1月, 2017年

“ヨガ人口”と「肥満税」の不思議な関係

2017-01-31

インドのモンディ政権で「肥満税」が導入されるかどうか、注目が集まっている。既に“7千万人近い人が糖尿病”と診断されるインドでは、その一番の原因とされるジャンクフードへの課税が急務とされている。同じように「砂糖税」という名目で、“甘い飲料”などに課税している国が、フランス、メキシコ、イギリスなどだ。本当は、一番先に導入しなければならないのはアメリカのような気もするが、自国の中で“儲けられる”のにトランプ大統領からそういう発言は出ていない。もっとも、この種の課税による肥満予防は、実際にはあまり役立たない、という指摘も多い。日頃から“健康志向”の人が買わなくなるだけで、実際に“歯止め”を掛けたい人たちには効果がないというのだ。しかも、一部食品だけでは“不公平”という指摘もある。それにしても、インド人がそんなに“肥満になっていた”ということが私には驚きであった。確かに、以前インドの“お見合い事情”をNHKが密着報道していたが、総体的に“太目の女性たち”が多い点が印象に残った。インドというと、私などはどうしても「ヨガ発祥の国」というイメージで、“瘦せ細った身体”や“骨ばった身体”が思い出されてしまうのだが、現代インドではそれほど“ヨガ”は普及していないのかもしれない。私が十代の頃、まだ“ヨガ”は“珍しい健康法”で、日本でも欧米でも今日のように一般化はされていなかった。私は運動神経が鈍く、倒立が出来ないので止めてしまったが、その基本とするところは何となく理解はできる。ただ思想・宗教的な部分が絡んでいるので、あまり深入りしすぎると、現代生活からは逸脱してしまうような気がする。その辺のバランスが難しい。本当は“肥満税”を掛けるより、自国の“ヨガ推奨”を掲げる方が効果的に思えるのだが「古き良きインド」は今や廃れてしまったのかもしれない。

「トランプ」と「アメリカ」の対立が“深刻”になっていく

2017-01-30

「トランプ」新政権が誕生したとき、私は彼のホロスコープで“天のサンタクロース(木星)”と“天の悪魔(土星)”とが同時に反応していることを伝えた。それはそのまま新政権の現状を見れば明らかである。彼は「敵」と「味方」とを二分させながら進もうとしているが、実際には明確に“二分出来ない”のが政治の世界だ。それでなくてもアメリカは“人種のるつぼ”で“日本のような純血種”とはわけが違う。もはや“開拓者時代”ではない。早くもあちこちで“矛盾”の衝突が起こり始めている。移民を敵に回し、マスコミを敵に回し、裁判所を敵に回し、グローバル企業を敵に回し始めている。極端なことを言うと、これまでの国家としての「アメリカ」を敵に回そうとし始めているかのようである。元々、私は彼をホロスコープから太陽と月とが180度で向かい合う「矛盾の王」なのだと記した。正に彼は徐々に「アメリカ」そのものを、敵として攻撃し始めているかのようですらある。彼自身が、早くそのことに気付かなければ、やがて“悲劇の幕引き”が画策されるかもしれない。そこで“鎖国主義”の彼が本当に見習うべきは、当然18世紀までの「江戸JAPAN」なのだ。この鎖国時代に日本は“徳川三百年”の安定した政治と、固有の芸術や文化を誕生させた。それこそ現大統領の目指すところのはずである。元々アメリカに欠けていた固有の芸術や文化を“華開かせる”チャンスなのだ。カウボーイハットで胸に保安官バッチを付け、馬に乗って銃を構える姿こそ、メキシコ国境に相応しい。やがて、その銃口が“移民たち”に向けられた時、近年多かった“白人と黒人の対立”は無くなるのであろうか。大昔のように黒人たちは白人たちの“しもべ”となって、丸く収まるのであろうか…。

