9月, 2017年

甲冑姿の「サムライ」が刀を向ける

2017-09-18

近年の歴史・時代物ブームで“古戦場跡”観光というものが盛り上がっている。それ自体は良いことなのだが、その“古戦場跡”の一つ「関ケ原」で全身甲冑姿の「サムライ」が、山頂に続く階段を登りきったところで待ち構え、観光客に対して「おまえは、西軍なのか、東軍なのか」と威圧しながら刀を抜いて眼前に向けて来たなら、誰でも恐怖を感じてしまう。このほど、関ケ原観光協会が「そういう行為はたとえ冗談であっても絶対にしないでください」との通達を出した。近年、密かにブームとなっているものに「甲冑コスプレ」がある。江戸時代さながらに、全身を鎧で覆い、模造品の刀を差して、そういう姿のまま古戦場に出没する人物たち。一般の観光客は、古戦場跡に来ているので、そういうサムライたちがいると一緒に写真を撮ろうと盛り上がる。おそらく、刀を抜いての威嚇も、そういうコスプレの延長で、映画の一場面のようなつもりで行ってしまった行為かもしれない。けれども、階段を上りきったところで、いきなり目の前に甲冑姿の武士が出て来て刀を向けられたなら、恐怖を抱くのは当然である。しかも、そこは“古戦場跡”なのだ。私が最も恐れるのは、古戦場というのは“多数の戦死者が出た場所”だという点である。それら死者の多くは、きちんと弔われていない。したがって、現在でも怨念を抱きながら“浮遊”している可能性もある。甲冑姿になることで、そういう浮遊霊が憑かないとも限らない。自分自身は“遊び”のつもりでも、その刀に後退りして、階段から転げ落ちてしまう可能性もある。最近は、欧米人たちの間でも“甲冑コスプレ”への憧れを抱いている人たちがいる。欧米人たちにとって、甲冑姿というのは“魅力的”なのだ。確かに、どこかしら“アニメっぽい要素”がある。“なり切りたい”気持ちが解からないではないが、ブームになること自体が“大きな危険”と背中合わせであることに気付かなければならない。

「時代について行く」選択は正しいのか

2017-09-17

毎日、そこかしこに情報があふれている。無意識にわれわれは、その情報の多くを吸収しながら生きている。それが「時代について行く」という“生き方”である。けれども、本当に、それが“幸福な生き方”なのかどうかは誰にも分らない。もしかしたら、或る程度の“大人”になったなら、そういう“新しい情報”など不要かもしれないのだ。“新しい情報”を失うことで、多少は不便な時があるかもしれないが、その9割までは“余分な情報”なのだから、実際の生活には必要がない。少なくとも、知らずとも生きては行ける。例えば「北朝鮮のサイバー攻撃能力はCIAに匹敵できるほどのものです」とアメリカの司令官が証言していた…という知識。別に知らなくても何ら生活には支障がない。それどころか、知っていることで不安感が増大する。ストレスが一つ増えるのかもしれない。だから、知らない方が“幸福かもしれない”のだ。それなのに、これでもか、これでもか、というほどに情報は流れて来る。それらの情報を共有していることで“社会が成り立っている”部分も多少はある。われわれが普通に生活を営むうえで、知っておかなければならない情報というものも確かにある。例えば「ごみの収集日が変わった」などという生活情報は知っておいた方が良い。だから、どこまでが知っておくべきで、どこまでが知らなくて良いかは微妙で、職業などによっても違いが出て来る。ただ「時代について行く」という生き方だけが、われわれの選択肢ではない。時には“時代”に取り残されて、はるか前方に進んでいった“時代”を見送りながら、のんびり好きなことだけ考えながらハンモックに揺られている。そういう人たちが多くなったなら、世の中の“歯車”も、もっとゆっくり回転し始めるようになるのだろうか。

