1月, 2018年

「ユーチューバー」が消えていく

2018-01-19

グーグルは16日、傘下に抱える動画投稿サイト「ユーチューブ」に対し“新規約”を設けると発表した。これまでは動画の“再生回数”を基準として評価していたのだが、今後は“チャンネル登録者数”と“年間視聴時間”に切り替えることにしたのだ。つまり、これまで1万回以上の再生回数さえあれば可能としていた企業広告を、登録者数が1000人以上、年間視聴時間が4000時間に達しなければ与えない方針を打ち出した。同時に、差別表現など倫理的に問題が多い動画は掲載不可とする。これまで、しばしば問題となってきた“犯罪に近い動画”などは排除する方針を打ち出したのだ。社会的にも問題となった「自殺の樹海動画」などが、精査するきっかけとなったようだ。日本でも小学生のなりたい職業の一つとして「ユーチューバー」が急浮上するなど、考えなければならない時期に来ていただけに、今回の規制はタイミング的にも絶妙と言える。実は、これによって多くの「ユーチューバー」が消えていく。大体、くだらない動画が多すぎるのだから“怪しいユーチューバー”は消えた方が良い。これまでは“十数秒ほどの動画”でも、1万回の再生回数あれば権利獲得となった企業広告も、年間4000時間のクリアとなるとほぼ不可能で、企業広告を目指すのであれば或る程度の時間を要するものを作製しなければならない。考えてみれば当然の話で、本来は“投稿動画”で金銭を得ようという発想自体がやましいのだ。今は誰もが“動画”を撮影できる時代となった。その結果として、多くの人の“興味を呼ぶ”作品が繰り返し視聴される。それは時に“プロの作品”を凌駕する。けれども、人の興味は移ろいやすいし、人気というのも変化しやすい。何の世界であれ“素人”でも簡単に“時代の寵児”となることは可能だが、簡単に“寵児”となった人は、簡単に“忘れられる存在”となってしまう可能性もあることに気付いていなければならない。

「孤独担当相」は、日本にこそ必要

2018-01-18

英国のテリーザ・メイ首相が18日「孤独担当相」という新たな“任務”を新設、政務次官だったトレイシー・クラウチ氏にそれを要請した。メイ首相は「高齢者や介護者、愛する人を喪った人、話し相手のいない人々が直面する孤独に対して行動を起こしていきたい」との決意を表明している。おそらく女性首相だから“発案出来たポジション”のような気がする。もちろん男性でも、その必要性は感じるのだが、形に出来るかというと多少の躊躇が出る。そういう“大臣ポスト”である。その意味で、大いに意義のある新設であるし、女性首相だからこその“政治決断”として褒め称えられるべきことであると私は思う。英国の人口は6500万だが、そのうちの900万人以上が“孤独な生活”に直面しているらしい。そういう観点から考えると、新設されて当然のポストなのだ。そして、これは英国だけの問題ではない。わが日本でも“孤独な生活者”が山のように居る。しかも、日本の場合、若い年齢層での“単身者”、“引きこもり的な生活者”が多い。英国人も“心を開く”までに時間のかかる民族だが、日本人は完全に二種に分かれる。集団の中でも、すぐに“心を開く”タイプと、なかなか“心を開けない”タイプである。後者は、家庭でも職場でも“孤独な状態”に陥りやすい。メイ首相の新設した「孤独担当相」は、その対象が“単身生活者”に限られるようだが、日本の場合、必ずしも“単身=孤独”と言えるほど単純ではない。時には、家族と暮らしながら“話し相手”がいないとか、“引きこもり”の結果として話し相手がいない場合もある。そういう人達を含めると、いったいどれだけの人数がいるのか、なかなか把握するのは難しい。けれども、その必要性は急務であり、他のポストと兼務が出来るほど楽なポストではない。誰もが自分を“理解してくれる人”を求めている。“孤独を癒してくれる人”を求めている。誰でも本当は“寂しがり屋”だからだ。

窓のマークが「謎」を解く鍵?

