2月, 2018年

ヒツジが育てた“ヒトの心臓”という「怖い進化」

2018-02-23

世の中が“進んでいく”ことは良いことなのだろうか。時々、わからなくなる。ロボットが人間に“すり替わっていく”ことも確かに怖い。だが、それ以上に怖いのは、人間以外の動物の体内で育てた“臓器”を、必要とする人間に移植するという行為だ。その代表が“心臓病患者”で、現在、アメリカでは10万人もの人々が“心臓移植”を希望している。それに対して年間2000名の移植が、現在の医療では限界なのだそうだ。その結果、どうなるかというと“臓器待ちリスト”(心臓移植だけではない)の人達が、10分に一人の割合で亡くなっていく。そういう哀しい現実の中で、思いついた方法がヒト以外の動物の体内で“臓器を育てていく”という方法らしい。実際、それによって択ばれたのが“ブタの体内”や“ヒツジの体内”なのだ。一応、これと似たような方法で、ラットの体内でマウスの肝臓を育てることに成功し、糖尿病のマウスの治療として成功した例がある。だから、理屈的には可能なようではある。ただ、さまざまな問題が横たわっていることも事実で、果たして本当に大丈夫なのだろうかと誰もが思う。その一方では3Dプリントの技術で“臓器を作る”という試みも行われていて、形だけで言えば、こちらの方が速そうではある。科学が進歩して、人間の命を“救う”のはもちろん大切なことなのだが、どうしても動物の体内で“ヒト臓器を育てる”とか、3Dプリントされた臓器を体内に埋め込むとか、何となくの抵抗感が消えない。体内に“埋め込む”という点で言えば、骨に関しては実際に“人工骨”が埋め込まれている人たちは大勢いて、治療として成功しているケースが多い。ただ、心臓とか肝臓とかの“臓器”は同じようには考えられない。もっとも、私のように日頃から“ロボット的な肉体”を持っている人物は、案外“拒絶反応”などなくすんなりと受け入れてしまいそうな気もする。「オレの心臓ね、ヒツジの中から取り出したんだよ」と見せびらかしたりして…。

仮想通貨は持っても、現金決済する日本人

2018-02-22

不思議な国「日本」。何しろ“形の無い”通貨=「仮想通貨」を沢山の人達が持っているのだ。何んと世界一。その一方で、実際に支払いに使用しているのは圧倒的に“現金”。それを証明するデータが公表された。日本、中国、アメリカ、ドイツ、この四か国を対象にした“キャッシュレス”の調査だ。対象は街を歩く18歳~64歳までの人達。外出時の買い物や飲食などでの決済時に何を用いているのか。「現金」との答えが最も多かったのは、おそらく「日本」だと考える人が多いと思うが実は「ドイツ」66%が“現金主義”だ。日本は63%で少しだけ少ない。スマートフォン決済を好むのは中国が圧倒的で44%。一つには“偽札”などの多い中国では、国を挙げてスマホ決済を推進させているからだ。それにしても、ちょっとした買い物にもスマホを差し出そうとする中国人の感覚がいまいち理解できない。実際、日本での調査ではスマホ決済をするひとは、まだ2%にも達していない。極めて少数派なのだ。私は今から20年くらい前、初めてフィリピンへ行った時、デパートで現金を差し出そうとすると“カード決済”を要求され、驚いたことがある。日本のように国民全体が“平均的に進んでいく国”と、その先端を行く人たちだけが、いち早く最新のモノを取り入れる国と、世界には明らかに“二つの国”が存在する。ところでアメリカはどうなのかというと、VISAカードなどのデビットカードを使う比率が最も多い。ただ31%で、一つに固まっていない印象を受ける。日本人はカード決済は少なく1%にも達していない。確かに、カード決済は日本人の場合、通販の時か、または十万円以上の高額商品の時か、どちらかでなければ使わない気がする。結局、日本ではまだまだ現金が大手を振って使えそうなので良かった。

