。この占術では種々な部分で西洋占星術において用いる占術方式を取り入れています。

紫微斗数による出生図まず、「12星座」に当たる「12支」があり、「12ハウス」に当たる「12宮」があり、「主要7惑星(七政四余の「七政」)」に当たる「紫微14星(北斗7星&南斗7星)」があり、「副次的4星(七政四余の「四余」)」に当たる「副星4星」があり、「アスペクト」に当たる「同宮(0度)・対応宮(180度)・三合宮(120度)」などの見方があり、「トランジット星」に当たる「流年星」の見方があり、実星(実際に存在する惑星)と虚星(実際には存在しないか虚構の星)の違いはあっても、占い方の基本はほぼ同一であるといえます。

四柱推命という占術は、これらの占術要素とは明らかに異なり、12星座も、12ハウスも、古代の7惑星も登場しません。簡素な四柱八字と、それらに付随した「10の虚星」のみです。けれども「奇問遁甲」という占術で推命学的な判断を下す「奇問命理」では、「12宮」ではないのですが「10宮」を表出します。この「10宮」には面白い特徴があって、その表出法は四柱推命的、その解釈法は紫微斗数的なのです。けれども、私が四柱推命に西洋占星術の影を見るのはそういうようなことではありません。もっと生な形で、共通している判断技法があるからです。

推命学源典としての書籍の謎

2015-10-30

日本において「四柱推命」と呼ばれている占術を誕生させた国は中国です。けれども、今日のような占い方をする四柱推命は、多くの日本の占術書に書かれているほど、古代から存在していた占術ではありません。そして多くの研究者も勘違いしているのですが、中国式「西洋占星術」である「七政四余(しちせいしよ)」の誕生から、少し遅れて誕生している占術なのです。

中国における「四柱推命」の呼び方は種々あって、「三命(さんめい)」「八字(はちじ)」「命学(めいがく)」「子平(しへい)」「算命(さんめい)」「命理(めいり)」などです。近年になって、逆輸入される形で日本の名称である「四柱推命」も使用されるようになりました。中国におけるもっとも一般的な名称は「子平」です。

それは今日の四柱推命が、徐子平という人物によって実質的にスタートした…と捉えられているからです。つまり「子平の学術」=「子平学」という捉え方です。

「三命」という呼び方もよくしますが、これは天から授けられる三つの運命である「受命(じゅめい)」「遭命(そうめい)」「随命(ずいめい)」を合わせての名称です。「年」「月」「日」の三つだから…なのではありません。

ちなみに同じ発音となる「算命」も、中国でよく使われる名称です。生まれ持っての「宿命を算出する」というような意味合いからです。ただし日本の「算命学」と同一の推命学を指すわけではありません。日本の算命学は、正しくは「鬼谷子(きこくし)算命学」と呼ばれる一部の流儀・門派の推命学で、一般的な「四柱推命」とは微妙に違っています。実質的には同じ推命学の範疇なのですが、星の名称や、判断技法に若干の違いがあるのです。「生まれ時刻」を最初から省いている―という特徴もあります。

推命学源典として実在するもっとも古い書籍は、唐代に書かれたとされている『李虚中(りきょちゅう)命書』三巻ですが、実際に記述されたのは上巻のみで、中巻と下巻とは後世の人物が加筆・編纂した形跡が見受けられるものです。

上巻を記述した李虚中は「四柱(子平)推命の祖」とされている人物ですが、「鬼谷子撰・李虚中註」とあって、その原著者は鬼谷子(きこくし)であるかのような記述となっています。(伝説上の「鬼谷子」は、李虚中より1000年以上前の中国戦国時代に活躍した思想家とされ、さまざまな占術の開祖に祭り上げられています)

原書では一応そうなっているのですが、鬼谷子はそのまま李虚中である可能性も高く、上巻では「生まれ時刻」を用いない方式で推命が記述されています。さらに興味深いことには、李虚中の推命学は現代のように「日干」=「我」と見るのではなく、「年干」=「我」として鑑定した可能性が指摘されています。(その名残りのようなものが、四柱推命の大運「順行・逆行」判断基準や、「奇門命理」による十宮配当の方法で継承されています)