2018-01-17

アメリカのカリフォルニア州で17歳の少女が警察に助けを求めて発覚した事件。自宅に13人の子供たちを“監禁・虐待した容疑”で、1月14日、その家の父親と母親とが逮捕された。自宅に2歳~29歳までの自分の子供たちを集め、暗い部屋のベッド付近に鎖などで固定して繋ぎ、食事を与えずに放置する。何もかもが理解不能で、その理由は判然としていない。ただニュース映像にはいくつかのヒントが眠っている。まず第一に、その家はかなり立派な建物で、大家族が暮らすに相応しい広さを持っているように見える。車も何台か所有しているようで、それなりの経済力と職業とを持っていたはずである。しかも、何年か前に撮影された写真には、家族全員が写っている。大家族の場合、家族全員が写る写真は珍しい。しかも、子供たちの服装が揃っている。女の子たちは民族衣装的な可愛らしい洋服姿、男の子たちは全員ブレザー姿、奇妙なほど“統一された姿”で映っている。服装などまちまちになりがちなアメリカ人にしては大変に珍しい。つまり、この夫婦は“統一させる”ことが好きな夫婦だと推測できる。もしかしたら“結婚式”か“結婚記念日”かの写真のようで、少なくともこの写真では子供たち全員が“健康体”に見え、痩せてもいない。大胆な推測をすれば、この時点までは全員が“普通”だったに違いない。おそらく真面目で、子供好きな夫婦であり、表面上は“仲良し家族”だったに違いない。但し、この時点で夫婦が既に“何らかの宗教”か、或いは“呪術思想”かを持っていたに違いない。服装を“統一させている”のは、ただ単に記念写真用だったからだけではないと私は見る。子供たちの数が多いのは、双方とも“子連れでの再婚”だったからではないだろうか。何らかの宗教思想、呪術思想を持っていただろうことは、窓に張られた“奇妙なマーク”により明らかだ。見たことのないマークである。おそらく特殊な宗教や呪術の“シンボルマーク”なのに違いない。夫婦はそれにのめりこんでいったのだ。そして、何らかの“教え”に従って生活をするように変わった。おそらく“妖しい儀式”を取り込んだ生活で、第三者的には“悪魔的な生活”である。或る種、憑りつかれたように心霊的な指示に従っていたのだろう。間一髪のところで、少女は警察に駆けこんだのだ。

地味に売れ続ける『江戸JAPAN極秘手相術』

2018-01-16

世の中はまだまだ捨てたものではない。私が4年くらい前に出した『江戸JAPAN極秘手相術』(波木星龍著・八幡書店刊)が再び“増刷”となった。地味ながらも、確実に“売れ続けている”のだ。それにしても、一般書店ではほとんど“お目に掛ったことがない”この本が、何度も“増刷”が掛かるとは思わなかった。最初の頃、いろいろと書店を探したが、どうしても置いてある書店を見つけることが出来なかった。いや、今だって、よほどの大型書店とか、占い書籍の多い書店でしか取り扱ってはいない。それでも、売れてくれているのだから立派なものである。本というのは、どの書店に行っても“置いてある本”と、探し回らなければ“置いていない本”とがある。多くの人は勘違いしているが、書籍というのは、出版すれば必ず“書店に置いてある”ものではない。大手の出版社から出された本、或いは著名な人物が書いた本、そういった本は必ず書店に並ぶが、小さな出版社から出された本、あまり一般受けしそうもない本は通常の書店には並ばない。出版はされるが、書店の店頭に並ぶことなく返品されてしまうのだ。そういう本が無数にあるのだ。大手出版社から出された本というのは、一言で言うなら書店側にとって“大事な取引先”となるので丁重に扱われる。優先的に“見やすい位置”や“手に取りやすい場所”に並べられる。時には何冊も“平積み”される。それに対して、年間、1~3冊しか出さないような“小さな出版社”の本は、売れてもたかが知れている。つまり、儲けにならない。だから冷遇されるのだ。書棚に置いて貰えれば“儲けもの”なのである。通常は並ばない。だから、売れるはずがないのだ。その“売れるはずがない本”の一冊である『江戸JAPAN極秘手相術』が3刷まで行ったということは、いかに“難しい状況”の中で購入してくれた人が多かったか…を表わすものなのだ。我が子なら、頭を撫でてあげるところだ。しかも、この本はどちらかと言えばマニアックな本である。実用書でも、本当の入門書ではない。これまでに手相の本を読んだことがあるとか、雑誌とかTVとかで基本は知っているとか、そういう人向けに書かれた本である。もちろん初心者でも解かるが、全編初心者向けではない。むしろ、手相を観た経験のある方が読まれれば、まさしく貴重な本となる。だから、プロ手相家が「自分なら1万円でも買う本」として紹介していた。それが1800円+消費税なんて、なんと私はボランティア精神で秘伝を教えていることだろう。

