6月, 2018年

「母親」は「息子」を道ずれにした

2018-06-18

親戚が集まった時、表立っては言えないけど、誰もが暗黙に頷き合うような“死”というのがある。この場合も、きっとそうだったに違いない。親戚たちは二度集まり、棺は二つ並べられていたからだ。そして誰もが神妙だった。こういう時、普通は一人くらい明るく振る舞う親戚がいるものだが、怖いのか誰もが無口だった。インドネシアのスラワエシ島トラジャでは、伝統的に葬儀場は高床式になっている。比較的大きく長めの棺は親戚の人達多数で担ぎ、街を練り歩きながら葬儀場まで運ばれていく。運ばれた長い棺は、高床式で華やかに飾られた葬儀室まで階段を上って安置される。ところが、この階段がなぜか途中で壊れたのだ。棺は宙に浮き、そして一人の人物を斜め上から直撃した。生前、その母親が誰よりも可愛がっていた息子目掛けてだった。辺りは騒然となった。その息子はすぐに病院へと救急搬送されたが息を引き取った。こうして、二つの棺が葬儀室に並べられる形となったのだ。今度は階段は崩れなかった。こういう時、物理的には階段が頑丈でなかったから壊れたとか、持ち上げ方に問題があったとか、理屈をつけるものだ。けれども、誰もがぽつりと「一番可愛がっていたからねえ」という。「あいつも誰より慕っていたからなあ」という。時々、理屈では割り切れない現象が起こる。多分、誰も“悪くない”のだ。夢の中で、すでに故人となっている人物が白装束や黒装束で現れ、本人に対して“行こう”と親し気に誘って来ても、決してその後をついて行ってはいけない、という。夢の中でついて行ったなら、必ず、現実の世界の中で「向こうの世界」に案内されてしまう出来事に遭遇するからだ。

札幌―東京間「新幹線」4時間半は魅力だが…

2018-06-17

JRは「北海道新幹線」の一番のネックと言われていた“時間の短縮”を本気で考え始めたようだ。現在のままだと東京―札幌間は5時間半くらいかかると言われ、それなら飛行機が良いかなと、誰でも思ってしまう。特にビジネスマンはそうだ。そこで利用者を増やすには“時間短縮”が絶対の条件なのだが、昨日、新たに浮上したJRの計画では《東京―札幌間》を4時間半で到達するように改良するという。これなら利用価値がある。私のように、札幌駅までなら歩いても行ける距離に住んでいる者にとって、東京駅まで4時間半で行けるなら、こんな便利なことはない。ただ問題は、その開通が2030年まで待たなければならないことだ。う~ん、ずいぶん先だな。それまで生きているかなあ。いや生きてはいるかもしれないが、新幹線で東京に行けるほど、元気だろうか。とにかく《東京―札幌間》4時間半はぜひ達成してもらいた。その日の朝に札幌を出発して、昼間には東京に着いているなら、3泊4日くらいでも相当有効に使える。今だと朝に自宅を出発しても、新千歳から旅立つまで半日くらいかかる。実際に東京都内のホテルに落ち着くのは夕方になる。元々、方向音痴のところがある私は、見知らぬところを探し回るのが苦手である。あれこれと乗り物を乗り継いでいくというのも面倒なのだ。そういう点でも、駅から駅までは大変に都合が良い。帰りにお土産をたくさん買っても、新幹線なら持ち込めるだろう。ビジネスのための旅行は嫌いなので、どこでもそうだが基本的に旅行はのんびり気ままな観光が良い。せめて、あと5年くらい前倒ししてくれると良いのだが…。十代で初めて一人で東京へと行った時、何の目的も持たず、ぶらぶらと日々を過ごした。そうしたら、上野駅に預けていた荷物が閉鎖時間となって取り出せなくなった。仕方がなく、上野公園に行ったら、変なおじさんが声を掛けて来て“変なこと”をされた。本来なら“忌わしい記憶”のはずなのに、なぜか今は懐かしい。十代半ばで若かった私は“変なおじさん”にとっても輝いて見えたに違いない。

