8月, 2016年

“官能作家”を目指していた?石川啄木

2016-08-31

『週刊現代』で歌人・石川啄木の“もう一つの顔”を描写する『啄木・ローマ字日記』からの人物評が掲載されている。その中で石川啄木は“清貧の中で死んだ不遇の天才”ではなく、“妻子を養うこともせず借金して遊郭に遊んだゲス男”であるとこき下ろしている。う~ん、手厳しい。確かに『ローマ字日記』のストーリーだけ追えば、その通りの日常が“浮かび上がって”来るのは事実だ。要するに2か月余りの日記内容は、ローマ字でつづられている日々の出来事で、啄木自身は出版されることになろうなどとは夢にも思わず、書き記していたものだ。なぜ、ローマ字で記したのかと言えば、妻に内容を悟られたくなかったからだと、彼自身が述べている。しかも、本来は遺品として“燃やしてほしい”と妻に依頼していた日記なのだ。それがどうして出版となったのか奇妙だが、この日記で興味深いのは、彼が江戸時代の“官能小説”をそのままノートに筆写していると書かれていることだ。しかもローマ字で筆写している。この“官能小説”は、ひたすらsexに明け暮れる内容で、最後は“乱交”となって終わるという仕立てになっている。それを3時間もローマ字で筆写しているのだ。なぜ、そんなことをしたのか、週刊誌上では“エロいゲス男だからだ”というような捉え方だが、私は異なる。3時間もローマ字で筆写するのは、その表現や内容を的確に把握したいからで、当時、作家を目指していた啄木にとっては“官能小説家”となって人気を得るための“勉強”のためではなかったか。遊郭に通ったのも、実際にさまざまな性愛を試すための手段ではなかったかと思えるのだ。なぜなら、その日記によれば、彼は“フィストファック”など特殊な性行為を試みているからだ。実践せず“官能描写は書けない”と思った彼は、ひたすら遊郭で“実体験”を積もうとしていたのだ。だからこそ「妻を愛している…だから読ませたくない」と記してもいるのだ。実際、この当時、彼は次々と小説を書いたが、どの出版社も取り合ってくれなかった。彼は仕方がなく、自分への慰めとして「短歌」も書いた。彼にとって、短歌は“仕事”ではなかった。同時に“官能小説”であれば“原稿料”を得られるかもしれない。そういう思いからの“エロくない筆写”だったのだ。

海外の「日本食」が危ない

2016-08-30

バンコク首都圏における“日本食レストランの数”が、今年に入って頭打ち状態になってきているらしい。もう1700店舗以上もあるのだから、当然と言えばそれまでだが、昨年までの“伸び率”から考えると、明らかに“変化の兆し”が表れているといえそうだ。現在、世界には約90,000店の“日本食レストラン”がある。地域別の内訳をみると、アジアがダントツで45000店舗もある。ここ数年でアメリカも飛躍的に伸びたが、それでも北米全体でまだ25000店舗くらいしかない。ところが近年は外国人の“日本食”に対しての舌が肥えて来たのか、“本物の日本食”を求めようとする傾向が強い。確かに“日本食レストラン”とは名ばかりの店が多いのは事実だ。私もさまざまな国や都市で“日本食”の店に入ったが、総じて本当の「日本の味」を“売り”にしている店は価格が高い。いずれも高級店が多い。そこで“日本食まがい”の店が登場する。看板は“日本食レストラン”なのだが、何かが違う。日本では“ありえない寿司”や“ありえないラーメン”が出てくる。日本人以外の経営者や調理人の店である。メニューにも日本語がないとか、日本食と言えるような品目が少ない。日本人経営者の店には“おにぎり”や“味噌汁”が置かれていることが多い。大抵は日本の新聞も置かれている。一応「いらっしゃいませ」の日本語で迎えようとする。とにかく、そういう店は少なく、外国人が“自己流で日本食”を提供している店も多い。したがって、日本食レストランが飽和状態となり、都会では選別が進み始めている。つまり、何でもかんでも“日本食なら売れる”という時代ではなくなりつつあるのだ。バンコクは“日本食レストラン”の進出が早かっただけに、そして近年、日本を実際に訪れる旅行者も多くなっているだけに、本格的な“日本の味”にシフトしてきているのだと考えられる。この傾向が諸外国でも強まっていけば、どの国へ行っても“和食の店”を簡単に見つけられる時代が徐々に遠のいていく可能性が出てくるのかもしれない。

