10月, 2017年

2017年10月運勢アドバイス

2017-10-07

「賞」を得たから優れた作家なのではない

2017-10-07

昔、ノーベル文学賞候補となった三島由紀夫氏は、誰かとの対談の中で「カミュはノーベル文学賞を得たから優れた作家なのではない。優れた作家だったからノーベル賞を得たのだ」というようなことを言った。カズオ・イシグロ氏も、ノーベル賞にはさほど興味を示していなかった。それは「ノーベル賞を得た後、優れた作品を書いた作家を知らない」からのようであった。この二人の言葉は重い。履歴としての「ノーベル文学賞」は輝かしい。けれども、それは過去の作品、過去の業績に対しての評価である。それに「ノーベル賞」を得ているから“優れた文学だ”という捉え方自体が間違っている。三島氏の言うように、仮に文学賞など得ていなかったとしても、元々カミュは“偉大な作家”だったのだ。正に“天才・三島”らしい捉え方である。私が何よりも三島氏を“天才”と感じたのは、彼が“自決する直前の朝”まで一睡もせず書き上げた最期の原稿に、誤字・脱字が一字もなかったと編集者が話していたことによる。普通の日ではない。自決する直前の深夜である。しかも寝ないで書き上げた原稿である。正直、私は、特に三島由紀夫のファンだというわけではない。何作か読んだが、好みという点で、それほど好みの作家ではない。けれども、自決する前夜に、誤字・脱字を一文字もなく書き上げる心情はいかばかりであったか。文字通り「天才」としか言いようがない。そういう意味で、私も初耳であった“カズオ・イシグロ氏という作家・作品”に、多くの人が興味を持ったのは当然で、書店で注文が殺到しているらしい。だが、くれぐれも最初に掲げた言葉を忘れないでほしいのだ。近年は日本の“芥川賞”や“直木賞”等の文学賞も、それらを得ることで急に売り上げが伸びる現象が続いている。「文学賞」という着物を着ることで、作品が美しく見えるとでも言いたげである。だから、大きな出版社から出版された書籍が“賞”を受賞しがちである。審査員たちに何らかの力が働くのか。日本の場合、海外の作家・作品は、よほど世界的に有名とかベストセラーにならなければ売り上げを伸ばせない。一つには、書店の“目につく場所や書棚”に、それらが置かれていないことによる。置かれていなければ、眼につかなければ、いくら読書好きでも、書店に頻繁に足を運ぶ人でも、海外作品は“遠いもの”になってしまう。せめて大型書店と呼ばれるところくらいは、“大きな出版社”の“同じ作家の本”ばかり置くのではなく、実用書なども含めて、さまざまな選択肢を与えてほしい。

「通帳には人生が詰まっている」のか?

2017-10-06

テレビ東京系で新しく始まる「あの人の通帳が見てみたい!」という番組が開始前から話題を集めている。少ない予算を“斬新な企画”で乗り切ってきたテレビ東京だが、今回の番組は気合が入っているようで、スタッフは半年以上前から全国で道行く人たち4000人に体当たり取材を敢行し、新企画を“イケル”と踏んだようだ。確かに他人の(預金)通帳に興味はある。テレビ東京には近年「家、ついて行ってイイですか」という人気番組があり、それがヒントになっての企画であろうことは間違いがない。確かに、一般人の家の中にTVカメラが入るのは興味深いものだ。私の場合は“占いの取材”で何度も家の中にTVカメラが入っている。正直、占いとは関係の無い人たちにまで家の中を見られるというのは気持ちの良いものではないが、来客商売なので仕方がない。一番最初にTVカメラが入ったのは、まだ市電ロープウエイ駅の近くに居た時で、狭い室内に急きょ7人ものスタッフが押し掛け大変だった。その後、江別市に移ってからは、万一TV放映されても良い感じのインテリア配置を心掛けた。それから豊平の住居でも、現在の住居に移っても、考えてみると、それぞれの住居にTVカメラは入り込んでいる。もちろん、室内が映されるといっても“占いの部屋”のみで、それが唯一の救いとなっている。そういう経験上思うに「家、ついて行ってイイですか」は、ほとんどの場合、全部の部屋を映し出す。あれは辛い。しかも、いきなりである。余程、普段からこまめに掃除をしているとか、整理整頓している人でないと、OKは出せない。と思うのだが、意外なほど、アッサリとOKを出す人もいる。しかも、部屋の中が散らかっている場合も多い。そういう点から考えると、今回の“通帳を見せる”というのは、自宅ではない場所で見せる、ということなのだろうか。預金通帳だけでなく、すべてを見せるという意図なのだろうか。他人の通帳には多少の興味はあるが、自分のを見せろと言われたなら、やっぱりそれは出来ない。或る意味で、裸を見られるより恥ずかしいかも…。いや、やっぱり裸の方が恥ずかしいか…。どちらにしてもTVで公開できるほど“立派”じゃないから…。