「正しい生き方」は“正しくない”のだ⁉

2018-06-16

世の中には何でも“正しく”なければ気の済まない人達がいる。そういう人たちは「あれもダメ」「これもダメ」と言って、世の中に“規制”や“罰則”を増やしていく。そして、そういう人たちは「私たちは世の中を良くしている」と心底思っている。飲食店以外のサービス業での“喫煙”が禁止になった。確かにタバコは健康に良くない。20代の時には一日60本以上は吸っていたタバコを、私は友人との酒の席での“賭け”で止めた。二人で同時に“禁煙”したのだ。その後、もう何十年にもなるが、私は全く吸いたいとも思わない。一方、友人の方は、いつの間にか元に戻った。私はあの時、単純に“賭け”に勝ちたかっただけである。健康のために止めようなどとは少しも思っていなかった。多分、それが良かったのだ。人間は“正しいこと”を意識して物事を始めると、大体長続きしないものだ。私のように、よこしまな気持ちから始めると、いつでも再開できるという気持ちがあって、かえって長続きできたりする。「規制」は、上から押さえつけるような締め付けが一番良くない。そういう意味では、実質「カジノ法案」とも呼ばれる「IR実施法案」が可決されたのは、とても良いことだ。ギャンブル依存症を恐れる人たちが本気で反対しているが、前にも言ったが「依存症」はギャンブルに限らない。“アルコール依存症”だって、“買い物依存症”だって、“ゲーム依存症”だって、何でも同じだ。何かに“縋ろう”とする気持ち、“現実逃避”しようとする気持ち、“ストレス発散”しようとする気持ち、それらが依存症を生み出す。その根本的なところを押さえないで、結果の部分だけに規制を加えても、依存症は無くならない。別な形に置き換わるだけだ。最近、パチンコにも規制が掛かっているが、彼らは実際に近年のパチンコ屋さんに足を運んでみたことがあるのだろうか。特に「1円パチンコ」のコーナーで座っているのは、ほどんどがお年寄り達である。若い人たちなど少数である。これはどういうことかというと、お年寄りの“娯楽”が乏しいということなのだ。「1円パチンコ」の場合、勝っても知れている。本当の“ギャンブル好き”からすれば、勝負などと言える金額ではない。それでも集うのは、楽しみの少ない“孤独な老人たち”の唯一の“小さな楽しみ”に違いないからだ。そして、世の中には、そういう“小さな楽しみ”で生きていられる人達が無数にいるということを、“正しい生き方”を主張する政治家たちは見つめなおした方が良い。

「スクールバス」がハンマーで襲われる

2018-06-15

“人種の違い”というものを感じさせられる時がある。昨日、アメリカから入ったニュース映像は正にそんな感じだった。何しろ、高校生たちを乗せた「スクールバス」の車内で女子高生同士のけんかが始まったのだ。スマホを壊された女子高生が、壊した女子高生に弁償代を請求したことから事件は起こった。いきなりパンチが顔面に飛んだ。数発殴られた後、劣勢だった女子高生が今度は反撃に出る。バスの車内で、本格的な取っ組み合いと殴り合い。しばらくは誰も止めない。どうにか治まったかなという段階になった時、双方ともどこかに電話し出した。やがて、バスは一台の車に横入りされ、強引に停車させられる形となった。すると、何やら喚きながら、ハンマーを持った女性がバスの扉を車掌に空けさせようとする。車掌は拒否した。すると、怒った女性はバスの扉を割ってしまおうとハンマーで叩き始めたではないか。騒然とする車内。それでも、車掌は扉を開けず、強引にバスを発車させた。だが、ハンマーを振り回しながら女性の方も対抗する。そうしているうちに、車内で先ほど殴り合っていた片方の女子高生が、今度はわめきだし、車内にあった箒を使って窓を叩き壊そうとする。またしても取っ組み合いが始まる。おさまりが付かないので、バスを降りたいと喚く女子高生を車外に出すと、ようやく平安が訪れる。まるで、ドラマを見ているようだ。何しろ、向こうの女子高生は大柄でむっちりしている。ヘビー級のボクサーのようですらある。もちろん、私服で日本のように制服など来ていない。派手にパーマをかけたり、染めたりしている。実は、車外に出た女子高生と、バスを襲った女性とは母娘で、どうやら娘からの電話でケンカに加勢しようとしての犯行らしい。それにしても、ハンマーを持って喚きながら車内に入り込んで来ようとしたなら、誰だって恐怖を感じるだろう。スマホを壊したとか、弁償しろとか、殴り合っても誰も止めないとか、ハンマーで襲って来るとか、どうも日本人とは違うようで……。