「愛」という問題点が浮き彫りになったTV

2016-08-29

今回の「24時間テレビ=愛は地球を救う」は、いろいろな意味で「テレビ」というものの本質と問題を炙り出していた。まず、直前になって出演予定だった俳優が“強姦致傷”で逮捕される。次に同番組が放送中に「笑いは地球を救う」という“障碍者=感動話”とすることへの“批判番組”がNHKで生放映された。さらに2日前、“熱愛・妊娠・結婚報道”が出たタレント有吉氏が生出演して“珍妙な否定コメント”を出した。それぞれが絶妙なタイミングだっただけに“多くの問題”を提起してゴールを迎えた。まず「24時間テレビ」は、本当にチャリティー番組としたいなら、出演タレントは「出演料を全額寄付する」ことを前提にしなければ意味がない。それでも「出る」タレントだけを出すようにしなければ、本当のチャリティー番組とはならない。もし、最初から“そういう趣旨”で選んでいたなら、少なくとも“強姦致傷”で逮捕されるような俳優は人選されなかったことだろう。“金を積んででも人気のある若手タレントを出す”という意図が、チャリティー番組としての「愛」を“時として踏み間違いやすい”危うさを引き摺っている気がしてならない。次にNHKの情報バラエティ「バリバラ」では意図的とも思える形で「笑いは地球を救う」というスローガンを掲げて、“障碍者=感動話”へと持っていく「愛は地球を救う」のチャリティー番組を批判した。障碍者を“モノ扱いしている”という批判にはもっともな部分も多いが、だからと言って「笑いは地球を救う」というのもおかしな話で、必ずしも、そういう単純なものでないことだけは確かであろう。つい先ごろNHKは「貧困女子高生」報道で“貧困か疑われる”ような映像を流したばかりだ。時に過剰演出となる「愛は地球を救う」的な番組作りは、NHKにも反省の余地はあるのだ。最後にタレント有吉氏の“否定コメント”だが、毎朝スポーツ新聞各紙の一面から情報を拾っている「朝チャン」に、有吉氏との“熱愛・妊娠・結婚報道”が出た夏目三久さんがMCとして出ているのだから、すぐその場で「これこれの報道が出ていますが、根も葉もないデタラメ記事です」と本人がコメントすればよい。それを、まるで“示し合わせたかのように”、その夜まで全くスルーして、夜になってほぼ同時に“否定コメント”を事務所側から出す。それだけでなく、各TV局も何故か日刊スポーツの報道には完全無視を決め込む。でかでかと“トップで出ている記事”を扱おうとしない各局のワイドショー番組は“意図的に外した”としか思われない。TV局やマスコミの“公平性”など、日頃から述べているコメンテーター達も沈黙してしまう。報道に元々“公平性”など存在していないのだ。

170万人患者から判明した“誕生月”&“病気”の関係

2016-08-28

世の中には“信じがたいデータ”もあれば“信じられるデータ”もある。特に海外の大学から発信されたデータには“怪しいもの”が多い。あまりにも“単純な比較”や“安易な実験”で決めつけているケースも多いからだ。けれども、今回のデータは違う。何しろ、28年間に及ぶ170万人もの“患者データ”をもとにしているのだ。アメリカのコロンビア大学の研究チームが出した結論で、誕生月と病気の発生には“関係性があるかどうか”を調べたものだ。それにしても、これだけの数をデータ処理するためには、複数の総合病院側から全面協力を得なければ到底できない。よく病院側も協力してくれたものである。実際には1985年から2013年までの患者データが用いられているが、その病気の種類は1688種にも及ぶ。ちょっと細かすぎるので、処理的には55種の病気としてのデータとなっている。誕生月ごと「なりやすい病気」と「なりにくい病気」とに分けられている。その結果、誕生月別では「5月生まれ」が病気のリスクがもっとも低く、特に“風邪をひきにくい”らしい。「2月生まれ」は“呼吸器系のがん”に掛りやすく「4月生まれ」は“循環器系の諸病”に掛りやすい。「8月生まれ」は“結膜炎”に掛りやすく「10月生まれ」は“風邪をひきやすい”。また「11月生まれ」は“腸疾患”には掛かりやすいが、“がんに掛かりにくい”のが特徴だ。もちろん、これらのデータは、アメリカ人を対象としたものなので、果たしてそれが日本人に“そのまま当てはまるのか”疑問の余地がないでもない。奇妙なことには、こういう“興味深いデータ”は世界的に発信されるのだが、それを確かめるべく“各国のデータ”も集まるかというと、意外と“後追い研究”はしないケースが多い。さて占星術師たちは、これらのデータを“どう活用?”していくべきなのであろうか。

