6月, 2016年

病みたくても病めない「恋の病」

2016-06-16

十代から二十代にかけ多くの人がかかる病に「恋の病」がある。ところが、この病、現在に至るも特効薬がない。人によってさまざまだが、私の場合は十代後半の頃が一番症状が重かった。とにかく簡単にかかってしまうのだ。ちょっと風邪の症状に似ている。何しろ熱が出る。心臓がバクバクする。喉が干からびたようになって、言葉が出てこない。うんうん魘される。胸が張り裂けそうだ。そういう症状が続くケースが多かった。いったん治っても、すぐまた同じ病で寝込むのだ。今になって考えると、どうしてあんなに次々簡単にかかってしまったのか、不思議な気がする。誰かが「若い人はかかりやすい」と言っていた。心ひそかに持病なのかなと思っていたが、免疫が出てきたのか徐々に間が空き、やがてかからなくなった。そして今では完全に完治してしまって、微塵も症状が出なくなってしまった。それはそれで妙に寂しい。あの“やばいクスリ”にも似た(?)苦しいほどの高揚感が失われてしまったからだ。さらに“ひたむきさ”も、あの病に侵されたときの特徴だ。すべてのものを失ってでも“追い求めようとする情熱”が、あの病のすごいところだ。なぜ完治してしまったのだろう。体質が変わったからなのか。環境が変わってしまったからなのか。一説には、この歳になって“あの病”にかかると重いとも言われる。周囲からも、ずっと治らないと突き放されるようだ。それはそれで辛いのかもしれない。高揚感や情熱が失われたとしても、やっぱり完治して良かったのだろうか…。

「父の日」は来ない

2016-06-15

私には娘が一人いる。今年25歳になっているはずだ。けれども、私はその娘から、一度も「父の日」を祝われた記憶がない。娘が9歳の時、私は離婚した。それ以降、娘と逢ったのは3~4回しかない。ここ10年は一度も逢っていない。もちろん「父の日」が来たからと言って、特別何があるのでもない。まあ無視された状態といっていい。私の離婚原因が“女性問題”にあったので、仕方がないといえば仕方がない。ただ初婚の妻から「あなたが予言していたように、知的で美しい女性となった」と何年も前にメールで告げられた。それだけだった。そういえば、私は娘が生まれる前、夢の中で4~5歳になった娘の姿を見ていた。あの頃、私たちには子供は出来ないかも…と諦めかけていたので、本当に“女の子が産まれる”か疑問だった。それも夢の中の児が“元気溌剌”抱き着いてきたので、そういう活発な子に育つか、大いに疑問だった。けれども、間もなく女の子が産まれ、明るく育った。小学生となっても毎日、私の身体に乗っかって来る“父大好きな子”だった。離婚後、最後に逢ったのは中学生の時で、それ以来は直接見ていない。まともな会話としては「最近、推理小説を読みだした」というので「子供向けでなく、大人の推理小説を読まなくちゃあダメ」と言ったのが最後になった。それが効いたのか、それ以降は学力が急激に向上したらしい。昨年も、私は自分の本が出来てすぐに娘へと贈った。もちろん、反応はない。今年も、私と娘には「父の日」は来ない。

「心臓なんていらない」という時代

2016-06-14

怖い時代がやってきつつある。心臓がなくても生きていけるのだそうだ。事実、アメリカ・ミシガン州のスタン・ラーキン氏(25歳)は背中に“人工心臓”を背負ったまま555日間も普通に生活していたのだ。決してびくびく生活したのではない。なんとそういう姿のままバスケットボールを楽しんだりしたという。5月にやっとドナーが現れ、心臓移植手術をして、ようやく退院となったらしいが、なんとなく“人工心臓”の時の方が自由に動き回っているような気がしてくるから不思議だ。大昔、われわれは「心臓があるから生きている」と教わった記憶がある。「魂」は“ここ”に宿っている、という教えもあった。けれども、今や「魂」は“どこ”に行ったか知らないが「心臓なんていらない」という時代が、もうそこまで来ている感さえある。そういえば世界最高峰のハーバード大学では“遺伝子操作”によって“若返りを可能にする薬”が研究中とのことである。もし、それが成功すれば、人間は“150歳まで生きるようになる”のだという。これって、喜ぶべきことなのか、戸惑うべきことなのか「死ぬ」という“怖い感じ”は嫌なのだが、別にそんなにまで「生きたい」とも思わない。というか「生きたくない」。普通に健康なら良いけど、今でさえ“危うい”のに10年先、20年先、普通に健康のままいられる自信がない。ただ本当に“若返り”が可能なら嬉しいのだが、多分、実用化は30年以上先だろうから、私には間に合わない。昔、不老不死の薬を求めて、秦の始皇帝などが本気で探させたという逸話もあるが、そんなに“生きてもね”。

