8月, 2018年

「パワハラ」って、何だろう

2018-08-31

私は前から「パワハラ」というものの定義がよく解からないでいる。今年は年初から「スポーツ界のパワハラ問題」が相次いでニュースとなった。相撲界、アメフト界、女子レスリング界、ボクシング界、そして女子体操界…みんな“パワハラ”と“暴力”と“コーチ問題”と“金が絡む権力の構造”だった。そして、マスコミや国民の多くは“弱い者”“力なき者”の方に味方しがちである。確かに、権力を持つ者が“すべてを牛耳っている世界”のように見える。ただ多かれ少なかれ、そういうことは一般社会にもある。もしかすると、マスコミや国民の多くは、自分達も“弱い者”として、日頃から“強い者”に虐げられてきているという実感があり、権力者を突き落とすことに共鳴と快感を覚えるのかもしれない。ただ、今回の女子体操界の問題には“微妙な違い”があるような気もする。告発者である宮川紗江氏は“暴力をふるった”速見コーチのは「パワハラではない」と主張し、逆に“暴力を咎めた”塚原千恵子氏の方を「言葉によるパワハラだ」と主張している。もし、この主張が、そのまま世間に受け入れられると、今後スポーツ界においては“指導する側の暴力”は“師弟関係”においてはOKという捉え方が通用することになり、逆に、それを咎めた場合は“権力によるパワハラ”という観方が通用してしまうことになる。本当に、それで良いのだろうか。確かに、スポーツ界におけるピラミッド構造は良くない。公平・透明な世界が望ましい。ただ“愛情のある暴力”と“指導に名を借りた暴力”の違いをどこで見極めるのだろう。最近、特に「言葉」に対して、ちょっとした言い方でも「許さない」的な傾向が、“弱い者”の方にあるような気もする。それが本当に“正しい世界”と言えるのだろうか。

「家庭的な問題」で悩まされない髪型

2018-08-30

たまたまなのかもしれない。女性の髪型は変化するからだ。けれども時々“見掛ける相”なので記しておくことにした。観相学的な観点から見ると、前髪が眉の下まで達するのは好ましくない。つまり上瞼を隠してしまうとか、睫毛に掛かるとか、そういう感じの前髪は良くないのだ。なぜ良くないかというと“家庭・家族の問題”に悩まされがちとなるからだ。眉に掛かるのは問題ない。昨日、タレント・歌手で元“モーニング娘。”の市井紗耶香氏が「夫が全身麻酔での手術を行い、それが成功して無事退院した」との報告を行った。その時に、掲げられていた写真が上記に記した前髪をしていたのだ。彼女は再婚で、現在の夫は美容師らしい。だから、なおのこと記しておく。前髪は眉毛を隠す程度で止めておいて欲しい。因みに、よく観相学的には「額全部を出すべき」と主張している占い師もいるが、それは誤りである。男性なら額全部を出しても問題ないが、女性で若いうちから額全部を出して生活すると、どうしても“仕事最優先”となるし、家庭的なことがおろそかになる。昔から「能ある鷹は爪を隠す」と言う諺があるように、額を隠した方が、知識をひけらかさずに済む。だから、男性との議論が必要な職場なら別だが、そうでなければ額全部は出さない方が“奥ゆかしい女性”として支持されやすい。女性でも男性と互角に“渡り合う”ような分野、例えば教育関係、営業関係、政治関係などでは額全部を出した方が、“デキル女”を演じられる。ところで“瞼に掛かる前髪”に戻るが、この部位は本来「田宅」と呼ばれ、先祖から継承された土地・家屋を意味する。ここに前髪が掛かると、まず何よりも先祖・親戚・住居に関したことで問題が生じやすくなる。特に既婚女性の場合は、嫁・姑問題など起こりやすい。また遺産相続に関する問題なども生じやすくなる。さらにもう一つ、風水的な問題に悩まされやすくなる。例えば風水的なことが気になって、あちこちインテリアを買い替えたり、場所を入れ替えたりする。親戚間の陰口や揉め事に悩まされたりする。要するに、家庭生活が落ち着かないのだ。よく少女で上瞼を隠したがるケースがあるが、そういう少女は親の忠告を無視し外出しがちとなる。

