6月, 2016年

もう少しだけでも良いから…

2016-06-30

人は窮地に陥って解決の糸口が見いだせないとき「もう少しだけでも良いから…」という願いを“神・仏に対して”抱きがちです。普段、信仰心など持たない人であっても、どうしようもない窮地に追い込まれ、解決の手段が見いだせないとき、人は無意識に“祈るような気持”を抱くものです。けれども多くの場合、その願いが聞き入れられることはなく、がっくり肩を落とすケースが多いものです。果たして、神仏は存在していなかったのでしょうか。どんなに訴えても、どんなに願っても、神仏は“黙ったまま”です。直接的には、何もしてくれません。人はそういう時、そこに「運命」を見るのです。神仏は見えないけれど、巨大な姿で行く手に立ちはだかっている「運命」を見るのです。人が本当に「運命」を受け入れるのは、そういう時なのです。つまり、神仏さえ見えないときに、嫌いなのに、どうしようもなく嫌いなのに、そこに黙って待っているのは、何となく知っていた、見たこともないのに感じて知っていた「運命」の姿なのです。そうして、人は「運命」と向き合い、しみじみと向き合い、丁度、犯罪者が無言で護送車に乗り込むように「運命」と肩を並べるのです。人はこうして“生まれる”ということの不思議さを知るのです。人間の力ではどうすることもできない「運命」を見せつけられ、“生きる”ということを知るのです。生きていくことの“哀しさ”を知るのです。生きていくことの“逞しさ”を知るのです。「運命」こそ、もしかしたら“神・仏”そのものの姿なのかもしれません。

人間の「器」によって決まるものがある

2016-06-29

よく人間の「器」というが、果たして「器」とは何なのか、わかっているようでよくわからない、わからないようで何となくはわかっている、それが「器」です。実は、これ運命学的にも“捉えどころ”がなく、基本的に“器の観方”というのは存在していません。単純に言えば、村長も“その村のトップ”です。首相も“その国のトップ”です。どちらも“一番になる生まれ”ということです。“社会的な地位・名誉”を与えられる生まれです。でも何かが違う。そう「器」が違うから、片方は“村のトップ”で止まり、片方は“国のトップ”まで上り詰めるのです。それで多くの人は本能的に、あの人は村長にはなれるけど、首相にはなれない、と感じます。「器」が違うからです。では、首相になれる人は、村長になれるのでしょうか。ここが重要で、多くの人が“勘違いしやすいところ”なのですが、実は「首相の器」の人は、村長にはなれないのです。つまり「器」が大きすぎて村長にはなれないし、向いてもいないのです。「運命」という尺度から考えると、この部分はとても重要で、大きすぎると“規格外”となるので、小さすぎるところでは“実力を発揮できない”のです。これは“どの分野にも当てはまる”法則で、世界的な企業のトップに上り詰める人と、町工場のトップに立つ人とでは「器」が違うのです。若くして“町工場を起こした人”が、やがてその町工場を“世界的な企業”に押し上げることは可能ですが、世界的企業に勤め重役にまでなった人が、町工場の社長に変われるかというと、それは出来ないのです。その根本にある「器」は、先天的な部分が大きいのですが、大きければよいというものでもなく、例えば借金でも“桁違いの借金”は「器」の大きい人しかできません。