誰も悪くないのに…

2018-02-21

世の中には、誰も悪くないのに“不幸”が忍び寄って来ることがある。女優の藤真利子さんは、10年間の自宅介護生活を経て2016年11月に母親・藤原静枝さんを亡くした。4歳の時に人気作家だった父親・藤原審爾氏の元を母親と二人で飛び出し、私がママを守る、と幼心に誓って以降の二人暮らしだったようだ。その後、彼女は大学生の時に女優デビューし、数々の賞を受賞、独身のまま仕事を続けていたが、母親の脳梗塞と共に“介護生活”主体に切り替え、約十年の介護生活ののちに見送る形となった。母一人、子一人の家庭の場合にありがちな情景である。彼女には、自分が仕事に行っていなければ…自分が仕事からすぐ戻っていれば…という“後悔の念”がずっとついてまわったようである。そのため、介護の経緯などを詳細に記した『ママを殺した』(藤真利子著・幻冬舎刊)は、憑かれたように一気に書き上げ、昨年11月に出版された。けれども、その後も「死なせてしまった」という自責の念は無くならないらしい。その執念のような思いは、未だに親の介護をしている人たちに対して「うらやましい」と涙を流す態度からも読み取れる。だが、これは彼女一人の想いではないのかもしれない。全国には、無数の“介護する側”と“介護される側”の人達がいる。もちろん、誰も悪くはない。けれども、こと“介護”に関しては、さまざまな“感情”や“思惑”が行き交う。何が正しくて、何が間違っているか、誰にも本当は言えない。特に“自宅介護”は大変である。そのこと自体は立派でも、果たして本当にその方が良いのかは疑問が多い。経済的な負担も大きい。誰も悪くない問題で、無数の人達が泣いている。

東京五輪の「江頭2:50」が危ない!

2018-02-20

そう言えば、この人、どこにでも出かけていく。平昌五輪に出掛けて行って「北朝鮮の美女応援団」の手前で“独特のポーズ”をとっていたとしても驚くに当たらない。ネットユーザーが見つけて拡散したらしいが、そのざわつきの中で「北の偉い人が気付きませんように…」と心配する声があるのも無理からぬことではある。昔、トルコで“素っ裸”となり、危うく集団リンチに遭いそうになった。イスラムの地では公衆の面前で“裸になる”のは“神への冒涜”なのだ。だから、最初から“不穏な空気”があった。それでも彼は決行したのだ。何しろ、この人“自制”が効かない。むしろ「危ない」という声が聴こえそうなときほど、そっち方向へと走りだすようなところがある。まあ、そういう“危険なところ?”が熱烈に支持されているのかもしれないが…。ただ、あの頃は若かったが、もうお歳なのだから、抑え気味にしないとね。噂によると、オリンピックの時には世界中どこにでも行って応援しているそうな。でも、日本人は優しい。こういう人物に対しても「日本の恥だ」とは誰も言わない。まあ、中には“白い眼”を向ける人もいるが、大抵の人達は彼なら許す。3.11の大震災の時にも孤軍奮闘していた。そういうことを知っているから、温かく見守ってあげるのだ。この人が支持されるのは、とにかく一生懸命だからだ。そこには“笑い”を取ろうというよりも“こうやって生きているんだ”というメッセージがある。人間誰でも、こうやって生きていけば生きていけるよ、という熱いメッセージがある。但し、それが時々暴走してしまう。東京五輪の頃には、もう齢で歯止めが利くようになっているだろうか。だが、その一方で、歯止めの利いた「江頭2:50」など見たくない、という声も聞こえて来そうな…。

毎年1000名以上が「凍死」している

2018-02-19

今年は全国的に“寒い冬”だと言われる。確かに寒い。だが日本では、まだ「凍死」するほどの寒さではないだろう。誰もが、そう思う。ところが、そうではないのだ。実際に“凍死している”人達が沢山いるのだ。それは、今年に限らない。記録によると、今から10年前くらいまで“凍死による死者数”は700人前後で推移していた。ところが徐々に増え始め、現在では毎年1000名を超えるまでになっているのだ。当然のことながら冬場の夜中がもっとも多い。それも男性が約9割で圧倒的である。なぜ男性が多いのかというと、酩酊状態のまま路上に寝てしまう男性が多いからである。他にはホームレスの方が多いからである。年代的には40~50歳の働き盛り。もう一つは70~80歳の高齢者。前者は屋外での凍死者に多く、後者は屋内での凍死者に多い。屋外での凍死者には冬山登山による凍死者も含まれるが、数字的には少数でしかない。路上で寝てしまう場合、10度以下であれば凍死する可能性があるという。北海道のように氷点下の路上だから凍死するとは限らないのだ。いや、屋内であっても10度以下なら凍死する可能性がある。特に高齢者の場合、本来の皮膚感覚が衰え、皮膚の自動調節が効かなくなっていて、寒い部屋で寝ていることで“老人性低体温症”を発生するケースは多い。部屋の中に寝ているから大丈夫とは言えないのだ。つまり、高齢となったなら、夜中になると極端に温度が低下する室内で寝ている場合、布団や毛布などで身体を十分に温めておかないと、朝方の冷え込みに耐えられなくなる。高齢になると、やたら何枚も重ね着をして、寒い部屋の中で生活されている方がいるが、暖房費をケチって生命を失っては何にもならない。夜中10度以下になる室内は、人間にとっては「冷凍庫」と同じなのだ。