「ローラ」「ダレノガレ」「ウエンツ」の向こうに

2018-08-29

昨日、タレントのウエンツ瑛士氏がTV番組の生放送で10から日本の芸能界を休止し、ロンドンに留学「ウエストエンドで舞台に立ちたい」という夢に挑戦するという宣言をしたらしい。このところ海外に“新たな活動の場”を求める“ハーフタレント”が多くなった。厳密に言うと、ハーフタレントに限らず、野心の強い芸能人は“世界の舞台”を目指す傾向が強いようだ。既にハーフタレントではローラ氏やダレノガレ明美氏が、その方向で調整している。近年、日本ではハーフタレントが珍しくなくなった。そのせいもあって、ハーフタレントの“立ち位置”も或る意味では微妙である。いくらでも“変わりがいる”からだ。しかも、その一番の“活躍の場”がバラエティ番組だと、どうしても“芸人”と似たような扱いとなる。今や“芸人”“ゲイ人”“外人”は、バラェティ番組では“同じ枠”に収まっている。オモシロければ売れるし、つまらなければ売れない。どういうわけか、ハーフタレントで真面目過ぎる人は日本人受けしないようだ。そういう意味では、ローラも、ダレノガレも、ウエンツも、元々は“オモシロい”部分が受けたのだ。きつい言い方をすれば“それだけ”だった。外貌的に優れていて、どこか“面白い部分”を備えていることが、日本で人気を出す秘訣でもある。ただベッキー氏のように“日本社会における規律”から少しでも外れると、純日本人以上に“激しいバッシング”を浴びる。日本人は、そういう点では決して平等ではない。ただ、その種のことは日本社会だけにあるわけでもない。だから「世界の舞台」を目指すこと自体は望ましいのだが、その挑戦は必ずしも生易しいものではない。日本のようにハーフタレントだからと言って、言葉の不完全さを“可愛い”と甘く受け入れてなどくれないからである。演技や慣習に対しても同様である。日本人は、見た目で純日本人で無ければ、礼儀作法をあまりうるさくは言わない。解からない慣習などは丁寧に教えてあげる。欧米社会にはそれがない。そういう点で、日本社会ほど寛容ではない。スポーツの世界でも、芸能の世界でも「世界の舞台」は“輝かしい栄光”と“とてつもない報酬”が与えられるが、その分“容赦ない批判”や“過酷な序列”も待っているのだ。

自宅で家族を殺害・解体した僧侶

2018-08-28

私の地元、札幌の豊平区と言えば、以前住んでいたところだ。その豊平区で“殺人事件”が起こった。僧侶が自宅で家族を殺害して、それを解体しかけて、疲れ果て我に戻ったのか、誰かに気付かれると観念したのか、解体作業の途中で警察に出向き「自宅に死体がある」と自首したのだ。こうして長岡雅人(60歳)は“死体遺棄容疑”で逮捕された。浴室で“首なし死体”となっていたのは、妻の木の美(58歳)さんと長男の親良(ちから・19歳)くんである。死因は窒息死のようで、つまり、絞め殺して後、解体しようとしたらしい。どうして途中で止めたのかについては、判然としていないが、多分、親良くんに対して何度も電話が掛かってきて、ここままでは気付かれると感じたからのような気がする。或いは、おかしくなっていた頭が正気に戻ったからのような気がする。長男が友達に語ったところでは、地元に帰省してみると、父親の様子がおかしく、殺されるとか、殺しに来るとか言っていて、精神的にまともではなかったらしい。それが伝えられていたことで、逢う予定になっていた仲間たちは、LINEからの反応が突然途絶えた彼に対して心配し、何度電話しても応答しないので不安を募らせていた。そういう中で、彼の父親が自首したのだ。最近、この種の事件が多い。家族が家族を殺す。自宅の中で殺される。本来なら“最後の砦”にならなければならない自宅が、或いは家族が“予期せぬ敵”に変わっている。しかも、今回の事件は、お寺の僧侶が起こしている。その寺に対しては、事件前後に「1週間ほど休みたい」と電話を入れている。そうなると単なる“狂気の犯行”とは言えなくなってくる。精神的におかしかったのかもしれないが、冷静な一面も持っていたのだ。もし、長男が帰省していなかったなら、事件は起こらなかったのだろうか。或いは事件に巻き込まれなかったのだろうか。長男の名は「親良(ちから)」という珍しい読み方の姓名だが、読みようによっては「良い親」とも読める。刑務所の中で、父親である僧侶はひとり読経を繰り返すだろうか。