「定め」という考え方が幸福をもたらす

2016-06-13

近年、どの国でも経済成長にブレーキがかかり、暗雲が垂れ込める情勢となった。世界のリーダー役だったはずのアメリカ経済に“?”が渦巻き、当然のごとく日本は「アベノミクス」という言葉自体がふわふわ浮遊し始めている。中国の先行きが“崩れ始めている”ことはだれもが認めるし、インド国内はインダス川のように“聖なる汚れ”であふれている。イギリスはEUに留まるかどうかで経済見通しが大きく分かれる。欧州全体も“先行き不安定”で、足の引っ張り合いが始まっている。近年、成長著しかった東南アジア各国も貧富の差が拡大しつつあり、アラブの各国は“原油価格次第”の様相を呈しつつある。世界全体が、あちこちできしみ始めていて、どこがどうというより世界経済の“成長鈍化”だけが確実に判明しつつある。そういう状況が続くと、経済の法則性から“富める者”と“貧しい者”との格差が拡大していき“中間層”が減るようにできている。当然、社会に不満が充満し“物騒な世の中”へと向かっていく。不安定な世の中は、経済に左右される面が大きいのだ。ところが、最初から世の中を“不平等なもの”として捉え、経済的・社会的な“格差”を「定め」として受け入れると、不満というのは“消えていく”ようにできている。実際、日本でも「士・農・工・商」の時代があって、生まれつき“身分が定められ”その階級は“変えられない”時代が長く続いたが、そのこと自体に対する不満や暴動はほとんど起こっていない。これは日本ばかりではなく、ほとんどの時代や国家で共通している。人間というのは、最初から“格差”を受け入れてしまうと、そのこと自体に不満はなく、それなりの生活ができれば“満足する”ようにできている。近年、多くの人が“倖せ”を見つけられないのは、この「定め」という考え方を最初から排除してかかるからだ。その根底には“誤った平等観”がある。私の母方は大名で、父方は百姓であったなど、何の関係もない。不平等を受け入れた方が“倖せ”になれるのだ。

「見えすぎる」ことの不幸と「見えない」ことの不幸

2016-06-12

「情報化社会」と言われて久しい。確かに20年前と比べて、あらゆるものが“情報”として“知識”として高速で世の中を飛び回っている。誰もが意図すれば、それらの“情報”や“知識”を手に入れられる。便利な世の中にはなった。けれども、そうやってあらゆるものが“見えてきたこと”で、われわれは“倖せ”に近づいたのか。いや、そうではない。いろいろと“見えてきた”ことで、むしろ“倖せ”は遠のいて行くよう感じる人の方が多いはずだ。われわれは“見える”ことで“倖せ”が近づくはずと勘違いしていたのだが、実際には逆で“見えすぎる”ことによる不幸の方が多くなっているような気がする。あらゆる情報を得られるということは、本当は“知らなくても良い”ことを知ることでもある。だから“倖せ”は遠のいて行くのだ。もう一つ、さまざまな情報を得ることで、つまり“見えすぎる”ことで、余計な“不安”や“焦り”が増幅される。「今後30年間以内に震度6以上になる可能性ある地域マップ」が公表されたが、それを知ったからといって“倖せ”に近づくだろうか。結局、あらゆる“情報”や“知識”が氾濫することで、精神的な“ゆとり”のようなものが失われていく。特に“周りの情報”はあふれているのに、自分自身の“未来”については、それらの情報が邪魔をして靄がかかり、どんどん“見えなく”なっていく。本来なら“見えていた”はずのものまでが、はるかな“闇の中”へと消えていってしまうのだ。そうして、目の前までもが見えなくなって“不安”や“焦り”だけが増幅されていく。「情報化社会」とは、そういう少しづつ“心が削られていく”時代なのである。