「冥婚」で“死後の花嫁”を得ようとする人々

2016-08-27

中華圏に続いている“奇妙な風習”を初めて知った。“死後の花嫁”を求める「冥婚」という儀式だ。地域によって「幽婚」とも「鬼婚」とも呼ばれるらしい。とにかく未婚のまま亡くなった男性に“死後世界用の伴侶”を授けようとするのが本来の目的であった。主として一家の“働き頭”でありながら、若くして事故で亡くなった男性に施すのが3000年前から脈々と続く風習らしい。最初それは“幽玄なる儀式”として、真摯に執り行われてきた。本人の遺影が飾られた室内で、本人の棺の中に、死後世界で“花嫁となるべき女性の遺骨・遺体”を静かに納める。そうすることで本人の魂は鎮まり、身内に対して“祟る”ことがない。これが重要なのだ。だから「冥婚」は“死者への儀礼”として重要なものとされ、今日まで密かに続いてきた。もっとも、亡くなった本人にふさわしい“死後の花嫁”を見つけ出すのは実際のところ難しい。もちろん、同じころに亡くなった“少女の遺体”や“若い女性の遺体”が必要なのだが、今日ではそれを見つけ出すのは容易ではない。そこで、どうするか。殺人が行われるようになったのだ。そして、それが実際に行われ、実に日本円で100万円前後の価格で売買されるという“信じがたい闇取引”が、現代でも行われているというのだ。今年の4月、中国・陜西省で「冥婚」目的から殺害した遺体2体を運んでいた車が発覚し、容疑者が逮捕された。本来は、荘厳な“死者への儀礼”として執り行われてきた風習だが、実際のところ中国では、以前から産まれてくる男女の比率が“合わない”ことが指摘されてきた。事故で早死しなくても“死後の花嫁”を必要とする男性が多くなってきている。世界的に“未婚率”が高くなってきている今日「冥婚」という“奇妙な風習”は、けれどただ単に“奇妙な風習”では片づけられない“課題”をわれわれに投げかけているような気がする。

「犯罪」と「LINE」の奇妙な関係

2016-08-26

またしても…というのが、多くの人たちが抱く共通の実感だろう。埼玉の「河川敷16歳遺体事件」だ。全裸で半身以上が埋まった状態で16歳の少年は発見された。その後すぐ、犯人は“割り出された”が、一番の決め手となったのは仲間から「人を殺してしまった」との通信を受け取った中・高生2人が、警察にそれを届け出たことによる。またしても「LINE」が“犯罪”と結びついていた。殺した理由も「電話やメールを無視された」ことが一番だったらしい。短絡的な犯行と言ってしまえばそれまでだが、今回も4人以上の仲間が“犯行の一部”に加担し、或いは“その場で傍観”していた。同じような犯罪が1年前にあったばかりだ。近年、日本では“通信アプリ・LINE”が急速に普及し、仲間同士、友達同士での連絡や会話に使われるケースが多くなった。残念ながら、それに応じて“未成年の少年・少女の犯罪”が後になって、ラインによって“記録・証拠品”としてあぶりだされるケースも増えてきた。言ってみれば、犯行にも加担し、捜査にも加担しているのが“未成年犯罪の「LINE」”と言えるだろう。動画撮影もできる現在のスマホは“犯行の一部始終”を記録してある場合も多い。現代の少年たちの多くは、1対1での“決闘”をしない。ほとんどが複数(3~5)の仲間と1人の相手だ。これでは勝負になるはずがない。そして多くの場合、加害者側の暴行はエスカレートしがちである。「LINE」は“仲間を増やす”ことに対して有効なのだが、同時に“仲間はずれ”になっていく可能性を助長しやすい道具でもある。ここにラインの危険性がある。つまり、偶然に“同じような犯罪”が繰り返されているのではなく、必然として“仲間・友達”の無意識の基準を「LINE」が与えていることに気付くべきである。ラインによる“仲間”は、“仲間”でなくなった時、“多くの敵”を持つことになるのだ。