「運命」の“勝利者”は最後まで分からない

2018-08-27

「内柴正人」という人物を憶えているだろうか。そう“アテネ五輪”と“北京五輪”の両大会で柔道で“金メダル”に輝いた人物である。その後、彼は地元の熊本で九州看護福祉大で女子柔道のコーチとなって指導していた。ところが、2011年の合宿中に、教え子であった十代の女子に対して多量の酒を飲ませて、性的暴行を行ったとして告発され、“準強姦罪”として逮捕された。その後、裁判で最高裁まで争ったが、判定は覆らず5年の実刑が言い渡された。さらに“紫綬褒章”などは取り消され、日本柔道界からは“永久追放”が下された。まさに、転落の一途をたどったのだ。その彼に、手を差し伸べようとする者が受刑中から表れた。神奈川で“柔術道場”を主宰していた山田重孝氏である。それ以前は面識のなかった彼の勧めで、刑期を終えた後、内柴正人氏は山田氏の柔術門下となった。そうして練習している内に、たまたまその道場に通っていたキルギス出身の元柔道家と知り合う。そして、キルギスの柔道男子チームの総監督になってくれないかという話が一気に進む。そこで山田重孝氏も含め、試みにキルギスへと渡って柔道の練習に参加してみた。その中で“やっぱり柔道”という思いが、内柴氏を貫いた。教え方も上手いと山田氏の方も太鼓判だ。こうして、中央アジア・キルギスの柔道男子チームの総監督の話が正式に決まった。内柴氏は事件を起こしたことで、新婚間もなかった妻とも離婚した。けれども、出所後、同じ九州看護福祉大で女子柔道の“教え子”だった女性と再婚した。もちろん、事件とは無関係の女子だ。彼女は、事件の後も、個人的には内柴氏から学びたいと熱望していた女性なのだ。こうして、全てを失った内柴氏だったが、運命は彼を“柔道の世界”から見捨てなかった。何かで、その“世界”から追われながらも、結局、戻って来て大成するケースは稀ではない。「運命」の歯車は、表舞台から裏舞台へ、そうして再び表舞台へといざなっていく。

古書に「命」を与えられるか

2018-08-26

私は時々ネットを通じて占いの古書を購入する。自分が読んでいない占い関係の本で、タイトルが興味をそそるものなら、極端に高くなければ購入する。そういう意味で、主だった“占い書籍”はほとんどの場合、眼を通している。これはもちろん、占いそのものが“好き”だからなのであるが、それだけでもない。世の中に“埋もれていった占い”はないのか、人知れず真摯な研究を遺した占い師はいないか、調べたい目的もある。そうして、そういう「占い」や「占い師」に、いつか“命”を与えてやりたいのだ。世の中に“出して”あげたいのだ。どういう方法で「命」を与えるか、方法としては三つある。その一つは、その“占法”を、或いはその“技法”を、自分自身が実占の場で試し用いることで“命”を吹き込むこと。その一つは、私が自分の著書の中に“その占い”や“占い師”のことを記述して、世に知らしめてあげること。その一つは、やがて私がネットを通じて「占い古書店」を開いて、その中に並べることで、商品として蘇らせること。これらのどれかによって、その埋もれていった“占いの研究”や“占い師の存在”を蘇らせることが出来る。或いは、命を吹き込むことが出来る。おそらく、占いの本を書いて、自分なりの研究をまとめて書籍化しても、それが一般書店の棚に並ばず、世の中から消えていった本や著者の場合、何十年も経ってしまえば、誰もがその占いを忘れていってしまうだろう。実際、そういう占い師が山のように居る。そういう意味もあってたくさんの古書を購入するのだが、本当に“汗と血が滲み出ているような本”は少ない。大抵は“切り貼りされた本”である。つまり、それまでにもある諸説の一つを、まるで自分の発見とか研究でもあるかのように、記述している場合が多い。或いは、確かに本人の研究なのだが、あまりにも自分本位で、世の中に“一般化”させるほどの理論も技術も備わっていない“未完成な研究”の場合も多い。未完成な研究の場合、最初から“未完成”であることを公にして発表すれば良いのだ。そうすれば、誰かが引き継いでくれる。世の中に“占い師”は山ほどいるのに、私から見て、この人物の占いを世に出したい、この占いを後世に残したい、と心から思えるような古書は、まことに少ない。