札幌市が“二つの問題”で揺れている

2018-02-18

昔と違って、行政が頭ごなしに“物事を決めていける”時代ではなくなった。ましてや周辺環境の整備問題や、莫大な税金が投じられる問題の場合には、なおのことである。札幌市の場合、今年は“二つの問題”で、揺れに揺れている。その一つは新幹線の“到着駅”だ。現在の札幌駅そのままでは新幹線を迎え入れることが出来ない。そこで、どこに新幹線用のホームを作るかで大揉めに揉めている。何しろ、この問題はどこに主導権があるのか、とんとわからない。“JR”と“道”と“市”と“国”と、それぞれが主張を展開していてまとまらないのだ。既存のホームを利用する方法、地下に作る方法、西側に作る方法、東側に作る方法の四つがあったのだが、結局、すったもんだの挙句、それらすべてとも異なる“もっと東側に作る方法”を、JR側がごり押ししつつある。どこでも良いが、早く決めないと「駅」の無いまま新幹線が走って来るなんてことになりかねない。もう一つは“日ハムの新球場”で、現在は札幌市の福住にある“札幌ドーム”が使われているのだが、これが札幌市の運営になっていて、日ハムはそれを“借りている形”となっている。ところが、その使用料というのが高すぎるのだ。だから日ハム側としては、多少お金が掛かっても自分たちの球場を作って、それと同時に“球場一体型リゾートパーク”としての“新しい街づくり”も同時に担いたい、という願望を持っている。それに対して、いち早く“手を上げた”のは北広島市で札幌からは少し離れるが新千歳空港に近く、上手く“リゾートパークとしての”街づくりが進めば、道外の客も取り込めそうな地域ではある。札幌市の方は、これまた“候補地”がなかなか決まらなかった。昨年暮れ近くにようやく真駒内地区が選ばれたが、そこでも住民には反対者がいて、一応という疑問符付きの選定となっている。それもあって、日ハム側は北広島市の方と親密なように見える。私の占いでも、北広島市の方に決まりそうな形が出てはいる。ただ札幌市以外に“新球場”を持っていった場合、果たして平日でも入場者を確保できるのだろうか、という疑問もある。もう一つ「北広島市」って、本州の「広島市」と少し紛らわしい感じがして、市の名称も、この際変えてしまった方が…。

「AIロボット」が出勤してくる毎日

2018-02-17

みずほフィナンシャルグループが2026年までに従業員19000名の削減を打ち出し注目を集めている。どうして、そんなにいらなくなるのかというと、人間の代わりに“AIロボット”が出社してくるからだ。まあ事実上は、銀行内に四六時中ロボットが居残るのだが、それまで銀行員が行っていた業務を変わることが出来る。基本的に銀行業務には、AIロボットのような感情とか体調とかに左右されない“優秀な頭脳”の方が役立つ分野が多い。別に“みずほ”だけが切り替えようとしているわけではない。メガバンクはどこも、似たような考えを打ち出している。一番“思い切った削減人数”を打ち出したのが“みずほ”というだけだ。どうして“みずほ”が一番なのかというと、ソフトバンクとの関係性が一番強いからだ。もちろん日本の場合、“マイナス金利”の導入と“仮想通貨”普及の可能性が、これを後押ししている。けれども、“AIロボット”が出社してくるのは銀行業界だけかと言えば、そんなことはない。もしかしたら、ここが一番なのかも…と予想されるのは運輸業界である。つまり“運転手”の方々。何しろ“自動運転”が可能になるのだ。“運転免許”が不要になる。いや、もっと“感情”や“気分”に作用されて欲しくない分野がある。法曹業界だ。つまり“弁護士”とか“検事”とかの方達。或る意味で、ここがもっとも“AIロボット”に適任の業務かもしれない。“ロボット”に裁かれる人間なんて何となく物悲しいけど…。さらに“税理士”“司法書士”“公認会計士”“行政書士”といった「士」のつく職業は、総じて“AIロボット”の方が優秀になる可能性が強い。こうして、どんどん人間の“出る幕”が少なくなっていく。だから、せめてホテルのフロントにロボットが並んで「いらっしゃいませ」と無機質なお辞儀をするのだけは勘弁してほしいなあ。