「時代」が、その人の「運命」を変える

2016-06-28

よく「一つの時代が終わった」という表現をするが、確かに世の中には「その時代だから…」そういう生き方ができたとか、そういう生活を可能にしたとか、そういう人達がもてはやされたとか、言える“象徴的な場面”というものが存在する。われわれは嫌でも“今という時代”の中で生きている。つまり、大きく言えば歴史、時の流れ、時代的な流行や変化というものを受け止めながら生きている。そこから逃れるすべはない。どんなに“あの時代は良かった”とか言っても、その時代に戻ることは出来ない。「風水」という思想は“自然との調和”ということを第一に掲げる。それが“幸運をもたらす”という考え方に立脚した呪術だ。そうだとすれば「時代の趨勢」には誰も逆らえないのだから、その時代を“自然界”と捉えるなら、時代に即して生きること、単純な言い方をすれば“流行に乗っかって生きること”こそ、“風水思想”そのままの生き方といえるのではないだろうか。何を行うにしても、“今の時代”ということを常に意識し、今の時代に逆らわないような形で物事を行えば、スムーズに運びやすいということかもしれない。ただ誤解してほしくないのは、これは“物まね”や“人まね”をしろということではない。「時代が何を欲しているのか」その部分に敏感になって、むしろ少しだけ“先取り感覚”で物事を行うことが、一番良いのかもしれない。もっとも口で言うことは優しいが、“時代の要求”を先取りしていくのは容易ではない。ただ、いくつか“ヒントとなるもの”がある。その一つは「新規上場してくる注目株」。これは次代を担う企業の登場で、今後の発展が予測される社会・分野を知るのに役立つ。その一つは「来年のファッション」。文字通り、今後流行していく可能性のある“色”“形”“素材”“雰囲気”などを知るのに役立つ。その一つは「流行歌」。文字通り時代を反映するのが流行歌だ。それも新人の流行歌だ。実際には“ちょっとだけ先を行っている歌詞”が若者にはヒットしやすい。これらを吸収していけば、間違いなく「時代」は把握できる。問題は、それから先だが…。

「幸運の女神に後ろ髪はない」って本当か?

2016-06-27

時々思うのだ。「幸運の女神に後ろ髪はない」というのは本当なのだろうかと…。第一「幸運の女神」そのものに、ついぞ出逢った記憶がない。きっと「女神」というくらいだから“麗しい”に違いないが、街を歩いていても、それらしい人には一向に出逢わない。だが考えてみると「後ろ髪がない」っていうのは、なかなか奇妙ではないか。というか、ちょっと“妖しい”。それに第一、後ろ髪がないから「通り過ぎる手前で捕まえろ!」という意味なのだが、仮に“麗しい人”が来たとして、それを横切る手前で本当に“捕まえて”良いものだろうか。もしかすると、捕まえたとたん往復ビンタを食らうのではないか。或いは“セクハラ”で裁判沙汰となるのではないか。いや絶対そうなるだろう。昔の人の「教え」というのは、これだから困る。いや、仮に“捕まえた”として、そのあと、どうすればよいのだ。「今日は良いお天気ですね」とでもさりげなく言うのか。「だから、何なのよ」と返されて終わりではないのか。そうではなくて「もしかしたら、幸運の女神では…」と訊くべきなのだろうか。「そう思いになられるのなら後ろに回ってみれば?」と告げられて、後ろに回ってみたとする。やっぱり、後ろ髪がない。幸運の女神と確信をして掴もうとするが、そう、後ろ髪がないのだ。だから、すたすたと先に進んでいって、結局、捕まえられないって、この話、やばくねぇ。

みんな「惨め」をさらして生きている!

2016-06-26

昨年11月、両親を溺死させたとして一人の女性が逮捕され、先頃、懲役4年の判決を受けた。実際には親子三人で利根川に飛び込み、無理心中しようとしたのだが、自分だけ“生き残ってしまった”結果の判決だった。母親が81歳で認知症とパーキンソン病を患い、10年以上も献身的に介護し続けてきた娘の決断だった。先に言い出したのは父親の方で、それまで新聞配達の仕事を真面目に続けてきたが体調を崩し、仕事ができなくなり、生活に行き詰った。47歳の娘は父親の“提案”に即応じた。もう疲れていた。死の直前、生活保護を受けようと市役所に出向いたが、生活事情をしつこく問われて、申請は出来たのだが“惨めさ”に我慢ができなくなった。そう何度も法廷で「惨め」という言葉を使った。彼女を“死に駆り立てた”のは、その気持ちが一番だった。車で飛び込む直前、父親が「あっちゃん、ごめん」と背中で言っていたという。多分、父親も“惨め”な気持ちでいっぱいだったのだろう。彼女に“間違い”があるとすれば、それは「惨め」なのは彼女だけではない、本当は“みんな惨め”で、辛くて、悔しくて、明日が見えないんだけど、でも、だけど、どこかで“ちょっとだけ楽しいこと”もあるから、もしかしたら、明日は“もうちょっとだけ良いこと”あるかもしれないから、生きている。半透明な過去を引き摺り、本当はだれでも「惨め」をさらしながら、素知らぬ顔で、生きている。