台湾やマカオまで「一つの中国」と言われても…

2018-01-15

「歴史に学べ」という言葉があるが、どうも、中国の“習近平体制”には通じていないようだ。近年、中国では“愛国心”教育が盛んで「一つの中国」を国民に強制している。そこでは、台湾や香港やマカオやチベットは、いずれも「中国」であって、よその国ではない。個々の国的な観方、捉え方を許さない風潮が目立ってきた。それは“外資系企業”にまで及んできている。先日、マリオットホテルのグループがアンケートで個々の国的な扱い方をしている…ということで批判を浴び、5度の渡って謝罪するという事態にまで発展した。私は、過去に中国本土にも、香港にも、マカオにも、台湾にも行ったが、それぞれの国をそれぞれの国として観光した。けっして、全てを「中国」として観光した記憶はない。同じような感覚で、それぞれを“別な国”として扱って来たデルタ航空、ZARA、シャネル、ブルガリなどの外資系企業も批判の対象となっており、謝罪させられる事態へと発展している。何かがヘンだ。特に「台湾」など、その地域の人達自体が「中国」の一部だとは思っていない。それなのに、強引に“中国”へと引き戻そうとしている。かつて歴史の中でも、そういうことが何度も繰り返されてきた。例えば古代ローマ帝国、オスマントルコ帝国、ジンギスカンのモンゴル帝国、スペインの海洋帝国、近代では大英帝国や日本の大日本帝国もそうだった。これらはいずれも力による支配を試み、領土を拡大していったが、結局、手を伸ばし過ぎた代償を負うことになって滅びた。現在の中国は、正に“その歴史”を繰り返そうとするかのようですらある。そのためには“あらゆる統制”もいとわない。中国北部にあったキリスト教会が取り壊された。共産党当局への“登録”を拒んだからだ。党の監視下から逃れようとするものは撤去する。どんな組織的活動が活発化するか解からないからだ。しかし、あまりの強引さは、やがて反発を招き、崩壊していくのは歴史が証明している。一時期、それぞれの国が尊重し合って「世界は一つ」などと言っていたのが“嘘”のようにさえ思える。

「180㎝で巨漢の女装者」と言えば…

2018-01-14

人にはそれぞれ「イメージ」というものがある。例えば「180㎝で巨漢の女装者」と言われたなら、あなたは誰をイメージするだろうか。多くの人がマツコ・デラックス氏を想起するに違いない。彼は180㎝まで背が高くないかもしれないが、それに近い身長はありそうな気がする。それに何よりも、女装者には珍しく巨漢である。同じように180㎝で巨漢の女装者がいた。彼の名は寺本康博(50歳)。元々は防衛省のエリートであった。けれども彼は8年前、都内の銭湯で女装のまま女湯の脱衣所で座っているところで発覚し、逃走して逮捕された。あまりにも座ったままだったので、不審に思われたのだ。その後、父親に連れられ、この銭湯にやって来て、大変に迷惑をかけたと詫びた。父親は北海道に連れ戻し、一から出直させると話していた。それから8年、彼は全く同じ方法で、今度は札幌の銭湯で女装姿で捕まった。しかも、今度は女湯の中で約50分間も湯の中に居て、出てきた脱衣所の中でブラジャーのつけ方がおかしかったので発覚してしまった。確かに、ブラジャーは着け方が難しいのかもしれない。人間、慣れていないことは手間取るものだ。それにしても180㎝で巨漢の彼が入浴中に誰にも気付かれなかったことは、或る意味“やり遂げた感”があり、それで気が緩んでしまったのかもしれない。彼は「男湯は汚い、女湯の方が安らぐ」と述べたそうだが、一見、見過ごしてしまいがちだが、この言葉の中に“彼の真実”が潜んでいるよう私には思われる。彼は元々、防衛省のエリートだったが、そこで彼は“出世競争の醜さ”を見てしまったに違いない。だから「男湯は汚い」なのだ。元々、彼の中に“女性への幻想”があるに違いなく、そこに自分も“同化していきたい”という願望がある。だから長い時間、黙って湯船の中で“同化”させることが出来たに違いない。けれども、彼は180㎝の巨漢、マツコ・デラックス氏のように“愛されるキャラクター”ではなかった。もし、同じことをマツコ・デラックス氏が行ったとしたらどうだろう。女性達はきゃあきゃあ言って周りに集まってくるかもしれない。おそらく誰も彼を咎めないだろう。犯人の寺本は現在パート従業員。エリートだった面影はない。警察では「覗き目的」と処理されたが、実際には、覗かれることを必死に恐れていただけだった。

