3月, 2016年

「ぎりぎり」から見えて来るもの

2016-03-31

人生では時折“もはや後がない”という限界ライン「ぎりぎり」まで追いつめられることがある。その「ぎりぎり」は人によって異なり、“生命”、“仕事”、“対人”、“金銭”、“愛憎”など、それぞれ状況的にも一律ではない。ただ本人にとって「ぎりぎり」まで達しているのは確かで、そのまま「限界ライン」を突破して“悲惨な結末”を招くことも稀にある。ただ多くの場合は“首の皮一枚”で留まって、何とか窮地を脱していくようなケースが多い。このような「ぎりぎり」まで追いつめられていく体験をしているのとしていないのとでは、その後の“人生観”が全く違ってくる。「ぎりぎり」まで追いつめられて、初めて「見えて来るもの」があるからだ。もちろん、その「見えて来るもの」は人それぞれ違っていて、後になってから気付くような場合もあるが、その後の人生にプラスとなることは共通している。そして、もう一つ「運命」というものを漠然とではあっても“信じる”ようになることだ。それまで「運命」というものに否定的だった人でも、自らが予期せぬ形で追い込まれ「ぎりぎり」を経験することで、他人に対して優しくもなり、同情心や理解力も深まる。「運命」のもつ“不可思議さ”を経験的に受け入れるようになる。

「親・子」それぞれの人生

2016-03-30

最近、親が子を道連れにする、逆に子が親を道連れにする形の「心中事件」が時々起る。経済的困窮、介護疲れ、育児疲れ、孤立感、深刻な事情がその背景にあるが、総じて“将来への見通し”が暗く、どこにも“頼れず”すべて抱え込み、親や子を“想う”が故の「道連れ心中」である場合が多い。世間は、親子間の密着度が強いと、そこに“親子の深い絆”を感じて、深入りしすぎないよう配慮しがちである。つまり「お節介を焼きすぎない」対応を取ってしまう。ところが、そうすることで二人はますます孤立していく。親子間の「絆」は確かに深まるが、それが“一体感”となり、その親や子の片方が“障害”や“病気”を抱えている場合、一人で生きていくことが困難である場合、“挫折感”ばかり強まって、未来に“希望を託す”ことが出来なくなってしまうのだ。近年、少子化となって「親・子」の密着度が強まった。それに反比例するかのように“近隣との関係”や“親戚との関係”は乏しくなった。都会では、親子の絆は強いのに、近隣や親戚との絆は無きに等しい。そういう場合「親子間」だけを“特別視しすぎない”ことが大切なのだ。「それぞれの人生」と“割り切る”ことも、時に必要なのだ。とりあえず「自分が生き延びる手段」を確保し、徐々に相手も“引き上げていく”意識が、結果的に二人を“すくい上げていく”ことに気付いてほしい。

74兆円分が破棄されている

2016-03-29

毎年13億トン、約74兆円分の食料品が“食べ残し”や“賞味期限切れ”によって破棄され続けているのだという。しかも、その破棄比率がもっとも多いのは日本・中国・韓国の三国だ。そして日本の場合、その6割を輸入に頼りながら、その三分の一くらいを“捨てている”計算になる。それは家庭ではなくてスーパーやコンビニではないかと思いたいが、実際には五分五分くらいで大きな差はない、という哀しい現実がある。フランスでの取り組みは大いに参考になる。スーパーで売られていた「賞味期限切れ」の多くは福祉団体に直行し、そこから直ちにホームレスや生活困難な家庭に配給となる。さらに一部のスーパーでは「賞味期限切れ」や「売れ残り」で撤去と同時に調理場へと運ばれ、すぐプロの調理師が腕を振るって加熱調理し、夕刻以降に“賞味期限切れ食品”の「新しいお弁当」としてスーパーに並べ、一般の方達へと安く提供するのだ。これが大変に評判が良い。これなら日本でも“即実行が可能”なのではないだろうか。日本人は「賞味期限」にうるさすぎるので、万一を考えると“実行できない”店が多いかもしれないのだが…。