「瓢箪から駒」の予言が危ない

2016-06-25

憶えているだろうか。日本の安倍首相はサミットで来た面々に対して「今はリーマン・ショック前の状況に似ている」と、奇妙なことを言った。あれは、何のことはない“消費税先送り”のための口実であって、首相自身、本気でそう思っていたわけではなかった。アベノミクスの成果が今一つ出せないので、世界の首脳たちが来ているところでそう言っておけば“消費税先送り”しても一応“格好がつく”からである。実際、安倍首相の言葉に同調した首脳は一人もいなかった。ところがである。予期せぬ形で「英国のEU離脱」が現実のものとなり、世界の金融市場は“大荒れ”となった。日本はEU加盟国でもないのに、EU諸国とほぼ同一の比率で株価が急落した。為替も日本円が急騰した。これは確かに“リーマン・ショック時”と同様ではないか。「EU離脱ショック」が来たのだ。それでなくても危うかった日本経済は間違いなく“急ブレーキ”がかかる。今頃になって政治家や評論家たちが慌てだし、大騒ぎし始めている。誰もが「それはないだろう」と高をくくっていたからである。つまり、安倍首相の“苦し紛れの口実”が、なんと本当になりそうなのだ。けれども、私は首相と違って、デタラメの予言をしていたわけではない。何度も、このブログで警告していたではないか。4月7日、5月9日、6月17日、6月23日…“悪い予言”はしたくないし、出来れば不適中となってほしい。“どうか、当たらないでくれ!”と願いながら書くのだが、そういう時に限って見事に的中してしまう。近年、私が予言的なことを多く書くようになったのは、2チャンで前に「波木に見てもらったが何一つ当たっていない」と書いた中傷を見掛けたからである。それなら、誰もが納得できるように、公的な形で“いろいろと予言してやろうじゃないか”と腹をくくったのである。占いの理論にしてもそうだが、陰で“どうこう言う奴”にろくな奴はいない。自信があるなら、きちんと名を出して批判して来い!

「決断」が人生をリードしていく

2016-06-24

「暗中模索」という言葉があります。人間、誰でもいったん迷い始めるとさまざまな妄想にとりつかれ、日頃は頭脳優秀な人でも的確な判断力を失ってしまうものです。やみくもに手出しをして失敗するとか、余計な疑念を膨らませ尻込みするようなケースも出てきます。そうするとますます自信を失い、自分が“無力・無能な人間”に思えてくるものです。日頃、慎重で挫折経験の少ない人ほど、窮地にもろいものです。そういう時には「原点」に立ち返るのが一番です。上手くいっていた状態の時を冷静に思い起こすのです。そうして「今」とは“何の部分”が違っているのか、“元に戻せる部分”はどこなのか、“何を取り除けば”元に近づけるのか、冷静に“第三者的”にメモとして書き出してみることが大切です。書き出すことで頭の中が整理され、より“第三者的な視点”から、自分自身を見つめ直すことが可能だからです。大まかに見ると“何も違っていない”ように思えても、微細に観察すると“異なっている部分”が必ず出てきます。それが発見出来たら元に戻せばよいだけです。だからこそ冷静に、第三者的に、事細かく“見直す”必要性があるのです。もし、どうしてもわからない場合は、身近なところで“見て来た第三者”に訊いてみる、という方法もあります。最終的に、どれを選択するか、どういう形で選択するか、いつ選択するか、人生を変えるのは“勇気”と“根気”と“決断”です。何度でも「原点」に返って、新たな決断で突き進むこと、それが人生を“勝利に導く”秘訣なのです。