兄弟それぞれの「病」

2017-01-29

九州に暮らす実姉から電話があった。東京で暮らす弟が“がんで手術する”という。その話の過程で登別の兄も闘病中であることを知った。札幌の私は妻が闘病中であり、九州の姉も夫が年明けから入院中で、四人の兄弟それぞれが自分か配偶者かが“重い病を患っている”状態であることに気付いた。それぞれ齢を取って来た証拠ともいえるが、兄以外は60代で一般的には“病に伏す”ほどの年齢でもない。私の妻など40代である。こういう風に“家系・血縁”で病に伏す者が続くと、何かしらの“祟り”や“呪い”のようなものがあるのでは…と勘繰りたくもなる。けれども兄弟それぞれが離れて暮らすようになって、もう何十年にもなる。宗教や信仰もそれぞれ異なっているが、特別それで問題となったこともない。家系・血縁的な信仰が問題なら、もっと前の段階で生じているだろう。墓所が遠いのと信仰の違いから、墓参りは最近出来ないでいる兄弟が多いが、そういうケースは特別珍しくもない。結局、独身の弟の手術には兄貴の長女が立ち会うよう手配しているらしい。私はいつも思うのだが、兄弟というのは不思議なもので、幼少期には“常に一緒だった”ものが、青年期に入るとそれぞれが距離を置き、中年期には疎遠になってしまうケースも多い。特に暮らす地域が大きく離れている場合、“遠くの親戚より近くの他人”でどうしても疎遠になりがちである。ところが人間不思議なもので、高齢になって、あちこちに病が出て来るとか、身内が少なくなって、暮らし向きに変化が出て来ると、再び“兄弟の絆”が舞い戻って来る場合も多い。極端な場合、それまで“犬猿の仲”だった兄弟が、何故か幼子のよう手を取り合って一緒に生活し始めるケースさえある。親子の絆、兄弟の絆、先祖の絆…“運命の赤い糸”とは、必ずしも“男女の出逢い”だけを指すものではないのかもしれない。

「47億円の豪邸」がネットから消えた

2017-01-28

今月初めからネットで売りに出されていた“47億5000万円の白亜の豪邸”がネット上から消えた。別に“売れた”からではなく、売主が騒がれるのを嫌って「売り止め」にしたからなのだそうだ。東京・文京区の物件だが、“新築”とはいうものの完成は2015年12月であるから、一年以上経過している。豪華な調度品付きだそうだが、マスコミなどの“内覧は不可”で、ネット上でも公開されていなかった。まず中を“非公開”にして、つまり外観だけで“ネット上で売る”という発想が理解に苦しむ。もちろん、買う可能性ある希望者には“個別案内”をするのだろうが、外観の写真も特別見栄えが良いものではなく、とうてい“47億5000万円の物件”には見えない。専門家によると、周辺の土地代や建築費用などから推定し、調度品を除けば約22億円程度がふさわしい物件のようだ。286坪13LDKの二階建。世界各国から取り寄せた調度品が並んでいるらしいが、必ずしも購入希望者が調度品を気に入るとは限らない。外観はともかく、内装や調度品というのは個人の“趣味が出る分野”で、売主との趣味が合えば良いが、どんなに豪華でも趣味や好みが合わなければ無意味なものとなる。海外では“調度品付き”で売りだすのが一般的らしいが、個々生活の仕方が違うので、調度品付きというのは、私個人で言えば好まない。よく分譲マンションなどでも“家具付き”モデルルームとして使用した部屋を、そのまま売り出している場合があるが、あまり“使い勝手の良い調度品”や“見栄えの良いインテリア”が使用されているケースは滅多にない。建築家によると、合理的な暮らしを望むのであれば戸建てよりマンションの方がはるかに良いそうだ。また“大きすぎる家”は使わない部屋が出て来て無駄になるだけでなく、使わないでいるとあっという間に朽ちて来る。それにしても私は本を入れる書棚が欲しい。ところが“新たな書棚”を入れるスペースがない。というわけで“高価でも汚い古書”がソファ周辺に積みあがっていく現象を何とかしなければ…。

