1月, 2016年

「人形」としての人生

2016-01-19

大きな組織による多数の人員投下や巨額な経費・宣伝費をかけることで、世の中を席巻するような「人気もの」が誕生する。作られた「人気」が、やがて“生命を持って”本格的に活躍し始めると、多数の人員や巨額の経費はようやく採算がとれるようになる。こうして完全な「人形」としての人生が始まる。組織に“借り”があり、組織の“言いなり”にしか動けない人形だ。けれども時に「人形」が、自分が「人形」であることに気が付く。「人間」に戻りたい、と望むようになる。けれども「人間」として生きていなかったので、どうすればよいかが解らない。「ひとり」になるのは怖いのだ。自分の足だけで歩くのは怖いのだ。だから、居心地の良い「人形」に返る。

「写真」の重み

2016-01-18

私には「幼い頃」の写真がない。10代から30代にかけて何度も引っ越し、いろいろ生活も変転したので、昔のアルバムとか写真とかがなくなってしまったのだ。10代以降は仕方がないとしても、それ以前の写真がなくなってしまったのは何とも残念としか言いようがない。昔、写真というのは貴重品で、よほど何かの記念日でもないと写さなかった。だから元々が中学生以前は4~5枚くらいしかない。私の家は貧しかったので写真など写す余裕がなかったのだろう。現代は“写真が有り余る時代”となった。あらゆる場面で写真を写す。「幼い頃」の写真がない、などという人はいなくなるのだろう。あまりに手軽すぎて「写真」の持っていた重みが消えてしまった。

「選択」が許されることの自由

2016-01-17

今年も雑誌『クオリティ』最新号で、2016年の占い予想を行った。この雑誌は基本的に経済誌なので“政治的な質問”が多い。参議院選についてとか、新たな選挙権についてとか、北海道新幹線の開通に伴う経済効果に関してとか…。占いサイト「cocoloni」(1月3日「恋愛ニュース」)では同じように2016年を占っているが、こちらの方は「恋愛運」を中心とした内容の一年間である。もちろん、著書『神占開運暦』でも2016年を占っているが、こちらは「ホロスコープ」&「干支・九星」&「易占」&「タロット」の四占術から、それぞれ詳細に“2016年・日本の動向”を占っている。ここでも四占術それぞれに判断内容は異なる。占いなのだから、当然である。その中には「大物芸能人の独立問題が暗礁に乗り上げる」とか「漁船・タンカーの座礁・沈没・火災」とか「海外で評価される新たな発明・発見・研究の多い年」など、すでに実現している占い予言もある。『開運暦』上の記事は“昨年の春”に書いていた原稿で、決して年末になってからの予想ではない。まあ、一年近くも前の段階で予想するのだから“占いの神様”に素直にお伺いするしかない。もちろん、たくさん予測しているので外れることも多いだろうと思う。けれども、これくらい具体的に予測しないと、読んでいる側にとっては面白くないだろう。私は基本的に“あいまい”で、誰にでも当てはまりそうな予言はやらない。外れても良いから、大胆で具体的な予測の仕方をする。「外れても良いから…」というと問題のように思う人がいるかもしれないが、「天気予報」だって、長期予報のほとんどは外れている。アナリストによる「株価予想」だってそうだ。「占い」は本来、予想する仕事なのだから、あいまいにぼかしていては仕事にならない。占い師である以上、最終的には「占いの神様」に頼るしかないのだ。大昔から、呪術師とか占い師はそうやって生きてきた。占い師というのは「馬券の予想屋」と同じで、最終的には「占いの神様」が降りてきて“教えてくれたもの”を告げるしかない。

個人の占いに対してもそうだが、なるべく具体的に個々の対策を占い上から考える。その結果が上手くいくかどうかは、正直、私にもわからない。ただ占った方の多くが、またやってくるのは多分少しでも“良い成果”を上げているからだろう。具体的な対策を考えるためには、その問題について“具体的に訊いておく”必要がある。あいまいな質問に対しては、あいまいにしか答えられない。依頼してきた相手と、その悩みや問題を“共有できた時”素晴らしい回答がおのずと表れてくる。そういう意味では、占い師である「私」と、問題を抱えた「あなた」と、すべて見守っている「占いの神様」と“三人集まったとき”、素晴らしい解決策が見えてくるというものだ。しかも宗教と違って、占いには「選択の自由」がある。決して強制はしないのだ。ここが「占い」の素晴らしい部分で、私は占いを教える場合でも、決して占断結果の「観方」や「判断方法」を強制するようなことはない。そういうものは自分の中で自然に習得していくべきもので、強制すべきようなものではない。