「ノーベル賞の卵」が“非正規雇用”で働く

2017-09-16

山中伸弥氏と言えば、謂わずと知れた“ノーベール賞科学者”である。現在は京都大学の細胞研究所所長を務めている。そのHP上に「ご支援のお願い」が掲載された。彼によると、研究所で働く教職員の9割が“非正規雇用”で保証がなく、支援金で賄われているため継続的な研究に支障が出ることもあるらしい。う~ん、日本の科学者って貧しい中で頑張っているんだなぁ…。知名度のある山中教授にしてさえも“支援金”が十分集まらず四苦八苦しているのだから、知名度の無い研究者たちは“十分な研究費用”が賄えていないに違いない。だからこそ、かつて「STAP細胞」が注目を浴びた時、理化学研究所の笹井芳樹氏は「これで大規模な予算が使える」と意気揚々としていたのだ。けれども、その研究に“疑惑”が向けられた時、小保方氏だけでなく、やがて自分自身にも“疑惑”が向けられる時が来ることを予感し、自殺した。彼こそは“支援金を引き出す”ために、わざわざ小保方氏に割烹着を着せるなどの演出をした。その方が世間の注目が集まり、豊富な研究資金を使えることを“経営者の眼”で見通していたからだ。実質的には彼が主導した研究でありながら、未熟な彼女を前面に出したのは、その方が世間的な注目を浴びて、大規模な予算を獲得しやすく、ライバルであった山中伸弥氏を“出し抜く”ことが出来るからであった。一か八かの“賭け”に出たのが「小保方春子」という“隠し玉”なのであった。それほど、笹井芳樹氏からライバル視されていたのが山中伸弥氏なのである。そして、笹井氏は山中氏の“弱点”を見抜いていた。彼は優れた研究者ではあるが、金運は乏しい。おそらく、笹井氏は“経営感覚”という点で、自分の方が優っているという自信があったに違いない。けれども、実質的な成果という点で、現在“ips細胞”はさまざまな医療に貢献し始めている。けれども、笹井氏が見抜いていたように、確かに山中氏は“優れた研究者”であって、大企業から、特に医薬関係の企業から支援金を引き出すのは苦手なのかもしれない。それが今回の「ご支援のお願い」という形なのだ。

「アマチュア」&「セミプロ」の時代

2017-09-15

ネットのニュースでは「とらのあな」の“美人妻”が話題になっている…と報道されていたが、それよりも私は同人誌や漫画関連グッズを販売している「とらのあな」が、年商「230億円」の大企業に成長していることを知って驚嘆した。同人誌と言えば、アマチュアやセミプロの人達が作成している雑誌で「とらのあな」が扱っているのは、その9割以上が漫画関係だと思われる。しかも、通常の書店には並ばない雑誌群だ。先に行われていた“コミケ”でもそうだったが、今や完全に“商業化”している漫画同人誌は、アマチュアであっても人気ある作品とか雑誌とかだと、プロの作品として書店販売されるものよりもはるかに人気があり、売れ行きが良い。そうでなければ年商230億円に達するはずがない。通常、雑誌というのは、雑誌社があり、そこから依頼された作家が執筆し、それを雑誌社の方で編集・制作・印刷して、流通の日販などを通じて書店へと運ばれ販売される。ところが、同人誌の場合、作家(漫画家)は雑誌社を兼ねている。つまり、自分が書きたいと思ったものを、何の規制もなく描き上げ、自ら編集し、印刷所に依頼・製作する。つまり何でも一人、或いは数人の同人が行う。したがって、最初の製作費は自分持ちだが、売り上げの何割かを「とらのあな」側に与えれば、プロ漫画家の何倍もの比率で収益を手にする。そういう意味では、アマチュアとかセミプロとかいうものの実質的には独立した出版社・雑誌社と何ら変わらない。現在は、そういう人たち向けの印刷会社も存在していて、少部数からの印刷・製本を取り扱っている。今は昔と違い高性能のパソコンやソフトさえあれば、アマチュアもプロも変わらない作品が仕上がる。芸術関連は、押しなべてアマチュアとプロの境界線があいまいになっている。現在「とらのあな」の店舗は、全国に23店もあるらしい。マニアックな人達は東京まで出向かなくても、同人誌を実際に店舗で見て購入するかどうか決断できる。プロ作家として大型書店の片隅に埋もれるよりも、マニアックな店舗で“オタク”たちに知れ渡る方が、商売として早いといえる。但し一番儲かるのは、それを扱っている「とらのあな」で、急成長しすぎると、まさしく「おとしあな」が待っているような気がしてならない。

「ドル円」&「日本株」は“反転”の兆か!