誰もが「過去」を“引き摺り”生きている

2018-08-25

十代の女性に時々起こるのが“予期せぬ妊娠”だ。家族にも相談できないまま“堕胎”の時期を過ぎる。そうすると、もう出産するしかない。本当は途中で誰かにバレた方が良いのだが、外出も控えるためか、気付かれぬまま“一人で出産”してしまうケースも多い。気付かれぬままの出産は、時として“気付かれぬままの殺人”を招く。当然、その遺体は“弔われるまま”遺棄される。こうして、吉丸伶華容疑者は“三人の児”を自宅で産んでは棄て続けた。そして、“三遺体”を仙台のアパートに残したまま、自分だけ大阪に新天地を求めた。それは最初のうち、成功したかに見えた。恋人も出来、結婚も出来、出産もした。けれども、その頃から、幼児の幻を見るようになった。棄てて来た部屋からの“幻影”に怯えるようになった。こうして吉丸伶華は大阪の警察に自首したのだ。夫とふたり暮らしだった岡崎市の石橋直恵容疑者(68歳)は、夫(75歳)の介護に疲れていた。介護と言っても、夫の病状がそれほど重体だったわけではない。生活に多少支障がある程度で、寝たきりとか、車椅子とか、そういう状態ではない。ただ生活そのものに負担が多くなって、夫と口喧嘩をすることが多くなった。夫は大人しい人だったせいもあり、口喧嘩をすると、なぜかトイレの中に籠城した。その日も、そういう形となって、自分だけ外で食事をした。夜になっても、夫はトイレから出なかった。数日後、もしやと思ってトイレを開けると、夫が便器に座った形のまま亡くなっていた。石橋直恵は怖くなって、その家から飛び出した。そうして親戚の家など転々とした。自宅に戻ることが出来なくなったのだ。やがて、大家から警察の方に連絡が行った。あの部屋から“異臭”がする。住人と連絡を取ろうとしても取れない。こうして警察が住居に立ち入ってトイレを開けると、そこに座ったままの形でミイラ化した石橋誠一氏の遺体があった。この二つの事件は、共に死後ミイラ化したとしても、家族は“家族であり続ける”ことを教えている。放置するわけにはいかないことを物語っている。当然と言えば当然なのだが、弔われていない霊が、母親や妻など家族を頼るのは当然のことで、誰もが、そこから逃れられない。

何が「財産」になるか、誰にもわからない

2018-08-24

芸人「カラテカ」の矢部太郎氏の大ヒット漫画『大家さんと僕』に登場する“大家さん(88歳)”が亡くなったことを、親族の方達の許可を得て報告した。芸人としては何一つ“賞”に恵まれていなかった矢部氏が、この漫画では「手塚治虫賞」を得た。私も少しだけ読んだが、正直、漫画そのもののレベルは素人の域を出ていない。ただ全体にエッセイ風なタッチで、ほのぼのとした大家さんとの交流が描かれる。或る意味では、“家族”とは何か、“世代”とは何か、“幸せ”とは何か、を自然な形で問いかける作風に仕上がっている。多分、その部分が多くの人達に共感を呼んだのだろう。さらに、矢部太郎氏自身が持っている“ひょうひょうとした人柄”も、それにプラスされているかもしれない。この人の場合、その“生き方”としては、決して上手くは見えない。お笑いのセンスがあるようにはとても見えない。多分、芸人としては“脚光”を浴びることは永久に出来ないだろう。けれども、人として、多くの人が“失いかけたもの”を持っている。それに、どこか“放っておけない部分”を備えている。多分、大家さんはそれを見て取ったのだ。だから、さりげなく親しくしようとした。世の中には、放っておいても大丈夫な人と、そうでない人とがいる。そうでない人の多くは“ヘタクソな生き方”をしている。もう少し“上手く生きれば”良いのに…と思うこともある。けれども、その“ヘタクソ”な中に、多くの人が“忘れて来たもの”が置いてきぼりに“残されている”ことがある。そして、その部分に、人は何故か安心したりするのだ。世の中が、どんどん進んで、過去がどんどん走り去って、待ちぼうけを食わされた旅人のように、自分自身さえも“見失いそう”になる時、人はそういう“忘れて来たもの”に価値を見出す。どこか懐かしさを覚えて心愉しくなるのだ。そうして、大家さんは、もう矢部氏に“自分が必要ではなくなった”ことを感じた。ちゃんと、一人歩きできるようになったことを感じた。矢部氏は多分気付いていないが…だから、さよならをしたのだ。