狂気の「ガンマン」が“銃自慢”する国

2018-02-16

またしても、それは起こった。アメリカフロリダ州で起こった銃による“乱射事件”。舞台は3000名のマンモス高校だ。その日、校内で“消火訓練を行う”ことは事前に知られていた。予定よりは早かったが、発煙筒がたかれ、火災報知機がけたたましい音をたてた。誰もが“消火訓練”だと思い、教室から校庭へと飛び出してきた。そこで待ち構えていたのはガスマスクを着けて自動小銃を構えた青年だった。彼は校庭の生徒たち多数を撃ち殺したのち、各教室内へも入っていった。慌てて教室の扉を閉めようとした教師も犠牲となった。結局、17人が死亡し、40数名が病院へと運ばれた。犯人は取り押さえられたが、昨年トラブルを起こして退学した19歳の元生徒だった。彼は学友にも「人を撃ちたい」と言っていた。退学後、学校に対し“脅迫していた”との情報もある。孤独な生い立ちを持ち、養父母に育てられていたが、やがて二人とも死亡し、完全に独りとなって、最近は友人宅に身を寄せていた。SNSではベッドの上に沢山の銃や刃物を並べた写真を掲げて自慢していた。「自分の半自動小銃で人を撃ち殺したい」というメッセージまで投稿されている。正に「危険人物」だったのだ。しかも、アメリカが“病んでいる”のは、こういう人物が決して特殊な存在なのではない、という点だ。今年に入ってからだけでも、学生による銃撃事件は既に18件も起こっているのだ。つまり日常的に存在するのだ。1月23日にも、ケンタッキー州で15歳の生徒による乱射事件が起こっている。その時にも17人が死傷している。それでもトランプ大統領は「銃規制をしよう」とは言わない。“銃には銃で防御する”が、アメリカ人の発想なのだ。だから北朝鮮に対して「ミサイルを作るな」と言っても、ガンマンだらけの国の話など聴けるかと応ずるのも、その点だけで言えば理解できないことはない。アメリカは、どれだけ命を犠牲にすれば「武器よさらば」となるのだろう。

今日まで「前年」という“中華圏の暦”

2018-02-15

明日2月16日から中華圏の「春節」が始まる。つまりは「正月」の開始で、中華圏では「農暦」と呼ばれることが多い民間暦による“一年の開始”である。ここでいう中華圏とは、中国本土はもちろん、香港、台湾、マカオ、シンガポール、マレーシアなど華僑の多い地域全域への総称である。それらの地域も、公用暦としては日本と同じく「太陽暦」が使われているが、庶民感覚の行事のことごとくは「太陰暦(厳密には太陰太陽暦)」を現在でも用いている。だから中国人にとっては今日までは「前年」で、明日からが本当の「正月」ということになる。ここで日本人の多くは「なぜ“立春”である2月4日から“春節”にはならないのだろう」と疑問に思うかもしれない。実は、暦学的な観点から言うと、日本で採用されている“立春”=“春節の開始”という考えの方が正しいのだ。“春節”の“節”は「節気暦」から来ていて、その節気暦によれば今年は2月4日からが“節入り”だからである。ところが「太陰暦」の観点に立つと“節入り”後、最初の“新月=朔日(1日)”こそ「正月1日」だから、ここからが“本当の春節”だという解釈となる。より正確に言うと、表現的におかしいだけだが、元々「節気」という区分や捉え方は「太陽暦」に対しての概念で「太陰暦」の概念ではない。ところが日本でも昔から勘違いしている人が多いのだが「旧暦の正月」という考え方をしやすい。そうなると「旧暦」では「太陰暦」の中で、本来は太陽暦で用いる“24節気”を記載しているものだから、“立春”前後に始まる「正月」が“俗称”として「春節」と称されるようになっていったのである。まあ、この辺のところは“目くじら”を立てるようなことでもないが、天文学的には“立春こそ春節の開始”なのである。そういう観点から言うと、日本の場合には“神武天皇即位の紀元法”に基づく「皇紀2678年2月11日」からを“日本独自の春節”とすることもできる。タイ王国では「仏暦2561年」というブッタの入滅日から起算した暦が現在でも使用されているし、台湾では“辛亥革命”の1912年1月1日を起点とする「民国暦107年」という記載の仕方を現在もしている。ユダヤ教徒は“天地創造年”を起点としていて、今年は5778年になるそうだ。