2017-09-14

北朝鮮による“ミサイル騒動”がひとまず沈静化し、世界情勢が安定に向かいそうな兆しが出て来たことで「ドル円相場」と「日経平均の日本株」とに“反転”の可能性が出てきた。まず、ドル円相場の方だが、一時期“107円”の円高まで進んで一気に崩れ出すかに見えたが、そこで持ち直して現在は、これを書く時点で“110円60銭付近”にある。まだまだ安心は出来ないが、徐々に“円安”方向へと動き出した感がある。もっとも、ドル円相場のチャートを見ると“111円前後”でいったんストップが掛かるサインが出ていて、これが第一の関門となる。もし、ここを20日前後くらいまでに通過できれば、それから先“114円前後”まで一気に進んでいくに違いない。そうすれば当然、日経平均も“20000円越え”となる。前にも述べたことがあるが、最終的に“ドル高相場”に向かわなければ、いくら企業業績が良くても“ドル建て”でチャートを見る外国人投資家が買ってくれず、“日経平均”は上昇しないことになっている。極端なことを言えば、他に何の“材料”がなかったとしても、ドル円相場が“円安”方向へと進んでいくだけで、日経平均は上昇していくのだ。私の見立てでは、今月中に“20000円越え”してしまわないと、チャート的に見ると継続的な上昇が難しい。逆に、今月中に“20000円越え”してしまえば、年末に向けての継続的な上昇の確率が極めて高まる。大体、世界的な上昇相場の中で“日本株”だけが出遅れているのだ。これを年後半に挽回できるか、それとも“足踏み状態”から抜け出せずに終わるかは、今月の“ドル円相場”に掛かっているのだ。

「撃ってみんかい」と「被ってみんかい」は危険

2017-09-13

昨日、白昼、神戸の住宅街で暴力団同士の抗争事件があり、一人の男が頭を打ち抜かれて死亡した。男は新組織「任侠山口組」の代表・織田絆誠氏の“警護役”楠本勇浩氏(44歳)。銃撃したのは「神戸山口組」の暴力団員である。実は「任侠山口組」というのは、元々は「神戸山口組」傘下にあった組がいくつか離脱し、4月に決起した新組織なのだ。その代表の自宅周辺で事件は起こった。新組織のメンバーたちが乗っていた車に、元々の組織の組員たちが乗った車両がぶつかって来たのだ。当然、両方の車から組員たちが下りた。激しい言い争いとなり、取っ組み合いとなる。そこで一発、銃が発砲された。この時、銃弾は“警護役”の身体をかすめた。むっくりと立ち上がった警護役は「撃ってみんかい」と仁王立ちとなった。神戸山口組の暴力団が狙いを定めた。銃弾は見事に頭に命中、楠本氏はスローモーションのようにその場に倒れた。「撃ってみんかい」と挑発しなければ、或いは殴り合いで収まったかもしれない。暴力団への挑発は危険なのだ。同じように“不倫関係”で夢中になっている者同士の挑発も危険なのだ。「被ってみんかい」と言われると、思わず、被ってしまうかもしれない。どんなに汚れた下着であろうと、愛する人のためなら“被ったまま”写真に写ってしまうかもしれない。だから、不倫関係で夢中になっている者同士には、変な“挑発”をするのは危険なのだ。日頃、神聖な祈りを捧げている人の“ショーツ”であれば、汚れていても神聖に思えてしまうかもしれないのだ。だから、教訓として“暴力団”と“不倫に夢中”の人達には、挑発するのは「危険」だということを、われわれは学んでおかなければいけない。