なぜ日本と中華圏の「正月」は異なるのか

2017-01-27

毎年、この時期になると中国の「春節」が話題になる。実際、今年は1月27日から2月2日までの7日間、中華圏では「春節」による“正月休み”となって国内外に旅行者が溢れ出す。中国人にとって、日本はタイに次ぐ観光国なので大挙やって来るのは間違いがない。日本では「春節」のことを「旧正月」と説明することが多いが、厳密にいえば“太陰暦上の正月”で“旧”ではない。しかも、1月27日からではなく、正確には1月28日からが正月なのだ。まあ「大晦日」を含めて“正月休み”と表現しているのだから、別に間違いではない。日本では明治6年まで中華圏と同じく“太陰暦”を「暦」として日常で使用していた。したがって日本では「旧暦」という言い方になるが、中華圏では現在も使用しているので「旧暦」ではないし「旧正月」でもない。中華圏では「農暦」という呼び方も用いる。農家の方々にとって“役立つ暦”だからだ。日本の文化はアジア圏にありながら“欧米型”が多く、「暦」でも現在は“太陽暦”で、農作業に役立つ“太陰暦”は事実上使用していない。その代わりというべきか、民間暦としての「開運暦」や「運勢暦」の中に“太陰暦”が組み込まれている。ちなみに「立春」や「春分」などの“24節気”と“太陰暦”とは何の関係もない。勘違いしやすいのだが“24節気”というのは“太陽暦”の一種なのだ。“太陰暦”とは文字通り“お月様の形に基づく暦”のことで、ちなみに明日は“元日=1日”なので“月が見えない新月”となる。中華圏の占い師の中には、この「春節」からが“新しい一年”であると主張してやまない人たちがいる。確かに“太陰暦上の新年”であることには違いない。けれども厳密には「春節」という表現自体が間違いなのだ。よく日本の占い師で「立春」からの“一年”を、“旧暦上での一年”とか、“太陰暦上での一年”とか、初歩的な間違いを真顔で述べている方がいるが、あれも違うのだ。あくまでも「立春」は“24節気=太陽暦”による区分であり、それでいながら中国で3000年以上も前に確立されていた“本来の春節(節気による区分)”なのだ。

文章もロボットが書く時代

2017-01-26

世の中には“情感や情緒を必要とする文章”もあれば、逆に余計なものは排除した“合理的な文章”が望ましい場合もある。おもに上場企業がマスコミなどに発表する“決算情報”に基づく記事などは、必要なこと以外は排除してある記述が求められる。そういう文章は何も“決算情報”に限らず、データ的なものを取り込む専門誌などではしばしば求められる。われわれはどうしても“文章”というと、それなりの“情感や情緒”が盛り込まれたものであるかのような先入観を持っている。確かに“無味乾燥な文章”は読んでいてつまらない。最近は文学でもデティールだけを追ったような作品もあるが、そういう小説や物語を読んでも情緒移入することはできない。別に特別な感情表現などなくても、不思議に“心打つ作品”というのはある。それはどこかに書く人の“人間性”や“思い”のようなものが滲み出ているからである。つまり文章に“生命”が宿っているとき、人はその文章に“心が吸い寄せられていく”ように出来ているのだ。けれども、元々が“蓄積すべき情報”として必要な知識には、感情移入は邪魔者でしかない。そういう文章用に開発されたのが“決算情報を自動で文章化するAI(人工知能)”である。日経新聞が大学などと共同で開発したらしい。決算発表用の資料から必要なデータを取り込んで、日本語で一般の人が読みやすく、分かりやすい文章とする。今回は“企業決算用”だが、これを応用することで、データを取り込む様々な文章用へと転用ができる。実際、そのAIによる企業決算の新聞用記事を読んでみたが、何の違和感もない。通常の“経済面の記事”そのものに映る。こうやって徐々に“人間の領域”が侵されていく。そのうち“推理小説”なども、人間が書くよりロボットが書く方が“見事な推理”として展開されるようになっていくのだろうか。囲碁でも将棋でも、最近はAIの方が“強く”なりつつある。ロボットに跪き、人間の方が“しもべ”として働くようになる時代(?)、生きていなくて良かった。

タイトルで売れたのか、中身で売れたのか?