エーゲ海に浮かぶ島で「猫の世話人」

2018-08-23

私は時々、経営者の方から「人は募集はしてるんですけど、なかなか応募がなくて…」との嘆きを聴く。小さな企業の場合、よほどの“良い条件”でも出さない限り、人手不足を補うことはなかなか難しいらしい。ところが、たった一人を募集しただけで3万5000人もの応募が来てしまう団体もある。ところはエーゲ海に浮かぶ小さな島、ギリシャのシロス島だ。ここで活動している動物愛護団体が、この度フェイスブックを通じて求人を呼びかけた。住み込みで働く「猫の世話人」を募集したのだ。海が見える小さな庭付きの一軒家に住み込んでいただき、この島に住む55匹の猫の世話をしてもらう。それだけの仕事。そうしたら、世界中から応募があったのだ。つまり、それだけ仕事にあぶれている人がいるのか、それとも猫好きの人が多いのか。条件としては45歳以上で、今年11月から半年以上、猫の世話ができる人であること。責任感が強く、信頼できる人物であることが条件。永久就職ではない。それでも、自然環境に恵まれたところで、のんびりとした時間を過ごしたい、と考える人は多いらしく、まだまだ応募は増えそうである。確かに、青い海、白い島、それだけでも心が癒されそうである。ましてや猫好きの人達にとっては、猫の世話をするだけの仕事というのは、願ったりの仕事と言えるのかもしれない。私のように“動物が苦手”な者からすると、周りが猫だらけというのは、それだけでちょっと“怖い”のだが、本当に猫好きな人は狭い部屋の中で何匹も飼おうとしたりする。昔、付き合っていた女性は、自分が病気で寝込んでも猫の食事だけは用意しないと…と健気なことを言っていた。四柱命式で「食神」の多すぎる人の中には、ペットのために自分の人生を犠牲にしてしまうような人さえいる。けれども、猫の“眼”は犬と違って“三白眼”や“四白眼”が多い。警戒心が極度に強く、決して心底からは人に馴染まない。気が進まなければ、いつでも人を裏切るのだ。

奈良文化財主任研究員は「偽造紙幣」も研究

2018-08-22

多くの場合、性格と職業とは密接に関わっている。例えば、真面目で研究熱心な人は、そういう性格を必要とする職業を選ぶ。そういう場合に長続きするものだ。ただ職業は合っていたとしても、それで満ち足りた人生を歩めるかというと、そうは限らない。世の中には“対人関係”というやっかいなものがあり、日々の生活には“収入”という財源も必要だからである。つまり、仕事さえきちんとこなしていれば、幸運な人生を歩めるかというと、そうはいかない。奈良文化財研究所の主任研究員であった大河内隆之は、主に仏教美術などの年代測定の研究員として知られていた。ところが、最近は心身の状態が良くなかった。その結果、現在は“休職中”の身にあった。そういう中で、行われたのが“通貨の偽造”であった。彼は休職中ながら、職場に入って仕事で使うスキャナーやプリンターを用いて“紙幣の偽造”を行った。完ぺきとは言えないが、まあまあの出来だった。翌日、市内のデパートへと出掛けて、その紙幣を使って洋服を購入しようとした。もちろん、すぐにばれて通報され、“通貨偽造”及び“偽造通貨行使”容疑で逮捕された。こうして即刻“主任研究員”の肩書を失った。警察が調べると、彼は既に研究使用の高価な職場のカメラを質店に7万円で売りに出していたことが発覚した。これは“業務上横領罪”となる。つまり、彼は金に困って、職場や仕事のものを次々金に換えようとしていたのだった。それにしても、年代測定用のカメラなど、特殊なものなのだから、市内の質店になど入れたらすぐに足が付く。偽造した紙幣だって、デパートのような明るいところで、暇な店内で使用したなら、すぐに偽造と発見されるに決まっている。偽造紙幣は暗くて忙しい店内で換金しなければ上手く行かないものと決まっているのだ。年代測定の主任研究員にしては、あまりにも犯罪が“稚拙”すぎる。よっぽど困っていたのに違いないのだ。もちろん、犯罪は許されるものではない。ただ日本のこういう“地味な研究者たち”は総じて薄給である。彼は50歳だったが、主任研究員という肩書で、どれほどの収入を得ていたことだろう。もう少し、こういう“地味な研究者たち”に対して仕事に打ち込める給与を与えても良いような気が私にはする。