9割が自分を「倖せ」だと感じる子供達

2017-09-12

10歳~15歳位の子供たちにアンケート調査した結果で「自分を“倖せ”だと感じますか?」という問いに、実に91.4%%の子供たちが「倖せだと感じる」と回答している。今年2017年の日本の調査だ。20年前、つまり1997年の同じ調査では77.6%だったから、ずいぶんと増えたことになる。さらに「親と同じような大人になりたい」という子供達も、20年前の53.7%から65.9%に増えた。「両親が自分の話を聞いてくれる」という割合も、20年前の74.7%から82.0%に増えた。つまり、いまの日本は“親子間の関係”が大変に良く、家庭的倖せを享受している子供たちが多いのだと気付かされる。ニュースなどを見ていると、どうしても家族間での悲惨な事件が目について、世の中全体の“動き”を見逃しがちになるが、少なくとも20年前よりも“家庭的幸福”を得ている子供たちが多いのが日本なのだ。ただ、そのアンケートで、私が気になったことがある。「先生に殴られたことがある」という児童が、20年前は18.9%だったのに対して、今は1.6%しかいないのだ。これは、子供たちが“わるさ”をしなくなったからなのだろうか。それとも、先生たちが“殴れなくなった”からなのだろうか。私は、いつも、こういう時、文字の“成り立ち”を思い出す。実は「教える」という文字は、古代エジプトのヒエログリフ(神聖文字)でも、古代中国の甲骨文字でも、共通して「鞭(ムチ)」の象形が加えられている。古代は貴族の血統を継ぐ子供達にしか“正規の授業”を受けられなかったが、そういう子供達であっても、教える時には鞭を使ったのだ。つまり、子供たちを“由緒正しき人物”としていくには、スパルタ式の教育が必要であった、という証明なのである。もちろん、現代においてそういう教育が正しいかには疑問もある。けれども、子供たちを教える“学校”や“教師”には、或る程度の“体罰”は許しておかないと、確かな教育は出来ないような気がする。少なくとも10%くらいは“殴られた”記憶を持つ子供たちがいる方が健全とは言えないだろうか。

ミサイルより怖い「ハリケーン」&「集中豪雨」

2017-09-11

「ミサイル」が怖くないとは言わない。けれども、もっと怖いのは確実に襲って来る“ハリケーン”やや“集中豪雨(台風?)”、それに“大地震”だ。まさに今、それらがアメリカ&日本&メキシコを襲っている。こういう「大自然の脅威」は、相手が“物言わぬ生命体”で話が通じないだけに、逃げる以外の手立てがない。だからフロリダ州では630万人に“避難命令”が出た。科学の最先端を行くアメリカだが、どうもこの種の“猛威”には弱いらしく、未だに“逃げる”以外の対抗手段を持たない。その点では日本も同様である。私は以前から、屋根の“雪下ろし”で落下し、死亡する人が後を絶たないのに、それを防止できるIT技術が開発されていないことを嘆いていた。そんな単純なことでさえも、IT技術は解決できないでいる。ハリケーンとか台風とか地震とか、自然災害に対する対策も、未だ科学技術は“防止技術”を開発できずにいる。4Kとか8KのTVなど、誰が望んでいるのだろう。確かに“クリアな画像”かもしれないが、“立体的”なのかもしれないが、それで幸せになる人はどれだけいるのだろう。そんなことよりも、屋根の雪下ろしで“滑り落ちない技術”、それより前に“屋根の雪が解ける技術”など実用的な方面に次々と新たな“製品”を投入してほしい。630万人に“避難命令”で逃げることを教えるよりも、ハリケーンそのものを消滅させるとか、コースを変えさせるとか、台風や集中豪雨でも同様だが、もう少し、“自然界の脅威”に立ち向かう技術を開発しようと努力してほしいのだ。そうでなければ、どんなに“宇宙まで行ける”時代になっても、“屋根から滑り落ちて死ぬ”人は無くならない。そんな身近なことも“解決できない科学”を推し進めていて「身近な宇宙開発です」とか言って、無駄に金を使い、飛び損ねてばかりで恥ずかしくないのだろうか。