2017-01-25

“本が売れない”と言われているこの時代、一週間で6万部も売り切った小説がある。それも何の賞も受賞していない新人作家の私小説だ。主婦作家であり、無名作家と言って良い。宣伝となる新聞広告などは、これから行われるらしいが、これまでは何もしていない。それなのに何故か評判となり、そのタイトルは一気に知れ渡った。確かに興味深いタイトルだ。そして何となく中身が気になるタイトルだ。よくよく見ないと、タイトルが見当たらない。目の悪い人には、ちょっと不親切な“表紙”だともいえる。加えて著者名も、よくわからない。表紙の装丁も、イラストも、判然とせず、すべてが中途半端な“実験本”のようですらある。昔、江戸川乱歩の小説に『屋根裏の散歩者』というのがあった。押入れの天井板が偶然持ち上がることを知り、そこから屋根裏に這い上がって動き回り、アパート住人たちの私生活を、天井板の節穴から“覗き見る”生活が始まる小説だ。真下住人の私生活を“覗き見る”というのは、実際には不可能な行為だが、われわれの誰もが持っている“好奇心”や“妄想”を掻き立てるのに十分な設定ではある。それに近いタイトルが『夫のちんぽが入らない』のようだ。なかなかストレートなタイトルだ。書き手は、特別“私小説”を意識して書いたわけでもなく、官能小説を意識して書いたわけでもなく、或る種、自分の“生きて来た様”をそのまま率直に、何の飾りもつけず正直に書いた結果として、こういうタイトルに至ったのだと思う。だから、意図的な“狙い”のようなものは、実際に作品を読んでみると全く感じない。ただ奇妙なリアリティがあって、乾いた哀しさのようなものが、ぐいぐい読者の胸に入り込んでくる。さらに、もう一つ“学級崩壊”のテーマが潜んでいて、その部分もまた“入らない”ことと同じくらい“切なく”哀しい。悩める性生活、悩める親子問題に突き当たっている全女性に読んでほしい作品だ。

「性」なんて、変えない方が“どうかしている”

2017-01-24

やがて、そういう時代がやってくるのかもしれない。「性別を変える」ということが、当たり前になる時代だ。なぜならアメリカには、既に“息子”から“娘”に変わった頃、ほぼ同時に“母親”から“父親”へと切り替えた親子がいるからである。「僕は女の子なんだ」と打ち明けられた母親は、何ら驚くことなくそれを受け入れ、それどころか息子に“ホルモン投与”まで勧めた。そして、その変化や効果を観察したうえで、自分自身も思い切って“オトコへの変身”を開始し始めた、ということのようだ。しかも、本来の父親や他の子供達もそれを受け入れ、それによって“家族愛が深まった”と感じているらしい。誰も“違和感”を訴えないのが素晴らしい。アメリカでは、そういう家族は他にもあって、一男一女で3歳違いの息子と娘が、共に性同一障害で家族で話し合い、“息子”は“娘”に、“娘”は“息子”に切り替えたらしい。こちらも、ほとんど同時期に“性別を変えだした”のが特徴だ。まあ、親からすれば息子と娘が“入れ替わった”という認識で問題はないのかもしれない。アメリカの風土が“性の切り替え”を容易くしている側面は見逃せないが、時代は明らかに“そういう方向”へと向かっている。日本人はどちらかというと、そういう方面に関しては保守的で、すんなりと受け入れる雰囲気はまだまだ少ない。その一つの理由として、形から“入っていく人”が少ないからだ。アメリカの場合、比較的容易にホルモン投与を行ってくれる。したがって、形からの“変身”を行いやすい。そうすることで抵抗なく“新たな性”を本人はもとより、周囲も徐々に受け入れてくれるのかもしれない。日本の場合、ホルモン投与に進むまでの段階が長く面倒である。専門的な医師も乏しく費用も掛かる。「そんな簡単に変えちゃダメ」という雰囲気が周囲にもある。働くところも、水商売以外は“難しい”のが現実のようだ。日本でも、普通に薬局で“性転換用ホルモン剤”が売られるようになれば「よーし、明日からは女で行こう」とか「明後日から男なんだ」とか言える時代が…本当に来るのか?

時代がTV番組の“中身”を変えていく

2017-01-23

最近、フジテレビの昼「笑っていいとも」の後番組として“不評”だった「バイキング」が“好評”に変わりつつあるという。それは坂上忍氏中心の“激論スタイル”に変化させてからのようだ。確かに、切り替わってすぐは“何”をやろうとしているのかが分からなかった。無駄に芸人ばかりが多くワイワイやっていくスタイルは、見ていて癒されるものではなく、第三者的に楽しいものでもなかった。それが昨年の半ばくらいから“激論スタイル”が定着して、大衆の関心事や芸能ネタを“本音で語り合う形”には、それなりに興味深い部分が生まれてきていた。例えば“高畑親子の問題”を、それぞれが自分の問題に置き換えて“語り合う”ようなとき、そこには“芸能ネタ”としての問題だけでなく、仕事と家庭・家族を“どう位置付けるか”という普遍的なテーマが隠れていた。それは必ずしも、芸能人だけの問題ではない。親子の関わり方、仕事と家庭の関わり方は、誰もが経験し、その“最良の接点”を模索している部分だからだ。台本のない“激論”は、日頃“ふざけている”ことも多い芸能人たちが真摯に生きている証拠でもあった。この番組の前身は、言うまでもなく「笑っていいとも」だが、近年は“弾けた部分”がなくなって、笑い転げるような番組ではなくなっていた。番組終了は、自然な流れであった。時代が、昼間“笑って過ごす”雰囲気ではなくなってきたからなのかもしれない。しかも「笑っていいとも」の“売り”は「友だちの輪」だったが、番宣中心になり、それすら“消えて”しまったのが実情だった。実際、タモリ氏は最近「友達なんかいらない」と発言して注目された。同じように橋田寿賀子氏も「もう友達はいらない」と言い出した。時代は、国家も含めて“内向き”に変わり、みんなが手を取り合う時代ではなくなりつつあるのかもしれない。TVは時代に逆らえない。向かっていく時代は果たして正しいのであろうか。