人間の「罪」と「罰」を定めるもの

2016-06-11

日本人には、総じて“潔癖観の強い人たち”が多い。したがって、自分に対しても、他人に対しても、何かしら「罪」を犯した場合、それを簡単には許さないケースが多い。刑事事件に値する「罪=犯罪」は法廷で裁かれ、一応、定められた法律によって「罰=刑罰」を受ける。その量刑は必ずしも妥当なケースばかりではないが、とにもかくにも“社会的制裁”を受ける。問題は、“刑事罰の対象外”ではあるが、明らかに“罪の自覚を持つ行為”に対して、人はどう“罪を償う”べきなのか、また人はどう“罰する”べきなのか、考えさせられるケースが多い。最近の社会的な事件とか、報道とかを見ていると、日本人の一般的な感覚として、刑事事件ではなくても“良識上の罪”や“道徳上の罪”に対して、決して許すまいという雰囲気が大勢のような気がする。自分には“直接的な関わり”がなくても、“良識”や“道徳”を欠いた行為を行ったものに対しては、“厳罰”を与えなければ気の済まない人が多い。特に“お金”と“sex”に関連する過ちに対して、潔癖観が強いように思われる。近年、さまざまな“生き方”を認める風潮にありながら、一度でもそういう“過ち”を犯した人に対しては、徹底的な排除や侮蔑を繰り返す人たちもいる。そういう考えが過度になると「いじめ社会」を助長することに気付いていない。確かに「罪」には「罰」が必要である。けれども、行き過ぎた罰は、社会を息苦しくする。もう少し、人間の犯す“さまざまな罪”に対して“寛容な社会”を作り出す努力も、昨今の日本には必要なのではないだろうか。

「足枷」を引き摺りながら…

2016-06-10

人はだれでも、本人にしかわからない「足枷」を引き摺りながら生きている。“重い足枷”もあれば、“軽い足枷”もある。本人にしか見えていないので、周囲の人でもそれに“気付かない”場合も多い。本人がそれを説明しても、本当に理解してくれる人は滅多にいないので、やがて本人もそれを語りたがらなくなる。けれども、足首の“重み”は日に日に増して、いつの間にか“重み”が増えていて、何もなさそうな顔をしながら、時々、それを強引に“ほどいてしまいたい”衝動に駆られる。だけど、ほどかないのは、ほどかないのではなく“ほどけない”からであって、そんなことは最初から自分にはわかっていて、なんとなくわかっていて、だから今日も人知れず「足枷」を引き摺っている。みんなは「足枷」なんかないんだろうと思うのだが、そうではないと聞いたこともある。本当はみんな足枷を嵌められていて、ただそれが見えないだけだと、昔、誰かが言っていたような気がする。本当だろうか。もし「足枷」を外すことができて、もし「足枷」を引き摺らなくて良いなら、もっと“自由”で、もっと“気楽”で、もっと“楽しく”日々を過ごすことができるに違いない。そうなったら、外出の時に必ずかぶっている“仮面”もかぶらず、“こころ”も丸出しにして恥ずかしそうでもなく、街を歩けるのだろうか。“こころ”を丸出しにするのは、やっぱり誰でも恥ずかしいのだろうか。だから、みんな無意識に“隠す”に違いない。あんなもの、見られたなら、やっぱり“恥ずかしい”。見せたい奴なんて、きっと変態に違いない。絶対“恥ずかしい”のだから…。

「過去」と「未来」は予測できても…

2016-06-09

近年、科学は人類の歴史をより鮮明に明らかにしつつある。昔なら、謎であったこともさまざまな“科学の放射”で明らかにされつつある。一方、今後の社会的な予測についても、著しく解明度が増しつつある。昔なら、わからなかった十年後なり二十年後の予測がかなり具体的なところまで“見えるよう”に変わりつつある。つまり、過去も未来も、現代科学がより鮮明に解き明かしつつある。それらは前もって時代を先取り、将来を把握することで、さまざまな“不安要素”を取り除くのに少しは役立つ。けれども、だから“より幸福になれる”という保証はどこにもない。あくまでも“現在からの予測データ”に過ぎず、遠くに行けば行くほど“不確定要素”が増す。つまり、われわれの人生と同じで、“遠い先のことなど解からない”というのが本当のところなのだ。「占い」は、人の人生を“予測する学術”だが、それは本当のところ「学術的な予測」というより「術者の勘による予測」であって、占いの“学”や“術”の部分はあくまで“その入り口”として用意されているに過ぎない。それが証拠に、同じ生年月日時をデータとして与えても、出てくる答えは千差万別である。同じデータからは、同じ回答が出てくるなどと吹聴している占い師は、よほど“占いのいろは”しか知らないか、きちんと“自分の眼や頭”で占っていないかのどちらかであって信用できない。残念ながら“今程度の科学”には、未来を正確に予測するすべがないのだ。それでは、本当に未来が予測できたなら、われわれはそれによって“より幸福”になりうるだろうか。「緊急地震速報」というものがあるが、誤報が多いばかりでなく、仮に正しかったとしても実際にはあまり役立たないことが指摘されつつある。遠い将来の“可能性”を知ることで、われわれは“自分を見つめなおし”少しだけ“努力する”ようになる。だから「占い」は、100%的中させてはならないものなのである。