「消えた少女」は、一人だけであろうか

2016-03-28

二年前、埼玉で行方不明となった少女がJR中野駅の公衆電話から自宅に電話し、無事、保護された。見知らぬ男性に車で連れ去られ、監禁に近い状態で二年間を過ごしたらしい。多分、少女は性格的に“素直でおとなしい子”だったに違いない。二年が経って、男に“隙が生じた”のだ。勝手に行動したりはしないだろう、と勘違いしたのだ。つまり、それだけ、日頃の少女は“従順に振る舞っていた”に違いない。JR中野駅に「公衆電話」があって良かった。もし、公衆電話がなければ、連絡手段がなく、少女は監禁アパートに戻ったかもしれない。近年、公衆電話というものがほとんど見当たらなくなってしまったが、このようなケースも想定すると完全撤去は出来ないのだ。こういうことはあまり考えたくないのだが、私は“この少女”だけではなく、同じような状態で暮らしている少女が、実は全国で“何人か存在する”のではないか、という危惧を持っている。おとなしい少女が“生きる手段”として、相手の言うまま“ひっそりと暮らしている”可能性が捨てきれないのだ。多感な時期に“指示通り”の「置き手紙」を残して、こつ然と「消えた少女」は、彼女だけなのであろうか。まるで表面上「若いカップル」のように、ひっそり暮らし続けていたに違いない少女の「空白の過去」は永遠に戻らない。

世界のヘッジファンドとの戦い

2016-03-27

日銀がホームページ上で国民向けに「マイナス金利」についての“Q&A”を新たに掲載したという。「マイナス金利」というものに対しての誤解を解きたいからのようだ。私は正直なところ、Q&Aを掲載したからと言って、国民がそれを正しく理解してくれるとは思わない。第一、無駄なことを何故するのかが解らない。一般の国民にとって「マイナス金利」は直接的な関わりがない。一般の金融機関には関係があるが、国民には直接的には何の関係もないのだ。それなのに何故一般の国民に理解されようと努力するのだろう。日銀は、日本における金融機関の総元締めなので、金融機関向けに“方向性を示す”ことは当然なことで、その権威も与えられている。国民におもねる必要などないのだ。多くの人は知らないが、日銀を苦しめているのは世界のヘッジファンドなのである。つまり日銀が“弱腰でマイナス金利に踏み切った”と睨んで、大量の円買いを行い、その政策に疑問符を持たせ、最終的にはストップをかけさせようと“逆手を打っている”のだ。だから日銀は国民に説明などせず、本当は3月の会合で「マイナス金利幅」をもっと大胆に広げれば良かったのだ。4月でも遅くはない。そうすれば黙っていても円安方向に動き、投資に動く大企業が続出する。

「選択の自由」が幸福とは限らない

2016-03-26

北朝鮮に生まれ、13歳の時に母親とともに川を渡って脱北し、中国に遁れて潜伏生活をし、その後、モンゴルから韓国へと渡り、猛勉強して大学に進学するまでをつづった手記『生きるための選択』が日本でも発売されます。著者パク・ヨンミさんはダブリンの国際会議で体験スピーチを行い、一躍、世界から注目を浴びました。この手記は世界20か国で発売されるようです。彼女はインタビューの中で「選択の自由」が与えられる国に“生まれ変わりたいとは思わない”という趣旨のことを述べています。過去があるのだから“今の自分がある”という捉え方のようです。よく「時代」や「国」や「家庭」が違って生れていれば“このようにはならなかった”と嘆く方がいます。私自身も、子供の頃はそうでした。もっと“裕福な家庭”とか“恵まれた境遇”のもとに生まれたかったと思ったものです。そうすれば“苦労せず”生きられると思ったからです。けれども「選択の自由」がなくても「幸福」は掴めるのです。逆に「選択の自由」があっても「幸福」になれないこともあります。産まれた時の「環境」「境遇」は“ドラマの始まりに過ぎない”からです。