家は焼かれ、女性は暴行され、子供は殺される

2017-09-10

ミャンマーの最高指導者は言わずと知れたアウン・サン・スー・チー氏である。ノーベル平和賞の受賞者だ。そのスー・チー氏が“黙認”しているのがミャンマー西部のラカイン州に100万人近くいるとされる少数民族ロヒンギャ族の難民問題である。少数民族である彼らは未だに「国民」として認められていないのだ。出生しても“無国籍”のままなのだ。現在、ラカイン州は治安部隊と武装勢力との戦闘が続いていて、それに少数民族が巻き込まれ、とても暮らせる状態ではない。8月25日に始まった戦闘状態では、家は焼かれ、女性は暴行され、子供は殺される状態が続いている。安全な場所など、どこにもない。だから、国境を超え、逃げ延びるしかないのだ。元々、タイとか、インドネシアとか、バングラデシュとか、近隣へと逃れて生き延びてきた。ただ今回は余りにも多くの難民が一挙に隣国バングラデシュ南東部へと押し寄せ、支援が間に合わない状態が続いている。一番の問題は宗教で、ミャンマーは元々仏教国だが、ロヒンギャ族はイスラム教徒である。圧倒的に多い仏教徒の方を優遇するのは仕方がないのかもしれない。但し、“国民として認めない”というのは「ノーベル平和賞」受賞者のすることではない。彼女は、この問題に対して、何らの手助けもしていない。何んと冷酷な「ノーベル平和賞」受賞者であろうか。シャフイカ・ベギュムさんは生後8日の娘を抱えた母親だが、4人の子供たちを連れて戦火を逃れてきた。食糧支援車に近づいたが難民が殺到し、食料は得られなかった。夫は本国に残っている。「いたるところで拷問が行われている、逃げるしかなかった、私が食べないと、この児の命を救うことが出来ない」と途方に暮れている。ミサイルが“怖い”と言いながらも、どこか日本は平和である。少なくとも、どんな宗教の人達でも「国民」として認められる。そう私たちは「日本国」に守られ生きている…。

「真実の想い」は、なぜ伝えられないのか

2017-09-09

昨日、非常に残念な報道が一つあった。それは中国から北海道旅行に来て「行方不明」となり、公開捜査となって本国でも注目を集め、結局、釧路の海岸で遺体として発見された“危秋潔さん(享年・26歳)”についての続報があった。その後、父親が遺体を引き取りに来たらしい。警察は“自殺による溺死”と判定したが、父親は「思い当たる節がない」として納得していない。ただ遺書と思われる手紙がゲストハウスに残され、その筆跡は間違いなく本人のものであると確認している。父親は今でも「真相を解明してほしい」と訴えている。それを読み、私は何か物悲しいものを感じた。私は既に、その回答をこのブログ内に書いた。しかも、それは、まだ遺体が正式には彼女と断定されていないうちに書いた。私は、この事件を珍しく二度扱い、一度目は「公開捜査」となった翌日に、まだ情報が少ない中で、直感的には渡辺淳一の小説『阿寒に果つ』が思い浮かぶが、占い的には「沢雷随」が出ているので、誰かについてどこかへ行った可能性が強いと記した。つまり“元気で発見される”と思ったのだ。ところが、釧路の海岸で似た容姿の女性の遺体が発見されたと、いう報道で鼻をへし折られたようなショックを憶えた。私が最初に思った「勘」の方が正しかったからだ。彼女は、間違いなく『阿寒に果つ』の主人公と同じように死にたかったのだ。実話に基づく“この小説”では、札幌に住んでいた天才少女画家が阿寒湖のほとりに自ら赴き、白い雪に埋もれてひっそりと死んでいく。日本通であった危秋潔さんは、渡辺淳一氏の小説の愛読者でもあった。彼女は、札幌のゲストハウスを起点にするため、わざわざそこに父親などへの遺書を遺し、スーツケースも残しておいた。“札幌から阿寒へ”が重要だったのだ。彼女は阿寒に着いたのが遅かったので仕方がなく一泊した。そして翌朝、湖を見た。だが、湖周辺にも店があり、ホテルがある。朝には散歩する人もいる。結局、1人で湖畔周遊の船に乗った。そこから身投げしようとしたが、すぐ発見される可能性が強く、中止した。彼女はいったん、自殺を思いとどまろうか、どうしようか、迷ったのだ。そして釧路に戻った。カフェに入って1時間ほど黙って前方を見ていた。私の易占で示された「沢雷随」は“少女に従う”、或いは“付き随って行く”という易卦だ。つまり、実話小説である“天才少女画家”に付き随って行く。この「沢雷随」は“帰魂の卦”といって「魂天上に帰る形」でもある。彼女は遺書の中で「私は星になります」と記している。結局、彼女は阿寒に近い“釧路の海岸”での身投げを決行したのだ。どうか、誰かが、この事実を、父親へと教えてほしい。