20年後、独り老人が多い「寂しい国」となる

2018-01-13

今でもすでにその兆候はあるが、内閣府の調査によると20年後の日本は、単身世帯が4割近くまで膨れ上がり、“生涯独身”の人達が急増する「寂しい国」になってしまいそうだ。20年後だから、遠い話ではない。う~ん、何がそうさせるのか。そういえば最近、歌謡曲で“恋の歌”が大ヒットしない。私が20代の頃には“これでもか”“これでもか”と言わんばかりに“恋の歌”が聴こえてきたものだ。TVドラマにしても、普通の恋愛や結婚を扱ったドラマが極端に少なくなった。普通の恋愛や結婚では見てもらえないからなのだろうか。それとも“普通の恋愛・結婚”を描くことの出来る実力ある作家・脚本家が居なくなったからなのか。総体的に現代は、若い人たちが恋愛や結婚に憶病になってしまったような気がする。占いの依頼でも、昔と今とでは何かが変わった。昔は「この人とは結婚できますか」という質問が多かったが、今は「私は結婚できますか」という質問の方が多い。つまり恋愛や結婚につながる“出逢い”そのものが減ってきているのだ。SNSなどによる“繋がり”は増えているはずなのに、それが“恋愛”にまで進んでいかない。ちょっとしたことで“セクハラ”とか、“ストーカー”とか、“モラハラ”とか、“差別”とか言われる今は、さまざまな“繋がり”で周りにすぐ知られてしまうことを恐れ、うかつにモノが言えなかったり、手出しが出来なかったりする。面倒なことに巻き込まれたくない人は、よほどの確信がない限り、恋愛に対して積極的になれない。本来、恋愛や結婚は、心身共に「ハダカ」になるところからスタートする。ところが現代は「ハダカ」になってしまうと、その恋愛がギクシャクしてきたときに“後戻り”出来ないような状況に陥りやすい。われわれは北朝鮮のことを“監視社会”だなどと言っているが、昨今の“危うい繋がり”は似たような状況を作り出す。もう少し周りや他人に対して“寛容な社会”になれば、自由に「ハダカ」になって恋をすることが出来て、70~80年代のような“恋し合う街角”が実現するのだが、どうもいまの日本は、不倫じゃなくても“隠れて恋愛する”おかしな国になりつつあるような気がしてならない。

死んで“お詫び”はさせない…という証?

2018-01-12

時々、“死から蘇る人”というのが、いる。彼も、その一人だ。その事件は今年1月7日朝、スペイン北部の刑務所内で起こった。一人の受刑者が意識不明の状態で発見されたのだ。彼は自殺のため、大量の薬物を飲んでいた。すぐに医師たちが派遣され、3人の医師が一致して、もはや「死亡」していることを確認した。遺体は袋詰めにされ、遺体安置所に移送され、規則に従って“司法解剖”を行うことになった。担当医師が遺体に対して解剖のための印を何ヶ所かに付けていた。その時、瞼が開いたのだ。ゴンサロ・モントーヤ受刑者が蘇ったのだ。金属廃材を窃盗した罪で服役していた29歳の青年だ。こうして、間一髪のところで彼は生還した。もちろん、彼は“死のう”として薬を飲んだ。自らの犯した“罪”を“死”で償おうとしたのだ。金属廃材の窃盗であるから、数年間“服役”すれば、刑務所は出られる。それなのに自殺しようとしたのは、自分にも未来にも絶望していたからだ。金にため窃盗してしまった自分自身が許せなくもなっていた。けれども、“運命の神”は彼を死なせなかった。彼の“償い”が、自らの命を絶つことではないことを、教えようとしていた。それだからこそ、29歳の受刑者は蘇ったのだ。よく「死んでお詫びする」という言葉を使うことがある。けれども、それは“愚かな発想”であることを、この事例は見事に示している。本当に“お詫び”をしたいなら、死んでからでは駄目なのだ。むしろ今後の“人生”の中で、その“生き方”を通じて“お詫び”を果たしていくことが大切なのだ。もちろん、それは“金属廃材”相当分の金額を返すというような単純なことではない。貧しい若者たちが、自分と同じような“過ち”を起こさないような仕事や運動に携わるとか、既に犯してしまった若者を自分が矯正させていくとか、生活支援していくとか…彼にしかできない“何か”が必ずあるはずなのだ。それを探し出し、見つけて、生涯を過ごすべきであることを、神は無言のうちに伝えようとしている。