季節が“後戻り”するように…

2016-03-25

「春が来た!」と思っていたら、またしても冬、窓から見える“雪化粧”にため息をつく朝がある。季節は“後戻り”が好きだ。まるで小悪魔的な少女のように、黒髪をなびかせて通り過ぎていく。冬のコートなのか、春のコートなのか、上着だけで良いのか、毎朝出勤する人達ならば洋服選びに苦慮する時期に違いない。もう何十年も会社勤めをしていない私は、時計と睨めっこしながら朝の用意をするという時代を、今は懐かしく思い出す。人の「運勢」も「季節」と同じような動き方をする。推命学など、元々「干支暦」という“暦”を用いて占うのだから“当たり前”かもしれないが、完全に「今日からもう幸運期ですよ」と明確に教えてはくれないのだ。「干・支」の上では明確でも、実際の生活上ではそれほど単純ではない。なんとなく“不運”から抜け出し“幸運”が来たかに思えながら、またまた“厄介な問題”が起きてきて行く手を遮る。運勢上の“大きな流れ”はなんとなく把握できるものの、小さな“紆余曲折”まで見通すことは中々に難しい。「運命の女神」も小悪魔的な少女のように、行きつ戻りつしながら、季節のように未来へと導くのだ。

『五体不満足』乙武氏の「仮面」

2016-03-24

週刊新潮の取材に、自民党から参院選に出馬予定とされていた『五体不満足』の乙武氏が不倫を認めたという。それも何年間にもわたって、5人の女性と…ということらしい。彼の「五体」は“不満足ではなかった”ということだ。最近「人は見かけによらない」というようなスキャンダル報道が多い。乙武氏の「不倫」そのものは私生活上のことなので、どうこう言うつもりはないが、ここにきて実は自民党からではなく、昔からの友人・松田氏の政党「日本を元気にする会」から出馬する“誓約書”が存在していた、ということが明るみになっている。つまり、奥様だけでなく友人をも裏切った、ということである。元々この人は自らの障害を“売り”にしているような部分があって、私はあまり好感を持っていなかった。スポーツライターは身体的に無理があるし、小学校教師も介助を必要とする。なぜ「無理な仕事を択ぼうとするのか」それが解らなかった。やや感情に走りやすいところもあり、入店に難色を示したレストランを激しく批難したりしている。努力家なのは認めるし、頭脳も優れているが、人間としての“根本的な優しさや思いやり”には欠けている人のような気がしていた。さわやかに見えた「仮面」は“裏切り”によってあっけなく剥がれた。

「共通した運気」が持っている魔法

2016-03-23

タレントの千秋さんが一般男性と再婚されたそうです。そういえば元の夫であるココリコ遠藤氏も昨年末に再婚されています。離婚後も交流が深かったお二人の場合、相性が悪くて離婚されたとは思われません。実は、恋愛でも結婚でも“本当に嫌いになって別れたのではない”カップルの場合、このようなケースは少なくないのです。つまり、別れた二人が似たような時期に「新たな恋愛をする」とか「新たな結婚をする」とかいうケースです。その時期的なズレは大体半年以内です。実は「双子」にも同じような法則があり、大体半年くらいのズレの中で「同じような出来事」が生じやすいものです。時としては「親友」の場合にも似たような現象が生じます。これは、ただ単に“相手に影響を受けて生じる”現象なのでしょうか。単なる“偶然のなせる業”なのでしょうか。私はそうは思わないのです。元々“似ているふたり”には「共通した運気」が働いている可能性が強いからです。いったん別れて、五年以上経ってから“再会し結ばれていく”ドラマのようなケースでも「共通した運気」の法則が働いているのだと思われます。俗にいう「おしどり夫婦」では片方が亡くなると、その後を追うようにパートナーも一年以内に亡くなってしまうケースが珍しくありません。

「いのち」を注ぎ込まれたもの

2016-03-22

世の中には「いのち」を注ぎ込まれたものと、注ぎ込まれていないものとがある。「いのち」を注ぎ込まれたものは、例えば芸術作品でも、技術工芸品でも、衣料品でも、調理品でも、他のものと一緒に並べられていたとしても、そこだけ“異質な生命力”があり、感覚の鋭い人ならだれでも無意識に引き込まれる“吸引力”を持っている。そしていったん葬られても、何らかの事情から再び蘇えって来る“復活力”を備えているものだ。日本の科学技術や医療技術には、その人がいなければ作れないとか達成できない“職人技”を伴う分野の技術製品が多い。通常「いのち」というと芸術作品や芸能作品を連想しがちだが、あらゆる分野に「いのち」を伴う作品はあり、それぞれが涙ぐましい努力や研究や試行錯誤の末に誕生している。現代では既に“忘れ去られた技術”や“マネが出来ない技術”もあり、その作品だけが生命力を保って遺されている場合もある。「いのちを削って…」という表現があるが、われわれはどれだけ自らの「いのち」を削り、自らの「いのち」を注いで課せられた仕事に“生命を与えている”だろうか。