そして“みんな不幸”になった

2016-06-08

「不倫」はほとんどの場合“不幸”で終わる。「不倫」で“倖せ”のままいられるのは、極めて稀なケースしかない。例えば、最初から“不倫のままで良い”と双方が感じていて、そういう意識のまま既婚者家族を巻き込むことなく関係が継続しているようなケースである。言ってみれば配偶者黙認で“愛人関係に近い”状態での継続くらいである。希にそういう関係はある。それ以外は大体“不幸”で終わる。アンタッチャブル・柴田氏の妻が、既婚者のファンキー・加藤氏と“W不倫関係”となり、柴田氏元妻の方は離婚したが、加藤氏の方は離婚せず関係を続けた。その結果、加藤氏の子を妊娠して出産間近となり、女性週刊誌でスクープされ、謝罪会見を行った。一体、誰が女性誌にリークしたのであろう。柴田氏の方は、以前にも“女性絡みの脅迫事件”に巻き込まれたが、その事件にも“元妻”が絡んでいた。元々柴田氏との間に“二人の子供”がいた元妻は、父親の微妙な三人目の子供を出産する。本人だけなら仕方がないが、加藤氏との不倫は“三人の子供”まで巻き込む形となった。いや、正確に言えば、加藤氏の家庭の“妻・子”も巻き込んでいる。柴田氏と加藤氏とは、もともと“知り合い”だったらしい。ところが、接近していった柴田氏の元妻は、それを知らせず加藤氏と不倫している。会見で、すべての罪を加藤氏は背負ったが、なんとなく釈然としない。ここに登場する人たちは“みんな不幸”になった。「やさしい男たち」だけが悪いのだろうか。

運命は「想定外」だから価値がある

2016-06-07

一時期「想定外」という言葉が流行った。あれは主に仕事面で使用されるケースが多かったのだが、われわれの人生そのものも「想定外」の軌道をたどっていくケースが多い。おそらく子供の頃に考えていたような、つまり「想定」していたような人生を“そのまま歩んでいる”人は滅多にいないに違いない。「運命」という言葉は、誰もが“思い描いた人生”になっていない証として存在しているような気がする。仮に、人生の大要は“想定通り”であったとしても、その途中でさまざまな「想定外」の出来事が生じてくるから、人生として“味わい深い”ものになる。もし、何もかもが“想定通り”であれば、これほど“つまらない人生”はない。よく推理小説などで、少し読んだだけで、なんとなく“その後の展開”がつかめてしまう作品があるが、その後に何の感動もない。神様は良くしたもので“そういう人生”を決して作らない。必ず、予期せぬ出来事“想定外の場面”を用意してわれわれを待っている。近年、ロボットが“接客してくれるホテル”が出現し始めているが、ロボットとかコンピュータは「想定外」に弱い。一応、さまざまな“想定される問題”を組み込んでおくはずだが、われわれの日常は“理屈でばかり動いていない”不可解さがある。会話にしても“想定外の反応”を示すケースが多い。だから、ロボットとの“やり取り”は所詮つまらないものとなる。人生もまったく同じで“想定通り”の人生に人は納得しない。人が「占い」に求めるのは“想定外の人生”がそこにあると信じたいからである。但し、それは必ずしも本人が望むような“想定外”ではないケースも多い。中には最初から自分の“理想とする人生”を期待する人などもいるが、神様が渡してくれる“人生ドラマ”の脚本は、そんなに単純ではなく、格好良くもなく、たいていの場合“いぶし銀のような名優”を育む「運命」をそっと差し出す。

無条件で住民に支給される国々

2016-06-06

「福祉」というのは難しい。どうあがいても“平等性”を欠くからだ。世の中に本当の“平等”なんて存在しない。ところが、スイスで新たな社会福祉のあり方として「最低所得保障」の導入是非をめぐって国民投票が行われるらしい。実はスイスだけでなく、欧州各国でひそかに導入が検討されているのが、この福祉制度なのだ。どういうものかというと、すべての住民に対して無条件で毎月“一定額を平等に与えよう”という制度だ。大人も、子供も、本国人も、外国人も、暮らしていくのに必要な金額は与えておこうという“太っ腹政策”である。日本の場合「生活保護」という福祉制度があるが、これは“さまざまな条件”をクリアしないと貰えない。この条件がかなり厳しい。以前、条件をクリアできなくて餓死してしまった人達もいた。これでは“平等”とは言えない。時々、不正な申告で受給する人がいるのでどうしても厳しくなるのかもしれないが、その辺は何となく“雰囲気”で分かりそうなものである。日本の福祉制度は総じて、控えめな人たちに厳しく、要求の激しい人たちに甘い傾向がみられる。もっと“平等意識”の強い人を担当者や審査官にすべきなのだ。そこへいくと、スイスが導入しようとしている方式は、すべての住民に無条件に与えるものなので、平等という点に関しては見事にクリアしている。それも実現するかは疑問だが、大人は毎月日本円で27万円という高額である。税収が多いスイスだから巻き起こってくる議論で、日本でこんなことを主張したらバカにされそうだが、実はスイスでも政党の多くは否定的だ。その理由は“労働意欲”をそぎ、“生産性の低下”を招く恐れがあるからだ。ただ、フィンランドやオランダなど欧州各国も、この制度の検討を始めていることは確かで、日本でも“本気で主張できる雰囲気”が出てきてほしいものだ。 