「平成」最後の年に「怪物」は蘇るか

2018-01-11

かつて「平成の怪物」と呼ばれていた男がいた。今となっては誰も振り返らないプロ野球選手・松坂大輔氏である。昔、あれほどの“人気”を誇っていたのがウソのようですらある。その松坂大輔選手が中日ドラゴンズのユニフォームを着ることになった。公式には中日の“入団テスト”を受けてから決まることになっているが、実質的には“内定”している。“現役”にしがみつきたい松坂の想いと、かつての“人気”に縋りつきたい中日の想いが見事に一致しての入団だ。3年間のソフトバンク時代には“1勝”も出来なかった。1軍登板したのも1イニングだけという悲惨さである。そんな松坂だが年齢的にはまだ37歳で“現役”としてやれない年齢ではない。肩の故障さえなければ…と本人は思っているかもしれないが、そうではない。一番の問題は精神面なのだ。十代半ばから「平成の怪物」として、マスコミがこぞって褒め称えた。どこへ行っても“大人気”だった。その記憶が抜けていないのだ。だから“ゼロからの再出発”という気持ちにどうしてもなれない。本来ならソフトバンクからの“コーチ契約オファー”を蹴ることなど出来ない。何しろ3年間、まったく働かなかったのに12億もの“契約金”を手にしたのだ。恩義がある。それなのに蹴ったのだ。そういう“傲慢”なところが一番の問題点なのだ。もし、彼が新天地で本当に“ゼロからの再出発”という意識に切り替えることが出来れば、元々の素質が蘇って“平成最後の年”となる2018年に“平成の怪物”としての“最後の力”を呼び戻すことが出来るだろう。37歳という年齢は、まだまだその“力量”が枯れ切ってはいない年齢だからである。けれども、かつての“記憶”に縋りついている内は“蘇る”ことなど出来ない。スポーツ選手にしろ、芸能人にしろ、十代半ばから“人気の頂点”に立ち、黙っていても“大金が舞い込んでくる”生活を経験した者は、どうしても“その感覚”が抜けていかない。人間としての“精神的な成長”が止まってしまう人達が多い。それを見越して“神”は試練を与える。人生は長いのだ。その試練の中で、人間的に“大きく飛躍した人”は、長い試練の後で、再び栄光を取り戻すことが出来る。

「差別」と「風刺」の微妙な境界線

2018-01-10

世界的ファッションブランドH&Mが売り出した商品で、黒人のキッズモデルが着用したパーカーの内容が、あまりに“人種差別的”だとしてグラミー賞歌手などが猛烈に抗議している。青いパーカーには英文で「ジャングルで一番イケてる猿」と書かれているらしい。確かに、あまり趣味の良い表現ではない。ただ私には、こういうものを“売る側”の心理も、人種差別だと“抗議する側”の心理も、いま一つ解からない。近年になって、このたぐいの“奇妙な文言”が記されたパーカーとかTシャツとかが沢山売り出されている。或る種、自己主張なのかもしれないが、そういうものを着ていたとして、通りすがりに読み切ることは難しく、意味として通じていない文言も多い。第一、文字だけを何の装飾もなく並べていること自体、デザイナーとしての資質が疑われる作業で、そういうものを“着て愉しむ”、或いは“着て主張する”人の気持が、私には理解に苦しむ。もしかすると「ジャングルで一番イケてる猿」というのは、実際にジャングル地帯を探索するようなときに、或いは森林地域のピクニックとか、ちょっとした冒険旅行とか、そういう時に“着るためのパーカー”として「風刺」を利かせたつもりなのかもしれず、元より“人種差別”など意図していなかったかもしれないのだ。もし、これを白人のキッズモデルが来ていたなら、人種差別という抗議は起こらなかったのだろうか。或いは、日本人とか、中国人とかのキッズモデルだったら、どうだったのだろう。同じような点で理解に苦しむのは、年末に放映して話題となった「ガキの使いやあらへんでSPアメリカンポリス24時」で浜田雅功氏が扮した黒塗りメイクだ。欧米では「人種差別」として“大ブーイング”の対象となった。けれども、日本人の感覚として、黒塗りをすることで“人種差別的感覚”を抱く人はほとんどいない。欧米人は或る種、過剰に“意識しすぎている”から、それを“人種差別”だと捉えるのである。見た目の違いは隠しようのないもので、差別を“する”“しない”の問題とは根本的に異なる。ところが、欧米人はその境界線が理解できていないのか、或いは、形から入らなければ気が済まないのか、必ず“違い”をストレートに表現しようとすると、すぐに“差別”だと決めつける。それは、彼らの中に本能的な“差別意識”が潜んでいるからのような気がする。ニューハーフや障碍者にしてもそうだが、先天的な違いは仕方の無いことで、それを無理に“存在していない”かのように振る舞おうとすることの方が、よほど“差別”であるよう私には思えてならない。