「親」と「子」の“距離”の在り方

2016-08-25

俳優の高畑裕太が強姦致傷罪で逮捕された。元々“危ない要素”を持っていた人物らしく、過去の共演女優などからも“それ”をほのめかす拒絶コメントが多かった。彼の風貌は“若い頃の母親”に似ていた。女優・高畑淳子である。親子なのだから、当然ではある。そう、どんなに拒絶しても、親と子は似るものだ。同じ日に、奇妙な事件があった。父親が息子を刺殺したのだ。中学受験を控える息子に対して、父親は異常に“教育熱心”だった。息子に対して受験勉強を強要し、最終的には刺殺してしまった。この親子も、風貌が実によく似ている。不思議なことに“似ている親子”は、同じ道を辿りやすい。つまり、同じような“部分”を持っているということだ。それが“性質”や“能力”や“体質”として表れる場合もあれば、運命的な“出来事”として表れる場合もある。自分と“同じような部分”を見出すと、本能的に親は子に対して“可愛い”と思う気持ち、或いは“困った”と思う気持ちのどちらかが生じやすい。そして、その両方共に“溺愛”を促す方向へと梶を切りやすい。占い師である私のところにも、親が子のことを、或いは祖父母が孫のことを、特に“その将来”を心配して相談を持ち込むケースは多い。この場合、明らかに親子間は“二つのタイプ”に分かれているもので、“距離感が近すぎる”タイプと、“距離感が離れすぎている”タイプだ。近年多いのは、シングルマザーで“祖父母に子供を任せている”母親と、夫婦共働きで“子供との距離感が生まれている”親だ。さらには子供が“何らかの先天的な疾患”を抱えているケースで、その将来性を案じる親や、自分の“家業を子に託せるか”どうかを案じる親も多い。ただ総じて“親側”が子供に対して“接近しすぎ”で、我が子を信頼して“見守る意識”の乏しい場合が多い。「運命のレール」は、親が子供に敷いてあげるものではなく、子供が自分で敷き始めなければ“動き出さない”ことを知ってほしい。

「正しい方向」を探り出すこと

2016-08-24

人生には、時に“どうすることもできない”ような“八方ふさがり”の時期がある。往々にしてそういう時に“自暴自棄”となって、自ら人生を狂わせてしまうケースが多い。けれども、そういうときに“忍耐強く”時の至るのを待って、苦悶しながらでも“正しい方向”を模索し続けていれば、やがて“長いトンネル”を抜け出したような“一筋の光明”が必ず見えてくるものである。ここで重要なのは、どこまでも正しい方向を模索し続けるということで、なんとなく気力を失い、日々惰性で流され続けていては“トンネルから抜け出す”のは容易ではない。かといって、がむしゃらに努力すればよいというものでもない。ここが難しいところで、多くの人は“どちらかに傾きがち”である。惰性に流されるのでもなく、がむしゃらに努力するのでもなく、自分の状況を冷静に見つめながら、忍耐強く“正しい方向”を模索し続けていく。「運命の女神」は、そういう人に“チャンス”を与えようとする。だから、一度や二度の失敗で“自暴自棄”になってはならないのだ。多くの人が感じているように「運命」は不平等だが、人生上の“チャンス”は不平等なりに必ず訪れる。元々“不平等なもの”を嘆いていても仕方がない。むしろ、不平等なりに“必ず訪れるチャンス”に賭けた方が“賢い生き方”といえるのではないか。忘れてならないのは、どこまでも、いつまでも、“正しい方向”を模索し続けていく、という点にあるのだ。

人生を支配する「過去」の亡霊

2016-08-23

今から20年前、一人の若者が大胆な決断を下した。人気グループから脱退して“オートレーサーになる”と…。そのレーサーとしての訓練中に大事故を起こし、一時的には“復帰絶望”とまで言われた。けれども、彼は“奇跡の復活劇”を演じて、その後はレーサーとして順調にランクを上げていった。現在は“最高位”にある。昔「SMAP」のメンバーだった森且行だ。彼は自立2年後には結婚し、すぐ息子も生まれた。けれども、数年前から妻子とは別居中であり、新たな女性と同棲中らしい。それを“このタイミング”で女性週刊誌が報道している。自ら“芸能界を去った”彼が、こういう形で“引っ張り出される”のは不本意に違いない。我々の人生には、予想外の形で「過去」が“引っ張り出される”ことがある。本人の中では“忘れたい過去”でも、何らかの理由から何度も蒸し返されることがある。そうかと思うと、異常なほど「過去」に“しがみついている”人もいる。俗に“ストーカー”と呼ばれるような行為がそれだ。一方で、どんなに振り払っても“追いすがってくる過去”があり、一方で必死に手を伸ばしても“消えてしまう過去”がある。我々の人生には、そこだけ「切り取られたかのような一断面」の時期があり、それが“その後の人生”に対して“執拗に影を落としていく”ケースが多い。謂わば“過去の亡霊”がいつまでも付き纏い、人生の節目節目に“ひょっこり顔を出す”ような不可思議な人生もある。私のように「一断面」どころではなく、遠い日の“アルバムすべて”を失ってしまった者でさえ…あれ「過去」がない! 記憶がない! 亡霊がいない!