「藤井聡太」から「渡部愛」へ

2018-06-14

時々“〇〇ブーム”というものが訪れる。意図的なものではなくて、スター的な誰かが登場することで自然発生的に生まれて来るブームだ。そういう意味で「将棋」の世界に突如出現した藤井聡太君は“スター的人物”だったと言える。彼はあっという間に七段まで駆け上がった。そして、それが少年たちの間に“将棋ブーム”というものを出現させた。現代の子供たちは、或る種“ゲーム感覚”で将棋を覚えるのだ。私の父親は将棋が好きでアマの五段だったが「プロの初段には歯が立たない」と言っていた。それくらい、アマとプロとでは実力差が大きいのが将棋世界らしい。一時期、若い人たちからは見向きもされなくなった将棋だが、藤井聡太君の出現で再び勢いを得た。そして、ここに来て“新たな火付け役”となりそうなのが昨日「女流王位戦5番勝負」で見事3勝1敗で里見女王を下し、王位を獲得の渡部愛二段(王位獲得で三段に昇格)なのだ。彼女は24歳で藤井君と比べると若くはないが、そのホロスコープや四柱命式を見ると、今年は“大活躍の年”となっている。だから、多分、次々とタイトルを奪っていくのに違いない。この勢いは来年7月までは続く。その間に一気に“女流タイトル”を奪っていくのが良い。そうやって若くて勢いのある女流が出現し、マスコミの注目を集めることで、これまで比較的乏しかった“少女棋士”たちを沢山誕生させることだろう。この女流棋士にはホロスコープで「グランドトライン」と呼ばれる“惑星同士の正三角形”アスペクトが出現している。こういう人は“運気”を捉まえると一気に駆け上がっていく。社会的な“名誉”や“地位”、そして“人気”や“財産”、さらには“愛する人”までも得ていくのに違いない。ただ“親子関係”に弱点を持っているのと、愛情面でのトラブルに巻き込まれぬよう要注意だ。人気が出ることでスポンサーが付き“CM出演”なども果たす。運命の「グランドトライン」は成功を、幸運の女神たちが“後押しする”アスペクトなのだ。

「死者」が“生き返って”生きていく時

2018-06-13

誰でも生涯に一度くらいは「死んでしまいたい」と思ったり、みんなの前から「消えてしまいたい」と思ったりするものだ。もし、それを実践したなら、どうなるのだろう。ここに興味深い実例がある。昨日、警視庁は昨年6月に東京の江戸川で意識不明の状態で救出され、その後に死亡された男性が、家族の方々に遺体を引き取られ、火葬・埋葬し、一年経った後、生き返って来たという報告がなされたことを苦渋の面持ちで発表した。そう、まぎれもなく“生き返って来た”のだ。どうして、こんな奇妙なことが起こったのかというと、遺体を確認・引き取りに来た3人の家族が“見間違えた”からである。う~ん、家族の顔を3人で“見間違える”って、本当か。まあ、よほど似ていたのか、よほど取り乱していたのか、3人で結託をしたのか、いずれかしかない。ともかく、遺体は“家族”に引き取られ、そして火葬・埋葬された。そして一年。ひょっこり、本当にひょっこりと、死んだはずの40代の男性は家に帰ってきた。こういう時、本人は「ただいま」と言えるのだろうか。そして家族は「お帰り」と言えるのだろうか。とにかく、家族がうろたえたことだけは間違いがない。ところが、連絡を受けた警察の方もうろたえてしまった。何しろ、家族に引き取られたはずの遺体が“違っていた”というのだ。確かに3人とも「間違いありません」といったではないか。じゃあ、誰だったの? ということで捜すと、遺体が引き取られてすぐに「行方不明の捜索願」を提出していた家族が居た。その30代男性だったということがやがて判明する。どちらも気まずい。いや警察だって気まずい。余計なことだけど、生命保険とか、こういう場合はどうなるんだろう。半分ずつ分けましょう……とか、出来るわけないだろ。職場の方はどうなったか、訊きたいところだが誰も訊けない。

「日朝会談」を行うのに“相応しい場所”