「謝罪して認めず」という「“潔さ”の逆」

2017-09-08

この頃、多いんだ。週刊誌に狙われる人。そりゃねぇ。仕方がないよ。エリートやアイドルで突っ走ってきた人がさぁ「ころんじゃう姿」って、やっぱり魅力的だもの。そう、ボクみたいにさぁ、いつも、転んでる人はダメだよ。当たり前すぎて面白くないだろ。やっぱりね、みんな、ちょっぴり、やっかみがあるんだよ。生まれながらのエリートとかアイドルに対してさ。なんか、真正面からじゃ、勝てないじゃない。だから、たまには“ころんでくれないかなぁ”とか思っちゃうわけ。だから、そういう人たちが狙われるの。そうするとみんな拍手喝さい。大体、おんなの人で、美人で、元検事で、政界のエリートってだけで“恨み”を買ってしまいそうじゃない。う~ん、中には交通違反でチェックしてたのが女性警官だったってだけで、逆恨みしているオジサンもいるもんね。関係ないんだけどね。まあ、そういうことで最近、不倫疑惑の“謝罪会見”多いよね。みんなエリートとかアイドルなんだ。だからね。謝罪もね。「お騒がせして…」なんだよ。「不倫して…」とは言わないの。それは見なかったことにして…って、おかしいじゃないって、ワタシ誰? まあ、そういうことで日本は“平和”なわけ。ん? 平和じゃない? ミサイル? 北朝鮮? あーアレね。アレはね。大丈夫。なんせ自分の国がね、実験だけで地震大揺れ、家屋崩壊、お隣の中国やロシアからまで「おまえんとこ、ちょっとやり過ぎだぞ!」って文句言われてさ。あんまり、かばってもらえないんだ。だからね。ミサイル遊びは、どうしようかなぁって、今考えてるの。そりゃ、ボクだって、トランプくんが“仲間はずれ”にしないなら、止めても良いんだよ。でも、アイツ、すぐ“仲間はずれ”にしようとするんだ。だから嫌いなんだよ。だけど、アントニオ猪木くんが来てくれるんだって、そりゃもう大歓迎さ。でもね、あの人、お金に弱いんだ。だから好き。そういう人、もっといれば良いのに…って、おまえは誰?

「夢」と「現実」の間

2017-09-07

私は人一倍「夢」を見る。「夢」といっても“願望”的な夢ではなくて、眠りながら見る方の“夢”である。当然、寝ているときに見るのだが、その寝ている時が、ベッドの中とは限らない。ソファや椅子に座っている時でも、よく寝てしまうからだ。そんなに長時間寝るわけではない。通常は5分とか10分とか、短い時には2~3分という時さえもある。短時間なので、朝方でも、昼間でも、夕方でも、時間を問わない。本当は良くないのかもしれないが、いつからか習慣となり、当たり前となった。その短時間の“眠り”の中で、夢を見ていることが多い。しかもけっこう長い夢だ。実際に寝ている時間よりも“長い時間経過のある夢”を見る。一番多いのはTVを見ながら寝てしまうことである。当然、寝る直前までTV画面を見ている。その内容を憶えている。そして、そのまま“夢”に入る。そして、しばらくして“夢”から目覚める。TVの代わりに本を読みながらとか、文章を書きながらというケースも多い。そうなって来ると、だんだん「夢」と「現実」との境界線があいまいになって来る。つまり、目覚めた後でも、夢の内容が重なってきて、おかしな感覚を憶えることがあるのだ。現実ではないことを、あたかも実際に体験していたことのような錯覚を持つ。例えば“夢”の中で、仕事が溜まっていって、とても納期には間に合わないと話している。大昔の会社勤めの時と似たような場面だ。それを話している間に昼のベルが鳴り、何故か体育館に集まる。そこには多数の“お弁当”が並んでいる。ただ皆はもう食事を始めていて、自分の席が見当たらない。やっと見つけたと思ったら、空になった弁当箱だけが置かれている。自分の“お弁当”がない。困っていると、向こうに余っているお弁当を見つける。そこへいくと、今日の給食当番の女性が居て、食券を持っていますか、と訊かれる。財布を捜すと二枚の食券が出て来て、二人分のお弁当を渡される。その横では“お味噌汁”を渡してくれる女性も居て、その人にも食券を渡さないといけないのだが、もう持っていない。そこで仕方がなく「もう二枚渡してしまったので…」というと「間違えたらお弁当を没収されるの知らなかったの?」と言われ、しぶしぶ持っていたお弁当を渡す。どうしよう…夢から目覚めて、急がなきゃ、仕事が納期に間に合わない、と思うのだが、あれ? そう言えば私は会社勤めではなかった…と気付く。

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