人生の選択に関しても“二者択一の問題”や、迷いながらの“大きな決断”に関しては、多少、背中を押すことはあっても、最終的には本人が選択すべきものであって、雨が降るから「傘を持って行け!」とは絶対に言わない。それは宗教家の仕事であって、占い師の仕事ではないからだ。よく判断に“道徳的なこと”を持ち出す占い師もいるが、そういうことも私はしない。道徳的なことをうんぬんするのも占い師の仕事ではないからである。但し「道しるべ」であるべき占い師は、前方に“危険”が潜んでいる場合、それを伝えておくことは“責務”であって、相手に気付かせず、さりげなくそれを行える占い師こそ一流なのだ。

「愛」という名の生命力

2016-01-17

人の「心」は弱い。そして脆い。ガラス細工のように壊れやすい。しかも“壊れる音”が聞こえない。そっと振り返ると、誰もが“心のかけら”拾い集めながら生きている。身動きが出来ないのは「愛」を失ったからに違いない。そう「愛」だけが“心のほころび”をつくろい、「心」を強くし、明日に向かうエネルギーを注いでくれる。どんなに傷ついても、のたうちまわっても、汚れてしまっても、人は幼い頃、抱き上げられた“あの感触”を忘れることが出来ない。「愛」だけが“いのち”を燃やし、「愛」だけが“希望”を集めて、傷だらけでも“あした”に向かって、また歩み始めることが出来る。そうして「ガラス細工」は“小さなほほえみ”にしがみついていく。

「前世」の「血は水よりも濃い」のか

2016-01-16

われわれは誰でも、自分の家系・血縁からの“因縁”や“素質”を受けて生まれていることを否定できません。解りやすく言えば「親・兄弟にどこか似ている」「先祖からの影響を受けている」ということです。先祖からの土地や財産を引き継いでいる家族とか、遺伝的な病気を抱えている家系とか、特異な能力を家系的に与えられている人などいるものです。同じような観点から「前世」からの“因縁”や“素質”は受け継いでいるのでしょうか? 先祖からの“因縁や素質”、つまり「血」も“濃い人”と“薄い人”がいるように、前世からの“因縁や素質”も“濃い人”と“薄い人”がいるようです。出逢ったこともない「先祖」に深く合掌するように、120%忘れ去っている「前世」の人物に深く合掌し、その“因縁や素質”の「血」を引き継いだなら、どう変わってしまうのでしょうか? というか、その「血」が入っているから、私はこんなにも古代と「縁」があるのか。

「小さな幸せ」が「大きな幸せ」に勝つ

2016-01-15

どのような人生を歩んだ人でも、第三者的に見た「人生の絶頂期」は、必ずしも本人の“一番の幸せ”と重なり合っているわけではありません。むしろ第三者的に見れば、特別何もない「平凡な時期」の方が、本人にとって“一番の幸せ”を謳歌している時期であるケースが多いのです。それは“絵に描かれた”ような「大きな幸せ」、或いは「完全な幸せ」よりも、第三者的に見れば“あまりに凡庸”で、ささやかに過ぎる「小さな幸せ」の方が、本人にとっては“何にも代えがたい大切なひととき”であり、華やかさを伴う「大きな幸せ」など望んでいないからなのです。

自分の中に「他人」を入れてどうするの

2016-01-14

人生は何を行おうと最終的には“自身に返って来るもの”です。誰も責任を取ってくれないし、誰も身代わりにはなってくれません。それなのに、自分の人生を“他人の眼”や“他人の心”を優先して物事を考えたり、決めていくような人がいます。このように言うと“みんなはどう思うだろう”とか、これを行うと“みんなは何て云うだろう”とか、周りを基準に自分の発言とか行動を規制してしまう人がいます。もちろん、それが常軌を逸脱することだったり、道徳から外れることだったりした場合は考慮すべきですが、そうでないなら“他人の眼”や“他人の心”を足かせにするのは、せっかくの「幸運」や「才能」を閉ざしてしまうことになりがちなものです。