宇宙人より怖い「天空」からの攻撃

2016-06-23

インドでは2日間で67人もが亡くなった。バングラデシュでも3日間で59人が亡くなった。もちろん「天空」からの攻撃である。特に農作業中の人たちが狙われるらしい。インドでは、年間なんと2500人もの命が奪われているらしい。「天空」からの攻撃が近年激しいのは、携帯電話や時計など貴金属を身に着けて作業していることも一因としてあるらしい。モンスーン前に「落雷」は発生しやすいようだ。日本で“天空からの攻撃”といってもピンとこないが、インドでは“落雷”以外に考えられない。「地震・雷・火事…」というかつての恐怖対象は正しかったのだ。「天空」はこの時期、すさまじい勢いで攻撃してくるのだ。一方アメリカではロサンゼルス東部では森林公園などで山火事が発生し、2185ヘクタールを焼き尽くして延焼中だ。アリゾナ州では50度近い気温のため飛行機の車輪が破裂する危険があり、離陸を見合わせた。既に若者4人が熱中症などで死亡している。カリフォルニア州デスバレーでは52.2度を記録、ラスベガスでも46.1度で「獄暑」と呼ばれ、NASAのシュミット博士は「2016年は史上もっとも暑い年になる」と警告している。アメリカだけではない。パキスタンでも中部シビで52度を記録。モヘンジョダロでも49度となった。現在ラマダン中で日中は水も飲めない。ラマダン中の死者は1500人にも達するのだという。前にも書いたように、明らかに「地球」生命体の何かが“狂い”、そして“壊れ”始めているのだ。

さまざまな欲望と“ボタンの替え違い”

2016-06-22

世の中には変わった趣味・嗜好の人物がたくさんいる。特に“性的な嗜好”に関してはそうだ。介護老人保健施設で、70代の女性が25歳の介護職員にしばしば身体を触られ、親族からの告発で逮捕された。若い男性介護職員と高齢の入所女性との間で“そういうこと”が起こるというのは、小説やドラマとしてもなかなか設定しにくい。50代女性というのが“限界”ではないか、と思うからだ。いや、現実はもっと上を行く。愛知では路上で、90歳の女性の下半身を触ったとして、46歳の男性が逮捕されている。この男性の場合、過去にも逮捕歴があり、70~90代の超熟女でないと“欲望の対象”とはならないらしい。すごい。すごすぎる。そうかと思うと、7歳の女児に「おっぱい触らせて」と迫った43歳の男性が逮捕されている。7歳の女児に「おっぱい」は存在するのだろうか。この年齢だと男児も女児も、あまり変わらぬ“胸”のような気もするのだが…。10歳前後の男児ばかりを欲望対象として触っていた男性校医69歳も逮捕されている。彼は女児も担当していたらしいが、そっちには手出しをしていない。一筋なのかもしれない。それぞれがみな自分の“欲望”に正直である。確かに、それは紛れもない“犯罪”だが、変わった趣味・嗜好でもある。通常は、犯罪でなくても“尻込みしてしまう行為”ばかりだからだ。極端な話、お金を積まれても“ためらってしまう行為”だ。その一方で「事実は小説よりも奇なり」だとすれば、70代~90代女性でも、若い男性から“触られたい女性”は存在することだろう。また7歳くらいでもおませで“触らせたい女児”や、10歳の男児でも“男に触られたい”男児がいるかもしれない。問題は“双方が合致していない”という点にある。もし、それらが上手く“結び合う”関係が作られるなら、犯罪が“微笑ましい事実”に変わり得る可能性も…。

「かくれんぼ」ができない時代

2016-06-20

「昔は良かった」というのは“お年寄り”の定番である。そう感じるということは、自分も“そういう領域”に入った紛れもない証拠なのかもしれない。とにかく近年はそれを感じさせられるケースが多い。何よりも感じるのは“ぎすぎす感”である。いろいろな意味で人々の“余裕”というものが失われてしまった。「世知辛い世の中」という表現があるが、まさにそういう状況が世間全般に生まれつつある。そうさせてしまったものは“情報の共有”なのではないかと私は思う。誰もがみんな“似たような知識や情報”を持っている。似たような“生活パターン”を持っている。しかも、それは日本ばかりではなく、世界中がそうなってしまいつつある。知識や情報の共有や、生活パターンの一律化は、人間として元々備えている“泥臭さ”のようなものを失わせる。つまり“コンピュータ化”させてしまうのだ。そして一番良くないのは“世代的な未来”がシミュレーションできてしまうことだ。それも、さまざまなパターンとして“見せつけられて”しまう。世の中には“知って良いこと”もあるが、“知らない方が良いこと”もある。その選択ができないのだ。否応なしにシミュレーションさせられる。現代は「かくれんぼ」ができない。幼いころ、誰もが行っていた「かくれんぼ」が今は出来ない。いやでも情報が駆け巡っていて、すぐに見つかってしまう。大自然を駆け巡りながら、見知らぬところにひっそりと身を潜める“かくれんぼ”ができない。だから“ひきこもる人たち”が多くなるのかもしれない。いろいろな生活、いろいろな生き方を認める時代は、どこへ行ったのだろう。