この李虚中の推命方法を改良し、「生まれ時刻」の干支を加え、日干を我と改めて運命を推理する推命学を打ち立てたのが徐子平(じょしへい)です。

『珞ろく子三命消息賦』(らくろくしさんめいしょうそくぶ)二巻が代表作ですが、後に後進が彼の学説を編纂した『淵海子平(えんかいしへい)』の方が一般的には広く知られています。

判り易く分類すれば、

中国・唐代(西暦705~907年)に出現した「李虚中の推命学」=『命書』、

中国・宋代(西暦960~1279年)に出現した「徐子平の推命学」=『淵海子平』、

中国・明代(西暦1368~1661年)に出現した「劉伯温(りゅうはくおん)の推命学」=『滴天髄(てきてんずい)』、同じ明代の「雷鳴夏(らいめいか)の推命学」=『子平管見(しへいかんけん)』、同じ明代の「萬民英(まんみんえい)の推命学」=『三命通會(さんめいつうかい)』、

中国・清代(西暦1661~1911年)に出現した「陳素庵(ちんそあん)の推命学」=『命理約言』、同じ清代の「沈孝瞻(ちんこうせん)の推命学」=『子平真詮(しへいしんせん)』などが主だった推命学原書として知られています。より詳しく表記したものを下に示しておきましょう。

推命学原書の表記

ただ中国における占術書の場合、注意しなければならないのは、必ずしも本人ひとりだけによる著述とは限らないことです。

著者名は、実際には編集者名であることが多く、自分も含めての研究成果、或いは古来からの民間伝承・地域伝承、広く知られた学説に対しての註訳書・解説書、自分が属する門派・流派における秘伝や新学説…である場合がほとんどです。したがって、ときには占いの順序が前後しているとか、明らかに矛盾した内容が含まれているケースもあります。

一般的に云えば、中国の本格的な四柱推命は唐代に生まれて、宋代に至って根本的な改良が加えられ、明代で広く一般に普及し、清代でほぼ完成した占術…と云えるかもしれません。もっとも、清代の研究著述は、明代の推命学よりもむしろ後退している、と指摘する研究者もいます。

最初にも述べたように、生年月日を用いて占う占術としては、中国式西洋占星術である「七政四余」の方が早く誕生しています。中国における西洋占星術は、最初「聿斯経(いつしきょう)」として著述・翻訳されています。聿斯経としての主な著述には『都利聿斯経(とりいつしきょう)』、『聿斯四門経(いつしよんもんきょう)』、『徐氏続聿斯歌(じょしぞくいつしか)』、『聿斯隠経(いつしおんきょう)』などがあります。

これらの内、『徐氏続聿斯歌』の「徐氏」は、四柱推命の方で出てきた「徐子平」である可能性が指摘されています。

聿斯経からは、「七政四余」以外にも「太乙神数(たいいつしんすう)」、「紫微斗数(しびとすう)」、「星平会海(せいへいかいかい)」といった占術が派生することになるのですが、先に四柱推命で出てきた「萬民英」には星平会海に属する著作『星学大成』三十巻もあることは注目すべき事実です。

つまり古典的四柱推命の代表的原典である『淵海子平』と『三命通會』の提唱者が、共に中国式西洋占星術の著述・研究者でもあった可能性が大きいのです。そうだとすれば、四柱推命という占術の中に、西洋占星術的な要素が盛り込まれたとして、何ら不思議はありません。

これまで誰一人指摘して来なかった事実、怖くて触れられなかった事実――それが、四柱推命の中にある「西洋占星術の部分」なのです。

八卦と干支暦と十二支方位の秘密

2015-10-30

実占において「干支暦」を使用しながら、干支暦法の仕組みを正しく理解していない占術家は少なくありません。よく干支暦のことを「旧暦」だと云っている方がいますが、それは間違いです。暦を「太陽暦」と「太陰暦」とに区分すれば、二至(冬至・夏至)二分(春分・秋分)四立(立春・立夏・立秋・立冬)に基づく現在の「干支暦」は、明らかに太陽暦に属している暦です。