アルゼンチンにヒョウが降る

2018-02-14

南米アルゼンチン、そのやや北部に位置するのがコルドバ、南半球なので現在は“秋のはじめ”くらいの季節、平均気温は23度くらい。そのコルドバに18センチ大(本当はもっと大きかったが、少し溶けたので…)の雹(ヒョウ)が降った。氷の塊だが、尖っていて危険な形状。おそらく“南米一の大きさ”であり、世界的にもアメリカの記録に次いで“二番目の大きさ”として記録に残るだろう。死傷者など被害者が出なかったことが奇跡のようにさえ思われる。アメリカでは2003年6月にネブラスカ州で47.6㎝、2010年7月にサウスダコタ州で20㎝、日本では2000年5月に千葉でピンポン玉大多数の雹が降り、162人の負傷者が出ているのだ。文字記録だけなら1917年6月には埼玉で29.5㎝、かぼちゃ大の雹が降ったという記述が残っている。またバングラデシュでは1986年4月に巨大な雹が降り92人が死亡したという報告があり、インドでも1888年4月、オレンジ大の雹が降り続き、230人もの尊い犠牲者が出た。ビー玉程度までなら日本各地で見掛けるもので、痛いとは思うが死ぬような危険は感じない。けれども、オレンジ大の大きさになれば多数の死傷者を出す“凶器”ともなり得るのだ。しかも、真冬ならともかくアルゼンチンでは初秋の季節、いや、過去の例を見てもインドやバングラデシュなど、とても雹など降りそうもないようなところで被害が記録されている。こういった自然災害には、まるで“生命体としての地球”からの“怒り”や“嘆き”、“呻き”や“叫び”が秘められているようで逆らうことの出来ない怖さが感じられる。「日本株の急落」とはまた違った意味合いでの“嫌な感覚”→「予感」。その“幕開け”でもあるかのような“次の事象”は絶対に起こってほしくない。

“自由”を奪っていく「性差別」なるもの

2018-02-13

「グリッドガール」という職業をご存じだろうか? モータースポーツであるF1レース前、各ドライバーの看板を掲げる女性達のことである。このグリッドガールが1月31日の“F1公式サイト”で今後のレースでは“廃止”することが公表された。その理由は「現代の社会規範にそぐわない」からだそうである。要するに“女性蔑視の名残”とか“性差別に当たる”ということで、その種の団体などからの風当たりが強いので、止めた方が良いという判断らしい。今後は「レースクイーン」と呼ばれる職業も“廃止の方向”で検討中とされている。これらに対して、現役のレースクイーンや過去のレースクイーンの方達から猛烈な反発が起こっている。実際、元レースクイーンだった女優・歌手・モデル・アナウンサーなども多く、誇りに思ってやって来た“過去が汚される”印象を受けている人も多いようだ。このまま進むと、ラウンドガール、コンパニオン、グラビアアイドル、CMモデルなども、“女性蔑視”や“性差別”の対象として攻撃されてしまう可能性が高い。近年、さまざまな形で“差別廃止”が謳われているが、実際には逆に“表現の自由”を規制し、それぞれの“生き方”を認めない方向へと動いている感がしないでもない。“差別”は確かにいけないことだが、本人たちが“差別”や“蔑視”などと感じず、むしろ誇りを持って取り組んできた仕事まで奪う権利が、“平等主義(?)”の人達にあるのであろうか。女性が“女性らしい姿”で、その美貌やセクシーさや可憐さをアピールすることが、なぜ男性に“屈服する姿”として映るのであろうか。逆に、そうやって男性たちを“屈服させてきた女性達”が山ほどいることは、古今東西の歴史に明らかなことなのである。