「勝者」なき闘い

2016-06-05

かつてのプロボクシング世界ヘビー級選手権者だったモハメド・アリ氏が亡くなった。今から40年前、当時、人気・実力とも絶頂期だったNWF世界ヘビー級選手権者だったアントニオ・猪木氏は「プロレスラーとプロボクサーの世界王者同士の対決」を企画し、日本で実行した。リングサイド席が10万円という現在でも高額の料金だったが、あっという間に完売していた。両者は、開催直前までルールで折り合わず、アリ側は帰国作戦で揺さぶった。結局、プロレスラーにとっては極めて不利なルールを猪木側は飲まなければならなかった。ただ“現役の世界チャンピョン同士”ということで、実況中継が世界の隅々まで流された。それによって“世界的名声”を得たのは猪木氏の方だった。けれども試合そのものは実に“つまらない”ものとなった。プロレス技の多くを禁止された猪木はボクシングと似たようなスタイルで闘うしかなく、アリは捕まえられることを恐れて距離を取った。結果、どちらも“睨み合う”試合スタイルとなり、時折、猪木が“足蹴りを入れる”だけの試合となった。結局、最後までそれだけだった。激しい試合を期待していたファンは納得せず、ブーイングの嵐となった。当時の猪木は酷評された。“引き分け”たのだが、“負けた”ような風評であった。ただ「アリと引き分けたサムライ」として、その後の猪木氏は世界的名声を得た。政治の世界に入って後、その看板は役立った。海外における知名度は“顎の長さ”のように抜群だった。実際、猪木氏は怖いものなしで世界に赴き、いつも“金と女にだけ弱く”跪くのだが、それ以外では最強に強かった。一方のアリ氏は、後年パーキンソン病を患うなど身動きもならなくなって、チャンピョンの面影はなくなったが「人種差別と闘った勇者」として評価され続けた。あの試合のように、人生というリングに“本当の勝者”はいない。

山のような疑問と「沈黙」

2016-06-04

行方不明になっていた7歳の男児が無事発見された。それ自体は大変喜ばしいことで、本当に良かった。ただ謎が多すぎる。私は別なブログで不明が報道された日に、すぐ易占で占い「火天大有の三爻変」を得て「無事に元気で発見される」旨記した。ただもっと早く、消えた近辺の窪地か、或いは“女性に保護されているところ”を発見されるのではないか、と予想していた。いずれにしても“無事で元気な姿”で発見されるもの、と判断していた。したがって、予想は的中とは言えないが、無事であったという点では一応正しい判断をした。ただ、どうも釈然としない。本当に少年は、その日のうちに小屋にたどり着き、そこで7日間も過ごしたのであろうか。まず、警察犬が少年の匂いを嗅いで動きを追えなかった。なぜだ。発見場所まで大人の足で歩いて3時間半から4時間かかる距離であるという。そうすると7歳の少年なら5時間弱はかかるだろう。置き去りにされたのは午後5時過ぎである。つまり発見場所にたどり着くと夜10時近くになる。山道で照明もない。その目的地を知っているなら、寄り道せずに歩き続けられるが、初めての場所だ。しかも暗い夜道だ。地形からいって登り道となる。灯りがなければ建物自体が発見しにくい。柵もある。暗い中で、柵から潜りもめる場所を発見できるだろうか。鍵のかかっていない扉を探すのも大変だ。四か所のうち三か所は施錠されていたのだ。例えば初日はそうだったとして、翌日、黙って、その小屋の中に居続けるであろうか。水しかないのに…。夜は真っ暗なのに…。毛布もないのに…。真っ暗な中を歩き続けてたどり着いたはずなのに、かすり傷程度、発見時に立っていて、普通に会話できたということ…大人でも、7日間飲まず食わずであれば衰弱し、立ってはいられない。生命力の強い子であることは、その人相から判断できる。それは、そうなのだが…。

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