日本から「幼な妻」が消える!

2017-01-22

世の中、何でも“平等”にすれば良いというものではない。また一つ“男女間の違い”が無くなりそうである。今国会で成人年齢を現行の20歳から18歳に引き下げる改正案が出されるのだが、それに合わせて結婚可能年齢も“男女とも18歳”で統一されるそうだ。もちろん、これまでは女性のみ“16歳”から結婚が可能だった。昭和40年代『幼な妻』という小説があって大ヒットした。その「幼な妻」が、2021年からは消えてしまうらしい。なんとなく“残念”に感じるのは私だけなのであろうか。調査機関によれば、2015年に18歳以下で結婚した女性は全国で1232人もいるらしい。そんなにも“いる”ということが私には驚きだった。もしかすると中学卒業を待って結婚し、実質、高校から戻って以後が妻の役割で、朝は夫より一足早く家を出る「幼な妻」がいるのかもしれない。大学生と高校生の新婚さんの場合は、二人とも夜は“同じ店”でアルバイトをし、働き終えて自宅に戻る日常かもしれない。中には夫が社会人で、昼間ひとりになった「幼な妻」が愛するペットと戯れている場合もあるだろう。想像すると、さまざまなパターンがありそうだ。それはそれで或る種の“日本的情緒”のようなものを感じてしまうのだが、時代は徐々に“画一的な暮らし”を促す方向へと向かいつつあるようだ。私は初婚の時、元妻がまだ19歳の時に半同棲となったが、先方の両親から結婚を反対されることが予測できたので、20歳を過ぎてから「結婚させていただきます」という言い方で、親に有無を言わせなかった。父親は「逢わない」と言ってきたが、その父親の帰ってくる前の夕方に実家を訪れ、先方の母親と三人で父親を待った。既に上がり込んでいた私と、その日、父親は最後まで口をきこうとしなかった。けれども、いざ、結婚式の当日は、一番張り切っていたのは父親の方だった。日本にあった“様々な風情”が一つ、一つ、剥がれ落ちていく。

「高樹沙耶」と「益戸育江」の間

2017-01-21

フジテレビ取材班が逮捕されて三か月の元女優・高樹沙耶の近況等を報告している。それによると現在は拘置所内で23日から開かれる公判を待っている状態らしい。「大麻の共同所持」という罪状による逮捕であったが、本人は既に“吸飲使用”を認めていて、週2~3回ほど大麻をパイプで吸飲してきたと述べている。人は時々「エコライフ」とか「大自然に囲まれた生活」とか言って、都会を離れていく。もちろん、そうやって実際に“幸せ”を得ている人たちもいる。けれども、その“成功率”は残念ながら高くはない。多くの場合、最初の意気込みは消え、我が身体にムチ打って働きながら孤立した日常を送るか、傷ついて都会に舞い戻るか、どちらかが多いのだ。何の縁故もない田舎に溶け込んでいくのは容易ではない。特に方言やアクセントが独特の地域は、一言話しただけで“よそ者”と見分けられる。その地域に“馴染む”ということは、その人たちと同じような“話し方”に近づかなければならない。着ているものも、食べるものも、その地域に合わせなければならない。余程の覚悟がなければ、達成できないのが“田舎暮らし”なのだ。但し、何かしら“後ろめたい事情”を抱えている場合、田舎は“隠れ蓑”になる。そういう意味合いから“田舎を選ぶ”人達もいる。「益戸育江」の場合はどうだったのだろう。彼女は「高樹沙耶」と名乗っていた時には“華やかな都会”が似合った。本名でもある「益戸育江」に女優名も変えてから(?)“田舎暮らし”となった。仕事も、事実上、女優としては第一線を退いた。「益戸育江」には“華やかさ”が感じられない。この名前では女優として生きられない。そして、もう一つ、名前には不思議なほど“イメージの一致”という作用が働く。その人が、その名前にふさわしいイメージを備えていれば“その名”を長く使い続けるが、ふさわしいイメージを備えていないと、短期間で使用しなくなる。或いは使用できなくなる。そういう風に出来ているものなのだ。だから、本人と合わない雰囲気の名前は使用しない方が良い。そういう意味でも、いつまでも「高樹沙耶」と報道される彼女の“改名”は失敗だったのだ。