この二至二分四立は、天空上の通り道である「黄経度」を8等分している区分点です。干支暦上では、立春、立夏など四立のときに季節(春・夏…)が始まり、春分、夏至など二至二分のときに季節の頂点に達します。実際の生活上では、もう少し季節が遅れて感じがちですが、それはこの黄経度区分が「日照時間(日光と月光の比率)」を基準としていて、気温などを基準として区分してはいないからです。気温は、その年によって変わりますが、光の照射時間は毎年同じだからです。

通常、干支暦上の1年の起点は「立春」(2月4日頃)に置かれています。そこから「啓蟄」(3月6日頃)、「清明」(4月5日頃)、「立夏」(5月6日頃)、「芒種」(6月7日頃)…と1カ月ごとの区切りが続いていきますが、この区切りを「節」と呼びます。通常の暦の「月」と同じく12節あります。それぞれの節間の中間には「春分」「穀雨」「小満」「夏至」…と続く「中」と呼ばれる区切りがあり、12の節と12の中を合わせて「24節気」と称します。

参考のため中国の干支暦法と、西洋の12星座暦法と、黄経度による比較を図表化しておきます。【図表1】

中国の干支暦法と、西洋の12星座暦法(図表)

この図表において「七政暦・月将」と記してあるのは「中国式西洋占星術」における十二支表記です。

双方の十二支がずれていることに違和感を持たれるかもしれません。これは間違いでもなんでもありません。実は「十二支」というのは「十二方位」として天空上で固定されているので、このようなずれが生じたのです。つまり、干支暦上の十二支は「北斗七星が指示している方位」としての十二支であり、七政暦上の十二支は「太陽が位置している方位」としての十二支だからです。

多くの占術家は誤って解釈しているのですが、われわれが使用している干支暦における「月(節)」の十二支は、その期間、太陽が位置している十二支方位ではなく、北斗七星が指示している十二支方位なのです。より正確に云えば、天空上において太陽と月とが会合する「新月の日」、戌の刻(現代の午後8時)、北斗七星の柄が指示している方位こそ、「その月(節)の十二支」と干支暦上では定めてあるのです。つまり「十二支方位」というのは、月(節)干支が登場するはるか以前から固定されていて、それは易の八卦制定よりも早いのです。どうしてそう言い切れるのかというと、易の「八卦名」が十二支方位に影響を受けているからです。

中国史家も含めて、ほとんどの人が誤って解釈しているのですが、「易」の誕生が先ではなく、「十二支方位」が先に存在しているのです。そう解釈しなければ、易の卦名も、易の方位も、つじつまが合わないからです。易の「八卦名」には、すでに説明したような「聖獣名」の一部分も組み込まれています。したがって、ここでも蒼龍・朱雀・白虎・玄武の方位設定は極めて速かったことが窺われます。

具体的な例を記していきましょう。
まず、八卦名を列挙します。

「坎(かん)」・「艮(ごん)」・「震(しん)」・「巽(そん)」・「離(り)」・「坤(こん)」・「兌(だ)」・「乾(けん)」という八つの名称です。それぞれの八卦には「方位」が定まっています。

北方位→「坎方」、北東方位→「艮方」、東方位→「震方」、南東方位→「巽方」、南方位→「離方」、南西方位→「坤方」、西方位→「兌方」、北西方位→「乾方」といった方位配当です。ここで付け加えておきたいのは、すべて45度方位で、30度になったり60度になったり「気学方位」のように方位角度の広さが変わることはない、という点です。したがって、易方位と十二支方位との対応に関しても、易の八方位すべてが「一つ半の十二支方位」にまたがって位置しています。

このような配当の結果、

「震」には「(十二支の)辰」が含まれ、

「巽」には「(十二支の)巳」が含まれ、

「離」には「(聖獣の)朱雀」の「雀」一部が含まれ、

「坤」には「(十二支の)申」が含まれ、加えて「(十二支の)未」の属す五行「土」が含まれ、

「兌」には「(聖獣の)白虎」の「虎」一部が含まれ、

「坎」には「(十二支の)丑」の属す五行「土」が含まれ、

明らかに、十二支や聖獣や五行の影響を受けて八卦名が成立していると想定されるのです。

これらの関係を図解すると【図表2】のようになります。

八卦方位と十二支方位(図解)