美しい思い出は「永遠の宝」になる

2016-03-21

人は日常の中で、あまり自然の風景や光景に「美しい」と感嘆することがない。たとえ住居や職場から見る景色が「絶景」であったとしても、それが日常になってしまうと感動はしないものだ。ところが、どこかに出掛けて行って“日常とはかけ離れた”光景に接すると、その何気ない自然な情景に眼を奪われることがある。そこにあるのは「別世界の美しさ」で、日常の“暮らしの中”だけからでは得られないものだ。仮に、それが自然そのままではなくて人工的な“つくられた美”であったとしても、出かけて行って得られた感動と興奮は“特別なもの”となる。そして、それは記憶に深く入り込み「永遠の宝」になる。年数を経て、記憶は徐々に“削ぎ落とされる”のだが、それがかえって“ぼかしを効かせて”「美しい」感嘆だけが見事に蘇えって来る。どんなに高価な指輪やネックレスよりも、情緒性を伴った「美しい記憶」は宝物として残る。人は“自らの生命”を振り返るとき、そういう宝物だけを“必死に抱きしめる”ようになる。

人生にも存在している「再生力」

2016-03-20

近年、健康面や肉体面では人間本来が持っている「再生能力」を見直そうとする機運が高まりつつある。そういう医療・研究が、一見“失われたかに思えた機能”を蘇らせるのは素晴らしいことだ。ただ人間が本来持っている「再生能力」は、肉体的な機能ばかりに働いているわけではない。多くの人は見逃しているが、人間の歩む「人生・運命」においても、同様に発揮され得るものなのである。つまり、何かの事情で一度失ってしまったかに思える“社会的な立場”とか“手腕や才能”とか“財産や栄誉”などは、実は完全に失われてしまったのではなく、一時的に“見失ってしまっている”場合が多いのだ。見失っているのだから、“見つけ出せば良い”だけの話で、元々の素質としては“十分その力を持っている”ケースが圧倒的に多いのだ。ただ物事すべてにはタイミングがあり、それぞれの“状況的な変化”というものもある。だから全く同じ形で「再生」しようと焦ると、失敗を繰り返してしまうケースが多い。また“やみくもに右往左往する”のも墓穴を掘る場合が多く、再生には或る程度“チャンスを窺う粘り強さや冷静さ”も必要なのだ。

「隠し部屋」は、ルクソールだけではない

2016-03-19

エジプト・ルクソールの「ツタンカーメン王墓」の壁の向こうに「隠し部屋」が存在していることがほぼ確実になりました。確かに、実際に「ツタンカーメン王墓」に入った方なら解かると思うのですが、近隣にある他の王達の墓室に比べトンネルの底が浅いというか、簡単に辿り着きすぎるというか、「墓室」までが単純すぎ違和感を覚えるのが「ツタンカーメン王墓」なのです。ですから、その壁の向こうに「隠し部屋」が存在したとしても不思議は感じません。ツタンカーメンの義母「ネフェルティティの墓室」となっているのではないか、との憶測が流れています。実は「ツタンカーメン王墓」が発見される以前、ほとんどの考古学者たちはルクソールの「王家の谷」が掘り尽くされたとして「もう墓はない」と公言していました。同じことが「三大ピラミッド」が威容を誇るギザ台地にも言えます。大ピラミッド内部、もしくはピラミッド付近に何らかの「隠し部屋」が存在している可能性は捨てきれません。吉村作治氏は大ピラミッドの西側にあるマスタバ(台形墓)下に「クフ王の墓」が存在する…という夢に賭けているようです。私は大ピラミッドの“東側地下”のどこかに「通路」か「秘密の部屋」があると推測しています。

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