二分化していく「イスラム」の女性たち

2016-08-22

フランスでも、ドイツでも、テロへの警戒感から“イスラム女性たち”への規制が強化されつつある。フランスでは“イスラム女性”の着用する「ブルキニ」と呼ばれる“肌を露出しない水着”が一部地域で禁止され始めた。ドイツでも“全身を覆い隠す”衣装である「ブルカ」の公共着用を禁止する自治体が出てきた。ちなみにイスラム原理主義思想では、女性は公共の場では「ブルカ」着用を義務付けている。ここでいう「ブルカ」は“目までも隠す黒い衣装”を言う。目の部分は“網目”になっているのが本来の姿だ。元々イスラム教は中東で生まれた宗教であるから“暑い地域”に信仰者が多い。その“暑い地域”で、一生涯“全身を覆いつくす黒い衣装のまま”過ごさなければならない。なんとも“自由のない過酷な宗教”ではないか。しかも、女性に対してのみの規制である。さすがに近年は“原理主義”からは少し外れた“眼だけは出す”「ニカブ」も多くなった。さらには東南アジアのように“髪の毛を隠せばOK”のような“緩い地域”も出てきている。そういう地域では、衣裳そのものもファッショナブルとなり、様々な色やデザインも取り入れ始めている。要するに“肌の露出だけは控える衣裳”へと転換しつつある。けれども、まだまだそういう地域は少なく、厳格な“本来の姿”を固執している宗派もある。そういう国や地域では「聖戦(ジハード)」に対する考え方も強いので、命令されれば「ブルカ」や「ブルキニ」に自爆装置を隠して“大衆に紛れる”行為も辞さない。敵を許さず、敵を懲らしめることが“神の偉大さを証明すること”と信じてやまない人たち、それが“原理主義思想”だからだ。「ブルキニ」や「ブルカ」の着用禁止は“イスラム女性への差別”として、人権団体などからの反発も強い。ただ「ブルカ」の着用義務そのものが“女性の人権を無視している”との見方もある。東南アジアなど“緩い地域”のイスラム教が普及していけば、やがて“服装は自由で良い”というところまで進めば、世界はもっと“平和になる”ような気がする。 

“絶対的善意”は、本当に必要なのだろうか

2016-08-21

オリンピックの陰に隠れがちだが、実は9月7日から18日まで「パラリンピック」というものが行われる。すでに56年もの歴史を持つ“障碍者による競技大会”だ。そのパラリンピックで運営費の予算不足が深刻な事態になっているという。考えてみれば、身体にハンデを持っている方たちの“競技大会”なのだから、その旅費が“通常の倍”は掛かるわけだ。165か国から参加するということは、その旅費・交通費だけでも相当なものだ。それらに対して開催都市からは日本円で47億円、開催国からは31億円の補助金をねん出したらしいが、それでも“深刻な不足状態”らしく、一部会場を閉鎖する動きもあるらしい。オリンピックのように様々な企業が“協賛してくれる形”にはならない。いや、妙な言い方になるが「オリンピック」でさえも、開催都市や国からの多額の助成金が必要である。確かに身体に何らかの障害があっても、スポーツに打ち込み、素晴らしい記録を打ち立て“メダルを獲得する”ことは本人にとっても、その支援者にとっても、人生に“輝き”を与えるに違いない。けれども、それらは常に“絶対的善意”ともいうべきものを背景として成り立っている。リオの「パラリンピック」の場合、約80億の補助金があっても足りないのだ。ちなみにチケットの方は、240万枚刷ったが、まだ30万枚しか捌けていない。残り210万枚を売りさばくのは困難だろう。関係者以外で、それらの競技を見に来る方たちは、本当に“その競技が見たくて”来るのであろうか。体に障害があってもスポーツはできる。時に健常者よりも“優れた記録”を打ち立てることもできる。それはスポーツだけでなく、仕事とか技術にしてもそうである。本来、健常者と障碍者を分ける意識がなければ、そんなことはパラリンピックを見なくたって“当然のこと”と理解している。今日“絶対的善意”は、身体の障碍者のみに与えられるべきものとはならなくなっている。少なくとも私にはそう感じられる。「パラリンピック」は深刻な予算不足に陥ってまで開催すべきものなのだろうか。