2018-06-12

海外ニュースは「米朝会談」一色である。もちろん、手はず通りにうまくいく。まあ、トランプ氏が最初に言っていた内容とはだいぶ違うのだが、とにかく米朝は“激しく抱き合う”のだ。実際には、まだ行われてはいないが、もう9割方予定通りの手はずで進むので何の問題もない。問題はその後なのだ。「日本ともきちんと話し合う」と約束した金正恩氏を、日本側はどう受け止め、どう対応していくかだ。当然、安倍総理の方も乗り気なのだから、もう「日朝会談」は決まったようなものである。問題は、いつ、どこで行うかだ。安倍総理の性質から言って、なるべく早く行おうとするだろう。ただ日程はどうにでもなるが、場所の決定は難しい。今回の「米朝会談」が上手くいったのはシンガポールが全面的に協力してくれたからである。かつて小泉純一郎首相時代に平壌に出向いて行って、拉致被害者5人の帰還に成功したが、現在の北朝鮮は「拉致は解決済み」という主張に切り替わっている。したがって、真実はどうあれ北朝鮮の国民は全体的には“そういう捉え方”になっている。ここが難しいのだ。日本国民にとっては“未解決”でも、北朝鮮国内では一応“解決済み”としている問題を、扱おうとした場合に本国内で行うのは極めて不利である。どこの国民でも、自分の国のトップが“国民を騙して来た”とは思いたくないだろう。北朝鮮国民も納得する方法でなら、残りの拉致被害者たちを日本に戻すこともやぶさかではない。そういう意味で、金正恩氏が応じそうなのは、まずは“日本に招待する”形式で「日朝会談」を行うことだ。そして、その場合に“拉致問題”のみで話し合うというのでは、北朝鮮側にとっては格好がつかないので、“友好条約の締結”という風な格好のつくテーマも盛り込むことである。そうすれば、間違いなく金正恩氏は応じる。自国民向けにそう吹聴できるからだ。そのうえで拉致被害者の返還を要求すれば、少なくとも、それが可能な被害者に関しては変換してくると思われる。但し“一度に全員”というような無理な要求をしないことである。“段階的に徐々に…”という形の方が応じやすいことだろう。交渉事は、友好的に行った方が結果的に得るものが大きい。対決姿勢では一人も戻らない。

海老蔵に注がれる“応援”と“監視”の眼

2018-06-11

昨日、市川海老蔵氏と小林麻耶氏の双方から「一年祭」の報告がなされた。仏式の“一周忌法要”に当たる神道式の儀式である。享年34歳の若さで逝った小林麻央氏の夫と実姉とから、それぞれ別に報告されていたことが印象的である。しかも、夫・海老蔵氏からは「麻央が残してくれた二人の子供と懸命に生きていきたい」とのコメントが添えられてある。それに対し、麻耶氏の方に自らのコメントはない。海老蔵氏は歌舞伎役者であるから、本来なら早い段階での“再婚”が望まれる。けれども“闘病中の小林麻央氏”には日本中から沢山の声援者たちがいた。亡くなった現在、その声援者たちは“海老蔵一家”の声援者となり、その子息たちも含めての応援者となっている人たちが多い。つまり、以前なら海老蔵氏は「市川海老蔵」個人として、舞台に立てばそれで良かった。けれども今は、そうではない。母を亡くした“子供たちの父親”としての振る舞いが“声援者たち”から要求されている。それは実姉である小林麻耶氏にしてもそうである。妹の療養中は“母替わり”として子供たちに接することが出来た。けれども、声援者たちは今、麻耶氏に“伯母さん”を要求する。もはや“母替わり”にはなれないのだ。だから、心を鬼にしてコメントを控える。海老蔵氏と麻耶氏との関係も微妙になった。本来なら、もっと接近して良いのだが、おそらく海老蔵氏の母親とか親戚とかがそれを許さない。何となくの雰囲気で、二人も、それを察知している。それらもあって、本来は“女好き”だった海老蔵氏だが、今は“父親”を前面に出さなければならない。現代は、著名人とファンとの垣根が明瞭ではない。その私生活もすぐに知られがちである。そして、私生活そのものが“ファンを作る”場合もある。時としてそれは多大な収入源にさえなる。けれども、同時にそれは、自らの私生活を“売る”ことにもつながる。誰も悪くはないのだが、ネットによる私生活が“晒される社会”は、あまりにもたくさんの犠牲を生んでいるような気がしてならない。

火山噴火「グアテマラ」の次は…?