「先が見えない」から“未知の力”が発揮できる

2016-01-13

よく「先が見えない」から“苦しい”とか“辛い”とか言いますが、それでは「先が見えたら」もっと頑張れるのでしょうか? もしも、その先に「成功」「勝利」「裕福」の看板があって、完全にそこに辿り着けることが確認できたなら、あなたは「先が見えない」時と同じように努力して必死に頑張り続けることが出来るでしょうか? また逆に「失敗」「困窮」「悲惨」の看板があって、確実にそこに向かうことが見えていたなら、あなたは「先が見えない」時と同じように努力して必死に頑張り続けることが出来るでしょうか? 人は「成功」か「失敗」か分からない時、「勝利」か「惨敗」か分からない時、どちらに転ぶか分からない状態の中で、実力以上の能力が発揮できたりするのです。潜在能力が加担して“未知なる力”が発揮できるのです。

どうやって「裸」を観てるの?

2016-01-12

本当はとっても恥ずかしいんだ。顔や掌に“何もかも”出ているということは…。「性格」とか「病気」とか「仕事」とか「恋愛」とか、そして何よりも「運命そのもの」とか…。裸なんだぜ。裸のまま歩いているんだ。だから決めつけられるんだ。「きっと変な仕事してるんでしょ」とか、「金もない癖に…」とか、「その眼がいやらしいのよ」とか……きっと、自分の判断に自信があるんだろうな。だって一瞥で断定するんだもの。そんな、信じられないよ。本当に何も知らないの。人相や手相で判断してるんじゃないの? じゃ、霊感なの? あれは霊感なの? そうでもなくてって…じゃ一体、どうやって「裸」を観てるの? 

古代の「成人式」に学ぶ

2016-01-11

推命学に「冠帯」という用語が出てきますが、これは古代の「成人式」儀礼を指す言葉です。数え年15歳の武家社会の男子儀礼で「元服」を身に着け、髪型を成人型に整え、大人用の「冠」を被り、「帯刀」を差すことを許されました。現代は満20歳なので、当時の「成人」は実質6歳ほど若かったのです。殺傷能力ある「刀」を差すことで、大人の男子になったことを自覚させる意味が大きかったかと思われます。武家社会に産まれた宿命として“豊かな生活”が保障される半面、“死と向かい合う生活”であることの自覚の中で、数えの十五を迎えたのです。

「誰も悪くない」が一番の解決策

2016-01-10

自分に厳しい人がいる。何か問題が起こると、すぐに「自分が悪かったから…」と自責の念にさいなまれてしまう人だ。そうかと思うと何が起こっても「私のせいじゃない」と開き直る人がいる。あらゆる点で自分には甘い人だ。運命学的な観点から言うと、起こってしまったことは「これも運命」と素直に受け止め「誰が悪いせいでもない」という“受け止め方”が後まで尾を引かなくて一番良い。誰かのせいにすると、表面上は平気でも潜在意識が許さないからだ。つまり、潜在意識というのは「悪い」という感情に対して反応するので、自分を責めても、他人を責めても、どちらの場合も“自分の運命”に対してマイナスに作用するのだ。

「浪人になりなさい」という予言

2016-01-09

私が最初に逢った占術家は、室蘭に居た故・吉野蘭象という方でした。どうして逢ったのかというと、幼い頃から「占い師になりたい」という願望を持っていた私は、“どうすればなれるのか”大胆にもプロの占い師から直接訊き出そうとしたのです。電話帳で調べて、恐る恐る初めて電話をかけたのは中学二年生の時でした。彼は中学生からの電話に一瞬、驚いたようでしたが、面白く感じたのか自宅に招待してくれました。山の上にある立派なお屋敷でした。開口一番、彼は私に「占い師になりたければ浪人になりなさい」と言いました。私には何のことかわからず、ポカンとしていました。実はその言葉で、私は職業としての“占い師”をあきらめかけたのです。けれども、その言葉はやがて的中し、私は会社を辞め、無職になって、まさに“浪人のような”状態の中で、仕方なく占い師を始めることになるのです。

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