たまたま録画していたら…

2017-10-05

実は大して見たい番組ではなかった。たまたま番組表を見ていたら「おはよう、たけしですみません」という番組が目に入った。“たけし&太田&水道橋”という組み合わせが記されていたので、何を話すか一度くらい見ておくか、という気持ちで録画した。その後、数時間経ってから“ネットのトピックス”で「たけし生番組を無断欠席」という見出しを見て、妙な偶然にナルホドと思った。私が番組表を見て何となく録画したくなったのは、そのせいだったのか。そこで、お昼になってから、その録画を見てみた。正直、つまらない番組だった。もちろん、メインのたけしが来ていないので、水道橋博士氏や太田光氏が慌てるのも無理はない。何となく二人ともギクシャクし、どうしようかという雰囲気がありありで、その意味では一応面白かった。ただ、二人ともプロの芸人で、しかもベテランで、社会事象には詳しい人物たちである。「たけし」という看板の番組だから、遠慮したのだろうか。それとも慌てふためいて自分たちの仕事を忘れてしまったのだろうか。ああいうとき、当意即妙に場を持たせるとか、何事もなかったかのように話を進めていくことが出来なければ“プロ”ではない。もちろん、無断欠席の「たけし」は“とんでもない奴”だが、昔から前科がある。今に始まったことではない。そういう人物と組んで番組に出るのだから、むしろ来なければ自分たちで「たけしを徹底的におちょくってやろうじゃないか」くらいの発想がなぜ持てないのだう。他の時ならNGであっても、そういう時なら本人も含めて誰もそれを非難できないはずだ。それとも、後から出てきたときのことを考えて、話せないのだろうか。だとすれば、日頃の太田光の“破天荒な発言”は計算されてのもの、或いは“弱いもの”や“世間をへつらってのもの”だと受け止められても反論できないはずだ。本当に“怖い”ところには何も言えないのか。水道橋博士の場合には、元々企画や脚本なども手掛けているのに、こういう時こそ機転を利かせて、絶対に“こういう時”でなければ話せない「たけし軍団の秘密」とか「たけしの秘密」などを何故話さないのか。二人とも「たけし」に対して気を使い過ぎなのだ。大体、小学生でもあるまいし、自分の冠番組に出てこない人物を甘やかしすぎなのだ。そういうときこそ、徹底的に“どうしようもない部分”を暴き出し「明日はTVの前で二人で押さえつけて視聴者に土下座させますので…」くらいのことを言えなくて、それでも「一流の芸人」と言えるだろうか。