“サンタクロース”と“悪魔”が共存する就任

2017-01-20

日本時間では明日の早朝、ドナルド・トランプ氏の大統領就任式が執り行われる。彼は表面的な発言や行動でも注目すべき人物だが、占星学の観点からも注目すべき点をいろいろと持っている。特に、その“就任式”当日の惑星配置が、大変に興味深いのだ。彼は元々太陽と月とが180度向かい合う日時に出生している。こういう人は本人の“意志”を表わす太陽と、“気分”を表わす月とが“向かい合っている”ので、本人の“思い”とは逆の方向に“感情”が動く。そうすると、どうなるかというと“矛盾ある行為や言動”を無意識にとるのだ。解かりやすい例を引くと、大好きな男性に向かって「大っ嫌い!」と喚きたてる少女を連想すると良い。第三者的に眺めると「矛盾の多い人だ」ということになる。実際、彼の発言や行動を見ていると、そういう部分が少なくない。したがって大統領としては、本来“叫んでいた”こととは真逆の政策を行ってしまう可能性が強い。その出生時の太陽と月だが、就任式の日時にはトランジット(現在移動中)の木星からは太陽に120度、月に60度の吉角を与えられ、その一方で土星からは太陽に180度、月に0度の凶角を与えられる。占星学の古典で“天のサンタクロース”と呼ばれた木星からは幸運を授けられ、“天の悪魔”と呼ばれた土星から“試練や災難”を試される。まさに“そういう一日”のアスペクトなのだ。他にもトランジットの天王星は60度と120度、火星は双方に90度と、アクシデントが生じやすい惑星配置である。かつてケネディ大統領は遊説パレード中に射殺された。リンカーンは観劇中に射殺された。キング牧師は演説中に射殺され、マルカムXもそうだった。彼は“絶頂期の時”がもっとも“危険な日”となることを努々忘れず、大統領の職務を全うしてほしい。

「人」も変化し「運命」も変化する

2017-01-19

私のように長いこと“占い師家業”をやっていると、いろいろな方の“人生の変遷”を垣間見ることが多い。そして、つくづく“人間の運命はわからない”と思うことが多い。例えば、最初に出逢った時には“無職”だったのに、今は会社の“社長”として多忙を極めている人もいる。最初に出逢った時には“真面目な学生”だったのに、好きになった相手が良くなかったため借金に追われ、今はシングルマザーとして夜の世界で働いている方もいる。最初の結婚で失敗し“二度と結婚しない”と話していた方が、その一年後に社長の後継者と“国際結婚”したケースもある。財産家の元に嫁いだが、その二年後に夫が自殺し、そのあと精神が崩壊して“ギャンブル依存症”となった方もいる。実に、人生はさまざまである。さまざまな出来事や環境の中で、人は外貌だけでなく性格も微妙に変わっていく。良い変わり方もあれば、悪い変わり方もある。意図していなくても、変わらざるを得ないようなときもある。人生は長いので“その時の一断面”だけで、人を推し量るのは難しい。そういうときの手助けとして運命学(占い)というものがある。日頃テキパキと物事を片付けていくような人でも、人生に一度や二度は“迷って”決断のつけられないようなときがある。自らの“方向を見失う”ようなときがある。そういう時に“客観的な眼差し”を授けてくれるのが“運命学”だと思えばよい。「運命」という言葉に“のめりこみすぎる”のも危険だが、「運命」という“道しるべ”を無視しすぎるのも危険なものである。使い方次第で“毒”にも“薬”にもなる。それが占い師の一言なのだ。

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