校長は、なぜ全校集会で謝罪したのか

2018-02-12

2月9日の朝、富山県の県立高校で校長が全校集会において、“服装指導”の一環として生徒44名の髪を教師6名が切っていたことについて謝罪するという“珍事”が起こった。解からないことだらけのニュースである。まず、これは一人の教師が行ったことではなく、6名もの教師が行ったことのようである。しかも、3~4名の生徒ではなく44名という数の生徒たちである。まったくもって奇妙としか言いようがない。しかも再三注意をして、それに従わなかったので、“眉に掛かる部分”や“耳に掛かる部分”などを切り揃えたということらしい。バリカンで丸刈りにしたわけではない。多分、教師たちの間での“共通認識”があったからこそ、6人の教師たちが44人の生徒たちの髪を切ったのだろう。当然、校長は事前にそれを聴いているか、少なくとも把握していたはずである。そうでなければ、単独でなく、6人もの教師たちが勝手に髪を切るはずがない。しかも、一応、生徒にもそれを事前申告したうえでの行為のようである。“服装指導”が揉めるのは大昔からのことで、今に始まったことではない。私は、個人的には“自由で良い”と思っているが、まあ、学校側が“規制しようとする”のも解からないではない。とにかく、学校内で教師たちが議論を尽くしたうえで、改善される気配がないということで、実施した“髪切り”のように思われる。そうでなければ、6人もの教師が44人もの生徒の髪を切ったりしない。それなのに、校長は全校集会において「あってはならない指導だった」と謝罪している。私が問題にしたいのは、その部分だ。なぜ、謝罪したのか。教師たちに「罪」を負わせたのか。自分は「知らなかった」と言いたいのか。誰か有力者から、詰め寄られたのか。マスコミに叩かれそうなので先手を打ったのか。いずれにしても、校長としての責務を任ずるに相応しくない。もし、自分が事前に知っていたのなら、何故、止めなかったのか。事前に知らなかったのなら、それだけで校長失格であろう。つまり、どっちにしろ、校長としての責任の取り方ではない。もし、正しいと思ってGOサインを出したのなら、それを貫けばよい。教師たちを“悪者”にするなどとんでもない。教師たちは困った挙句に決行したのだ。また、教師たちの中に「髪を切るなら、理髪師の方を呼んだ方が良いと思う」と、どうして誰も言えなかったのだろう。せめて、形良く切ってあげるくらいの配慮はしてやるのが“センスある教師”というものである。美容学校ではなく、県立高校なのだ。

「会社愛」が“幸福感”の原水

2018-02-11

奇妙な調査報告が報道された。パーソルホールディングスと東京大学の共同調査による会社員6000名を対象に行われた“残業が減らない理由”で、日本の企業の場合、管理職にある人間が積極的に残業を行い、何となくそれが社員にも伝播し、やがてそれが“当たり前のこと”として社内に広がり、その環境が自然なものとして受け入れられるようになる…というのだ。これを大学調査らしくまとめると「集中」→「感染」→「麻痺」→「遺伝」という風な“構図”として見立てているらしい。しかも、この調査によれば残業が月60時間以上に達すると「幸福感」が急激に高まる…というのだ。とても信じられない。私など会社員時代、独りだけ残業なしで帰っていたではないか。その一番の理由は“会社に拘束される”ことが嫌だったからだ。正直、会社の“奴隷”になるなんてまっぴらだった。それが、どうだ。60時間以上の残業で“幸福感”が高まる。つまり、会社に拘束されればされるほど“シアワセ”を感じてしまうのだ。相当なドM体質の会社員が多いからだろうか。だが、ここで興味深いのは、欧米ではそういった風潮は見られないことだ。欧米と日本では何が違うのだろう。日本人は「仕事」=「会社」という構図になる。その部分が欧米とは異なる。つまり、日本人は“仕事を愛する”ということと、“会社を愛する”ということとがイコールでつながっているのだ。だから、会社から“拘束される”ことは、会社から“愛されている”ことに繋がる。だから、会社から“愛されている”意識が強くなる長時間労働、残業時間の増幅を“より愛されている”と錯覚し、“幸福感”が強まっていくのに違いない。私のように「仕事」=「会社」などと考えられない人は、会社に拘束されることが苦痛に感じられるだけなのだが、「仕事」=「会社」を実感し、拘束されればされるほど“愛されている”と感じられる人は、残業にのめりこんでいくに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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