「ザ・アメリカ」という国

2017-10-04

アメリカ史上最大の銃乱射事件が起こって59名が犠牲となった。高層ホテルの32階から、すぐ手前の“野外コンサート場”目掛けて乱射し続けたのだから、たまったものではない。ミサイルも怖いが、こういう“訳の分からない凶行”の方がもっと怖い。ただ、これほどの“凶悪な事件”が起こりながら、アメリカでは「銃規制」を叫ぶ声は表立って聞こえてこない。日本人的な感覚で言えば、まずは“銃規制の強化”を誰もが叫び出すはずのことなのに…。そういうアメリカが、北朝鮮に「ミサイルを捨てろ!」といくら言っても、聴く耳を持たれないのは或る意味で仕方がないのだ。それよりも驚くのは、ラスベガスのカジノが事件後すぐに再開されて客が戻ったことだ。確かに、犯人は死んだ。単独犯で、どうやらISとは関係がないらしい。仮にそうであっても、もし、日本なら、その周辺は事件の検証などで立ち入り制限となり、カジノをすぐ再開など、絶対にありえない。第一、その周辺にすぐ客が戻るとも思えない。もちろん、ラスベガスであるから、客は世界各国から来ている。アメリカ人だけとは限らないが、少なくとも日本人の感覚としては、その日にはカジノに戻れない。というか、事件後ホテルに戻ったなら一歩も外には出ないだろう。そういう点で、日本人は慎重すぎるのかもしれないが、或る種の“割り切り”は、特にアメリカ人は強い。よく「アメリカンドリーム」というが、確かにアメリカは或る種“ギャンブル的な生き方”が似合う国であることは確かだ。上手くいけば“巨大な富と名声”を掴み取ることが出来る。そういえば綾部裕二はどうした。まあ、それは良いが、そういう国であるので“向いている人”と“向いていない人”がいることは間違いない。近年、中国人や韓国人のエリートたちがこぞってアメリカに居住し始めている。その一方で、メキシコやキューバなどの貧困層も次々と入国してくる。さまざまな人種のさまざまなうめきが聞こえて来そうな国、それが「ザ・アメリカ」なのだ。

「支持率」という“ニセモノ”

2017-10-03

選挙が近づくと「支持率」というものが新聞や雑誌で公表される。世界的に行われていることだから、それなりの価値はあるのだろう、とだれもが思う。けれども、本当にそうだろうか。ここに、驚くべきデータがある。ごく最近のデータで、安倍政権を支持しますか、という“普通の調査結果”だ。ところが、これが行っている各メディアによって全く異なるのだ。例えば、東京新聞での安倍政権支持率は5%、ところが産経新聞での支持率は86%、毎日新聞では9%、朝日新聞では14%、日本経済新聞では41%、読売新聞では43%…あまりにも違いすぎる。どれを信じてよいのかわからない。というか、どれも信じられなくなってくる。現在の日本では、各新聞社によって、その新聞社独自の“政治思想”が反映された記事が掲載されることが多く、その結果“中立性”よりも、主義主張に基づいた誌面作りを優先しているような気もする。支持率の回答は無作為なのかどうなのか、本当のところは解からない。もし、公正無私な方法で行われて、これだけ極端な違いが表れるものだとすれば、データそのものに“価値”を見出すことが出来なくなってくる。私は、研究のために個人でホロスコープのデータを集めることが多い。そうすると、奇妙なことに50名くらいのデータでも、500名くらいのデータでも、そんなに極端な隔たりが表れない。つまり、少ない人数のデータでも、大体似たようなデータが表出するものなのだ。例えば、作家として“何らかの賞”を受賞している人たちのデータを取る。何らかの賞を受賞するということは、それなりの“文学的才能”を持っている人たちだということになる。このような形で、例えば50名のホロスコープの“共通性”を探り出す。ところが、50名を集めてデータを取って、それで安心できるかというと、なかなか安心できない。なんとなく、50名では物足らないような気がするのだ。そこで100名に増やし、200名に増やし…という具合にデータ数を増やすことで“文学的才能”を把握しようとする。ところが、奇妙なことにデータを増やしても、そこから表出される特徴は、最初の50名の時とそんなに違わない。しかも、そんなに“明確”には出ない。つまり、ただ一つ“これ”だけが“文学的才能の証”だとは出ないのだ。いくつかの特徴は表出される。“これかな?”と思えるものがいくつか出て来る。そういうことの繰り返しの中で、各種の才能をホロスコープから見つけ出す。過去の教科書など、まったくあてにならない。そういうものがデータであるはずなのに、それぞれの新聞社で行って、こんなにも差が出て来るのは、あまりにも“怪し”すぎる。