2018-06-10

私がここでハワイのキラウエアの“火山噴火”について取り上げたのは5月19日のことだった。その時は、これほど長期にわたって噴火が続き、これほど大規模な破壊や災害になると一般には予想されていなかった。私はその中で火山噴火が「キラウエア山だけではない」と警告もしていた。しばらくは何も起こらなかった。そして胸をなでおろしかけた時、中米グアテマラのフエゴ山が火山噴火した。こちらの方は多数の死者が出た。三つの村が全滅したとも伝えられる。実はあのときの警告で、今後噴火する可能性ある地域として、私はフィリピン&インドネシア&キューバを挙げておいた。それらは比較的赤道に近い“島国”で火山を抱えているからだ。けれども、実際にはグアテマラが噴火した。この国は島国ではなかった。けれども、北米と南米の大陸を繋ぐ位置にあり、いかにも赤道収縮に関係しそうな形状地帯にあった。しかも予告していたキューバに大変近いのだ。日本で言えば韓国のような位置にグアテマラはある。そういう意味では、私の警告は微妙にずれたが正しかった。もし、私の見立てが正しいなら、あともう一ヵ所くらいは火山噴火するだろう。そして、その可能性が一番あるのはフィリピンやインドネシアなのだが、案外、それに近い半島部分の火山から吹き上げる可能性もある。前にも言ったが、日本は赤道から大きく外れるので、その可能性は少ない。そう言えば、昔インドネシアの遺跡を見に行った時、地震と火山噴火とで遺跡の一部が崩れたり埋まったりしていた。イタリアのヴェズヴィオ火山で埋まったポンペイ遺跡も見たことがあるが、完全に掘り起こされ再現された街が“当時の生活”を偲ばせていた。繁栄していた都市が一瞬にして跡形もなくなるのは、或る意味で“神の怒り”を受けたようで怖い。実はグアテマラの大統領はイスラエルの大使館を2000年前からの“神の街”エルサレムへと移動させたばかりだった。

児童を“衰弱死”&“虐待死”させない方法

2018-06-09

東京都の小池知事が、東京目黒で起こった“5歳児童衰弱死”で両親が逮捕された問題を受け、児童相談所の児童福祉司の増員など“相談体制の強化”を打ち出した。そのこと自体は大変に良いことである。ただ今回は東京で起こった出来事ではあるが、このところ全国のあちこちで似たような問題が発生している。東京だけが良くなれば済むという話ではない。全国的に児童福祉司は増員すべきだし、保育園、幼稚園、小学校、中学校まで、児童に対する“生活相談員”というか、“カウンセラー”というか、“悩み”や“問題”を打ち明けられる相手、親身になって相談に乗ってくれる大人は絶対に必要である。児童が保育園や幼稚園に通う前、及び0歳~5歳くらいまでの児童には、地域ごとに“育児監視員”ともいうべき存在の“子育て指導者”も必要である。どうしてかというと、本当は子供を産むはずではなかったのに妊娠・出産してしまう母親もいるからである。そういう方達は、妊娠期間中でもきちんと出産や育児の勉強をしていない。だから、いざ出産した時に、どう育てていくかもわからない場合があるのだ。また、近年多くなったのが、シングルマザーに恋人や内縁の夫が出来た時、幼い児を虐待する傾向のあることだ。再婚して、新たな児が産れた場合にも、そういう傾向がみられる。これらの場合には、児童相談所だけでは対処しきれない場合も多い。各地域の役所と、児童相談所と、警察署とか、それぞれ連携しながら対応していく必要があるのだ。そうでないと、同じようなことが何度も繰り返される。警察署には“児童部門”とでも呼ぶべき部署が必要な時期に来ているような気がする。警察全般で関わろうとすると、どうしても“普通の犯罪”と同じような形で、見過ごしてしまうようなことになりやすい。それぞれの“専門家たち”が連携して、個々の問題や児童に当たっていくようにすれば、“死なせずに済んだ命”と嘆かずとも良いよう変えていけるはずである。