「反面教師」としての“しくじり先生”たち

2016-06-19

舛添問題は、結局「辞任」で終了した。アメリカのトランプは、無差別テロのせいで不支持率が高まり「銃規制」に梶を切らざるを得なくなった。英国のEU離脱問題は、声高に叫んでいた女性議員が撃たれたことで過激な行動がとれなくなった。世の中には、さまざまな形で“しくじる人たち”がいて、それが反面教師となって“正される人や物事”が出てくる。全国の知事や市町村長の多くは、今回の“舛添問題”が自分にも降りかかる可能性があることに気付き「正さなければならない…」と内心思ったに違いない。国会議員に与えた影響も大きいと思われる。ましてや次の都知事に与える影響は計り知れない。二人の都知事が、相次いで“金銭疑惑”で辞任したのだ。しかも、そうとうに世間からたたかれ、それまでの“名誉”を剥奪されるような形での辞任となった。次にあのポストに座る人は、こと“金銭面”に関しては“都民の視線”が厳しく注がれることを覚悟しなければならない。ほぼ同時に行われる国政の参議院選挙にしてもそうだ。立候補者たちは“身ぎれい”にしておかないと、あとになって総攻撃を受ける可能性がある。今はだれもが「文春記者」となりうる時代で、すぐ「ツイッター」とか「ブログ」などで報道される。嘘を通せないのだ。最近の“しくじり先生”たちは、確かに「反面教師」となって、税金を用いる職種の先生たちにとって大きな規制をかける役割を果たしたに違いない。ただ「政治」って、本当にそういう“清廉潔白な人物”なら、立派な仕事を果たすのであろうか。後々の世から見ても評価できるような大きな功績を残すのであろうか。近年、政治家・田中角栄を再評価する風潮があるが、彼は生前“金銭疑惑”で「文春」から総攻撃を受けた人物であった。実は私たち誰もが“運命のしくじり先生”として、人生を歩んでいるのかもしれない。

「別人」として生きている人々

2016-06-18

世の中にはさまざまな事情から“身を隠す”人たちがいる。たいていの場合は“誰か”には打ち明けて出ているものだが、時として誰にも告げず、突然、消えてしまうような人もいる。福井県で1997年4月に“行方不明”となった宮内和也氏もそういう人物の一人だ。その後の調査で海岸でジャンバーなどが見つかったところから北朝鮮に拉致された可能性もあるとして「特定失踪者」のリストに加えられていた。それから19年が過ぎ、先日、県外で発見・保護された。親族が確認したらしいが、まだ家族には会っていないという。「泣いて、泣いて、泣いて、どうしようもないくらいに泣いた」という本人の状況から、大体のことは察することができる。多分、彼は19年間「別人」として生きてきたのだ。どういう経緯で“発見”になったか知らないが、警察での事情確認は終わり“事件性はない”とされているので、本人の意思による“失踪”であったことは間違いがない。19年間の“空白”を埋めていくのは大変だが、まだ51歳なので“焦らず元に戻る”ことを考えればよい。おそらく、国内には、そして海外にも、何らかの事情から「別人」として生きている人たちが何人も、何十人もいることだろう。自らの意思で「別人」となった人、「別人」として生きる以外なかった人、半強制的に「別人」とさせられた人…などがいるに違いない。何しろ、年間10万人くらいの「失踪」届が出る。そのうち98%は1週間以内に発見される。最後まで分からないままの失踪者も年間千人くらいはいるらしい。今回の親族の方が「一瞬で本人と判った」と言っていた。「血は水よりも濃い」のだ。

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