世界で「気象」が荒れ狂っている

2018-01-09

この冬、アメリカ東部とカナダでは記録的な寒波に襲われていて「爆弾サイクロン」と名付けられた低気圧が居座っているようだ。特にカナダのオンタリオ州とケベック州とでは氷点下50度近くまで気温が下がり、森の動物たちでさえ適応できない状態に陥っているという。アメリカ東部では寒波で19人が死亡、空港では国内・国際の発着3420便に遅れが出るなどしている。また東海岸では8万戸が停電。中米に位置する熱帯・コスタリカでは気温低下でホームレスの二人が低体温症で亡くなっている。同じく熱帯に属するバングラデシュでも観測史上最も低い2.6度を記録、9人が死亡したため、貧困層に対して急きょ7万枚の毛布が配布された。スペインでも豪雪のために道路が遮断され、何百台もの自動車が立ち往生、路上で夜を明かさなければならなくなって、兵士250人を出動させ、毛布や水の配布を行った。このように、記録的な寒波に襲われる地域がある一方で、記録的な酷暑に苦しんでいる地域も出てきた。オーストラリアでは記録の残る1939年以降で最も暑い夏となっていて、シドニーでは7日47.3度を記録、それだけでなく各地で自然火災が発生、ビクトリア州では50か所以上で火の手が上がっている。また400世帯以上で停電も発生している。まさに世界各地の気象が“狂乱の年明け”となっているのだ。産業界ではロボットの活躍だとか、全てがスマホだけで出来る時代だとか、科学やコンピュータの発達が世界を変えていくようなことが言われているが、実のところ、人類は“自然界の猛威”に対して手も足も出ない。歯が立たない時代が続いているのだ。ミサイルや化学兵器よりもはるかに恐ろしいのが“地球規模の自然災害”なのだ。北朝鮮どころではなく、対話の手段を持たない地球生命体は、無言の中でわれわれを追い詰めてゆく。幸いというべきか、今のところ私が暮らす北海道の気象は比較的安定している。どうか、このまま“大自然の神”のご機嫌が良くなって、穏やかに過ごせることを願うしかない。

「時は過ぎていく」“8回目五輪”への疑問

2018-01-08

スキージャンプ男子の平昌五輪に葛西紀明氏が選出された。何んと“8回目の五輪出場”である。記録としては大変に素晴らしい。だが、今一つスッキリしない。今年になって行われた競技大会でも18位だった選手なのだ。もちろん“代表枠”は5人あって、その選考基準をクリアしての出場で、名前だけで選出されたわけではない。それは解かっている。ただ最近は調子を落としていて、昨年の11月に行われたラージヒル個人予選では64位だった。そういう選手を“日本代表”としてオリンピックに送り出さなければならないのが現状なのだ。その部分に“8回目の五輪出場”を素直に応援できないもどかしさがある。もし、私が彼の立場なら、自ら辞退して“若くて将来ある選手”を推薦するだろう。もしかすると、そういう“若手”自体が存在していないからなのだろうか。オリンピックの“出場選考”に関しては、冬季だけでなく夏季でも同様な問題が時々起こる。名前が知られているとか、強力なスポンサー企業を持っているとか、人気があるとか、どうしてもそういう選手の方が選出されやすい。一時期、日本の“ジャンプ男子”は圧倒的な強さを誇っていた。実は私には“嫌な思い出”がある。丁度、葛西選手も含めて多くの男子陣が輝いていた“長野オリンピック”でスキージャンプが行われていた正にその日時、なんと私は同じ時間帯に、或るワイドショー番組にゲスト占い師として出演していた過去があるのだ。もちろん、日本中の人達が“五輪のTV画面”に釘付けとなっていて、私の出演したワイドショーなど見るわけがない。そういう中で占っていた記憶があるのだ。その“嫌な記憶”だけが頭に残っていて、ワイドショーの番組内容も、何を占ったのかもほとんど記憶にない。ただ、あの時一緒に出演した占い師は、私以外に2人いたような気がするのだが、彼女たちは今でも「占い」を行っているのだろうか。プロとして活躍しているのだろうか。もしかすると私だけが“占いの世界”にしがみつき、他の方達は、とおの昔に“占いの世界”から足を洗っているのかもしれない。

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