「心」を研ぎ澄ますことで見えてくるもの

2016-08-20

どんなに“ギャンブル嫌い”の人でも、人生に何回かの“賭け”は必要である。もちろん“人生上の賭け”であって、ギャンブルそのものではない。例えば“志望校”を選ぶこと、“就職先”を選ぶこと、“結婚相手”を選ぶこと、“転居先”を選ぶこと…人生上での“選択”はつきものであり、最終的にそれは“一種の賭け”となる。中には自動的に決まってしまうような場合もあるが、何回かは“自らの決断”となる。そういう時に、何が“決め手”となるかは、人それぞれによって微妙に異なる。ただ“理由づけ”はそれぞれあるのだが、最終的に決断を下しているのは「心」である場合が多い。つまり、我々は無意識に「心」を“司令塔”として動いている。奇妙なことに「頭脳」を“司令塔”としているわけではない。例えば条件的に“ほぼ同じくらい”だった場合に、最終決断を下すのは「頭脳」には難しいが「心」はできてしまう。なぜ出来るのだろう。それは「心」が“潜在意識”とつながっていて、その潜在意識は“過去・現在・未来を共有している”からである。生まれてすぐの頃のことも、今現在の状況も、そして“うすぼんやりとした未来”もなんとなく把握しているからだ。だから「心」に任せれば、多分、大丈夫という奇妙な確信の中で、我々は生きている。もちろん、その中には“好き嫌い”というものも加わっていて、それは「頭脳」を凌駕するもので、意外なほどの支配力を持つ。日頃から「心」を研ぎ澄ましている人は、だから迷いがない。より強く“潜在意識”とつながっている自信があり、“うすぼんやりとした未来”からの警告をもとに選択している確信があるからだ。俗にいう“何となくの予感”というやつである。我々の人生は、結局この“研ぎ澄まされている”かどうかで、大きく異なる「心」を司令塔として、明日に賭けている。

「東京人」になれるかどうかの問題

2016-08-19

基幹産業が乏しい地方にとって、高校生などの卒業生が、地元に就職してくれるかどうかは“地域活性化”につながる重要な課題となっている。そこで青森市は、高校3年生を対象として「なるほど地元就職」という“青森”と“東京”それぞれ就職後のシミュレーションを比較したリーフレットを6000部作成し、就職説明会などで配った。そのこと自体は何の問題もない。問題はその中身で、シミュレーションによれば青森に就職組は、31歳・既婚で子供2人の世帯貯蓄が933万円となり、頭金なしでも2722万円のマイホームが購入できる、という“夢のような話”が掲載されている点だ。もちろん“地元に残ってもらいたい”のだから、多少、オーバーに記すのは仕方がないが、“あまりにも現実とかけ離れている”という地元民からの批判が寄せられているらしい。まあ、一般的に考えて“当然”の指摘だ。それよりも、私には“気になる点”がある。これは青森だけではないのだが、地方で“方言”や“アクセント”が標準語と大きく異なっている場合、その部分が東京での生活に“微妙な影”を生むケースがあることだ。また同じ地方でも地方都市ではなく、完全な“田舎”で育っている場合は“生活習慣の違い”も大きい。電車の乗り降り事態に“四苦八苦”するのが普通だ。さらに、北海道など“寒い地域”で育つと、東京の“暑さ”に辟易するケースもある。こういう“微妙な違い”が「東京」への同化を難しくする。決して“経済的な違い”だけではないのだ。私は大昔、2週間余だけ“東京暮らし”をして、その暑さと息苦しさに“逃げ出した”経験がある。最終的には“体質”や“性質”が「東京」に馴染めるかどうかなのだ。多くの場合、特に“田舎の地元”が馴染めなかった人は、東京と言わず“都会暮らし”の方が“肌に合う”ものである。個性が強すぎる人も“田舎暮らし”には向いていない。田舎は、その自然環境に“同化できなければ”良い暮らしができない。同じように東京でも、すんなりと“入っていく”ことができる人だけが、本当の「東京人」になれるのである。

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