芸人&アイドルに「ニュース」を語らせる危うさ

2018-06-08

“未成年女性に飲酒を勧めた”としてNEWSの小山慶一郎氏が“活動自粛”に追い込まれ、事実上キャスターを降板した。近年、ニュース番組やワイドショーに“芸人&アイドル”がMCやコメンテーターという立場で多数登場している。奇妙なのはフリーのアナウンサーなど山ほどいるのに、そういう人には“ニュース番組”からのお呼びはかからず、“バラエティー”や“グラビア撮影”など関係ない分野からのみお呼びがかかる。その一方で、本来は“芸人”や“歌手・アイドル”であったはずの人が、いつの間にか情報番組のMCとなったり、コメンテーターとして登場する。今では「朝の顔」にも「昼の顔」にも「夜の顔」にも、芸人や女優やアイドルがいる。やはり、その方が視聴率が良いからなのであろうか。確かに芸人のコメントは、それなりに面白い。女優やアイドルの笑顔には“癒し”の効果があるのかもしれない。けれども、それらの人達は、本来の“活躍分野”があるではないか。ニュースや情報番組は、その道のプロに任せてあげないと、映画にも出ている、TVドラマにも出ている、MCとしても出ている、歌手としても出ている…というのでは飽きられやすい。また何か事件に巻き込まれた時、世間は徹底的にバッシングするものだ。そういう時、TV局や番組は本人に味方してくれるのかというとそうではない。あっという間に“切り捨てる”のが常だ。芸人とかアイドルの方達をニュース番組や情報番組に用いた場合、時として“報道の中立性”が保てなくなることもある。例えば、政治報道などの場合、芸人やアイドルは、基本的に番組ディレクターが指示するままのコメントを語るものだ。つまり、自分の考えや意見ではないのに、さも自分の考えであるかのようなコメントを発する。元々専門の立場にはない政治や経済、法律や犯罪に詳しいわけではない。番組ディレクターの意のままに語るのが芸人やアイドルなのだ。或る意味で、それは大衆を誘導するのに都合の良い形でもある。そういう意味では特定の政治思想を持つ人物がニュース番組や情報番組の舵取りを担っている場合、大衆を誘導する番組作りをする可能性があるということだ。そうならないためにも、芸人やアイドルをニュースに起用するのは危険なのだ。

なぜ「宇宙人」はつまらなくなったのか!

2018-06-07

たまに“70年代”や“80年代”の「オカルト」を懐かしく感じることがある。もちろん、現在でも“その手の話”は山ほどあるのだが、あの年代のような“輝き”は感じられない。昨日も、西暦6491年の“未来惑星”からやって来たと自称するジェームズ・オリバーなる人物(?)が、オカルト系ユーチューブチャンネル「APEX TV」に出演。ぼかしを加えた“地球人的容貌”で、ウソ発見器もクリアした話をあれこれと語るのだが、いまひとつ面白くない。なぜだろう。どうせなら、思いっきり“宇宙人っぽいメイク(?)”で登場してほしかった。70年代から80年代のあの頃、宇宙人関連のニュースにはどれも“真実味”があった。そう、あれは“真実味”であって、“真実”である必要はない。今回のように、明らかに“嘘くさい話”など聴きたくないのだ。あの頃、よく聴いた話の一つに「身体に何かを埋め込まれた」というのがあった。実際、私の占いの生徒さんにも、身体に何かを埋め込まれて、それを病院で出してもらった…という方がいた。その方は、宇宙人からのメッセージも自動書記で書いたらしいが、自分では全く読めない文字が自分自身の手でするする書き込まれていくのはとても怖かったと話していた。確かに、私自身も十代半ばに自動書記現象が起こり、手相図を次々と書き始めた。止めようと思っても止められない。鉛筆の芯が折れても次々と書いて行こうとする。あれは本当に怖かった。なぜ、あのような現象が起こったのか、今でもよく分からない。多分、自己催眠の一つではなかったか…と勝手に納得している。なぜなら、その前日に何度も何度も「こういう手相になりますように…」と神に祈りながら、寝たからだ。そう言えば一時期、自分の掌に「手相を描く」というブームがあったが、あれと同じようなことを何十年も前に“眠りの前”に行っていたのだ。ただ実際に描くのではなく、頭の中で“描いて”いた。そうしたら、その思いが強すぎたのか、勝手に自動書記現象が起こってしまったのだ。今回のジェームズ・オリバー氏も、きっと“未来に行くこと”を願いすぎて、あのような“失敗作”となったに違いない。

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