いちばん内側が十二支に対応した「八卦方位」で、それに続いて北斗七星が指示している「十二支方位」、その外側十二支は干支暦には出てこない「太陽方位」、さらにその外側に原初の「中国28星宿」を対応させた図解です。インドや日本では「27宿」として扱われることが多い星宿ですが、中国では28星宿が本来の姿だったのです。

神話伝説から生まれた五行相生理論

2015-10-30

五行相勝(相剋)理論(中国戦国時代末・約2400~2200年前)から少し遅れて、「五行相生理論」が登場(約2150~2050年前)してくることになります。占いの研究者の感覚からすると相生理論の方が先にありそうですが、実際には逆な誕生順序なのです。もちろん、この「相生理論」の方も、「王朝交替説」に由来しているのです。すでに過去となった王朝交替が、見事に五行相勝の理論に当てはまっていたため、新たに誕生した五行相生説においては、その当時における神話伝説の帝王たちの順序を引き合いに出して展開されることになります。

つまり、ここで語られる神話伝説上の帝王たちは、

という順序で、その当時の人々の間に、五帝王として出現していたことが知られていたのです。
図らずも「木」→「火」→「土」→「金」→「水」の相生順になっている…という仮説です。

これらの順序の法則を、自然界に求めると、

ということになるのです。

自然界の原理が、ここでも「王朝交替説」という形で巧みに利用されたのです。
改めて「相勝(相剋)」「相生」の二つの五行理論を図解すると【1図】のようになります。

相勝(相剋)・相生の二つの五行理論(図解)

けれども、五行相勝(相剋)理論にしろ、五行相生理論にしろ、自然界の栄枯盛衰を表す理論として人々を納得させるものを持っていました。その当時だれもが信じた「天人相関説」の具体的な表れとして、王朝交替を画策する人々だけでなく、当時の学者・大衆にも見事に受け入れられたのです。やがて王朝交替説だけでなく、人間の運命の栄枯盛衰を推し量る羅針盤としても、占術家たちに継承され、現在まで2000年以上の長きにわたって用いられることになっていくのです。

今日、日本で「四柱推命」(「子平」「算命学」「命理学」「八字」「命学」等…)と呼ばれる占術の土台をなしている基礎は、十干十二支で構成された干支暦に基づく命式の表出と、その組み立てを陰陽・五行理論に基づく相互作用の分析・解読から判断することにあるといえます。そこで干支暦の成り立ちや仕組みについて、もう少し知っておいていただかなければなりません。

すでに述べたように、干支暦の出現は早く、今から3000年以上前の商王朝(一般的名称は「殷王朝」)期には使用されていたことが確実視されています。ただし、その当時の干支暦は、その日付だけが干支によって記されているもので、「月」は「漢数字」で表わされ、「年」は「王即位から○年」というような記され方をしていました。そして、まだ「時刻」に対しての表記は存在していませんでした。

「月」の表記は「一月」~「十二月」までですが、時として「十三月」の月も存在していました。それは当時の暦が「太陰太陽暦」だったからで、月の満ち欠け(形状)に従って「1か月」を定めていたからです。月の満ち欠けを用いると、1か月は「30日間の大の月」と「29日間の小の月」の繰り返しとなります。現代のように「31日間」の月というのは存在しないのです。そこでどうしても、1年間の日数が現代よりも少なくなります。つまり、毎年、徐々に季節が移動することになるのです。そこで季節の調節をするため数年間に一度「閏月(うるうづき)」と呼ばれる調節月を暦に挟むこととなるのです。その閏月のことを、商王朝では「十三月」として扱ったのです。

干支構成表

干支暦の表記に「干支日」だけでなく、「干支年(歳)」や「干支月(節)」や「干支時(刻)」が登場するのは、中国における戦国時代中期頃(紀元前400~300年代)ですが、戦国末期と思われる記録によれば「甲子」を60干支の起干支とはせず、「甲寅」の方を起干支として、甲寅年・甲寅月・甲寅日…から暦日をスタートさせています。やがて前漢代の『太初暦』の改暦で、干支月が飛ばされる形となって、現代と同じ配列「月干支」表記へと変わりました。【1表】

その後は、太陰太陽暦から太陽暦への切り替えはありましたが、干支暦そのものは年・月・日・刻に何ら手を加えることなく今日まで60干支を循環させ続けています。

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