社会学者・古市氏は“理解力”が乏しすぎる

2017-10-02

最近、TVやネットで社会学者・古市憲寿氏の言動が話題になることが多い。或る意味で“若い世代”を代表した物言いのようにも感じるし、独自の理論や生活観の持ち主として興味深く感じることもある。但し、この人の発言で私がいつも気になるのは、他者への“理解力”というものがあまりにも乏しい、という点だ。自分は、このように感じ、このように生きていく、というのは大いに結構なことである。独自の視点を持ち、独自の意見を持ち、独自の生活観を持っている、それ自体は何ら批難しようと思わない。ただ彼は、いつの間にか或る種“若者世代の代弁者”ともなっている。その事実は客観視していなければならない。いくら、これは自分の考えで、人に押し付けるつもりはない、と言ったとしても「社会学者」という看板を背負っているのだ。その影響力というものはTV・雑誌に頻繁に出ている以上、逃れることは出来ない。そうであれば、多少は他者への“配慮”や“理解力”は必要なのだ。それが“公的な電波を使う”という発言なのだ。今回は「ワイドナショー」で、コンビニで現金払いをする人たちに対して「今どき現金を使うのって、頭悪いんじゃないですか」と言い放ったらしい。この人は、何故か「頭が悪い」という言い方を何に対しても使いたがる。まるで世の中すべて合理的に生きていけば問題ないのに、不合理な生き方をするから問題が生じる、とでも言いたげな発言が多い。彼は、世の中がスッキリしないのは、いつまでも前時代的なものを引き摺りながら生きているからだ、と言いたいのに違いない。ところがである。彼の思惑とは反対に、世の中というのは、どんなに時代が進んでも「完全合理主義」の世界は出現しないのだ。そういう風に出来ている。むしろ、生活の多くが合理的になればなるほど、そういうものとは真逆の“人情”や“情緒”や“雰囲気”や“癒し”や“恩義”や“礼節”を求める人が出て来る。そういうものに価値を置く人が多くなる。彼は、まだ、それに気付いていない。或いは気付いても、無視したいのかもしれない。けれども、やがて、彼にも、嫌でも、そういうものを無視できない時が来る。その時になって、自分が“不必要”に感じていたもの、“無意味”と蔑んでいたもの、“時代遅れ”と切り捨てていたものが、こんなに“価値のあるもの”だったと気付くに違いない。

「ピエロ」が差し出す“花束”と“銃口”

2017-10-01

息子の誕生日にピエロの格好をした人物が“花束”を届けてくれたなら、当然、玄関を開け、それを受取ろうとするだろう。室内では息子の友人たちも来ていて、楽しくパーティーが開かれていたのだから…。疑う気持ちなど微塵もなかったに違いない。ピエロは花束と同時に大きな風船まで差し出した。笑顔でそれを受け取りながら、誰からのプレゼントなのか尋ねようとしたその矢先、両手がふさがった彼女の目の前に、黙ったまま銃口が差し向けられた。最初、彼女は“冗談?”なのかと思った。ピエロ姿で花束を届けてくれた人物から銃口を向けられて、何が何だか解からなくなったのだ。ピエロは最後まで言葉を発しなかった。黙ったまま彼女の顔面目掛けて銃の引き金を引いた。鈍い音がし、顔面から血を流し、彼女は倒れ込んだ。パーティーの部屋には、銃弾が聞こえたはずだが、騒いでいたせいか誰も出てこなかった。ピエロは黙ったまま玄関から車に引き返して、静かに走り去っていった。これが1990年にフロリダ州で起きた事件のあらましである。早い段階で一人の容疑者が浮上したが、証拠がなかった。こうして事件から27年が経った。ところが、2014年になって、この地区の保安官事務所は“未解決事件”の再捜査に乗り出した。そしてついに事件当時にはまだ採用されていなかったDNA検査で容疑者の証拠をつかんだ。容疑者は1300キロも離れたバージニア州に居た。その容疑者の女を逮捕したとき、彼女は車の中で一人の男性と一緒だった。その男性とは、容疑者が殺した女性の夫だった人物である。事件から12年後に、二人は“結婚”していたのだ。実は、この事件が起きる12年前にもアメリカでは「ピエロ殺人」の人物が逮捕され全米を震撼させた。その人物ジョン・ウェイン・ゲイシ―は、街の有力者で慈善事業にも積極的な人物だった。その一方で、33人の少年を暴行して殺害、自分の所有している土地に次々と埋めていたのだ。何かの調査で、サイコ殺人を起こす可能性の低い職業として「慈善事業家」が掲げられていたが、彼の場合には全米を代表するような「ピエロ慈善家」だった。

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