「寂しいから盗む」という“哀しい病”

2018-08-21

近年、一般に知られるようになった“病気”の中には、昔なら“病気”とは考えられなかったようなものも含まれている。ここ20年で急速に増えて来たものの一つが“窃盗”の再犯率である。20年前には12%だったのが、最近は20%に上昇しているのだ。そして、この事実は同時に「窃盗症」という“病気”の増加と深く関わっているらしい。つまり「モノを盗んでしまう」という病気の増加だ。お金がないからではなく、そのものが欲しいからでもなく、或る種のスリルと達成感、そして何よりも“寂しさを紛らわせる”手段として、窃盗を繰り返してしまう。心に傷を持つ病なのだ。アメリカなどでは「クレプトマニア(窃盗症)」として本格的な研究が進んでいるらしい。昨日、この病として処理された一人の男性の裁判があった。長年母親の介護をし、その母親が亡くなって後、うつ病とアルコール依存症になり、約3年前から書籍などを盗む“窃盗症”に変わった。この春にも“執行猶予判決”を受けたのだが、その3日後、再び書籍を万引きしてしまった。「盗みたい」という気持ちが罪悪感より上回ってしまうのだという。彼は、今後は施設に入所する形で治療を受けることになるらしい。少子高齢化の日本は、これからますます“孤独な人達”が増えていく。長期的に介護を行う人も増えていくし、この病気と重なり合うことが多い“うつ病”“依存症”“摂食障害”の人達も増えていくに違いない。それらの“最終形”として「窃盗症」があるのだとしたら、人は何よりも“寂しさ”に弱い生き物だということだ。本当は周りの人達と“心が繋がっていたい”のに、誰とも本当の話は出来なくて、背負うものばかりが大きくなっていき、その重さにひいひい呻きながら人生を歩み続けている。そういう人たちのなんと多いことだろう。本当は皆な“寂しい”のに、寂しいそぶりも見せず、独りになって、もう一人の自分に“しょうがないね”と呟いている。みんな同じなのに、それを分かち合うこともできない。いつから、そういう“世の中”になってしまったのだろう。

将来が心配な「バール振り回す女子高生」

2018-08-20

「彼氏を絶対許さない」と女子高生は捜査官を見据えた。住居侵入と器物損壊で緊急逮捕された17歳の彼女の眼は燃え滾ったままだった。取調室で向き合いながら、容疑者からの調書を採っていた捜査官は、被害者男性が「もう別れている相手です」と怯えたような表情で証言していたことを思い出す。19歳の被害者男性宅には既に別な女性がいた。そういう点では女子高生の言う“恋人同士”だという言い分は通用しない。仮に“恋人同士”だったとしても、早朝、相手住居のベランダへ無許可侵入し、バールを使って窓ガラス2枚を割り、部屋の中に乗り込んでいったのだ。これは、どう考えてもまずい。最近は、暴力団だって、そういう手荒なことはしない。ところが彼女は、インターホンを何度押しても部屋を開けてくれないから、仕方なくベランダ側に回ったら、女性の姿が見えたので許せなくなって乗り込んだのだという。気性の激しい女性の典型だった。百歩譲って「別れる」「別れない」の状態だったとしよう。新たな女性の姿が見えて“許せない”と思ったのなら、電話かメールで、それを問いただせば良いではないか。大体、極端に嫉妬深い女性と浮気っぽい男性とでは長続きできない。組合せとして無理なのだ。いったん、よりを戻しても、いずれは別れる。私は占い師として、そういうケースを沢山見てきた。気が強くて嫉妬深い女性には“別れ”が多くなる。それにしても17歳と19歳の“恋物語”に“バール”が登場するのは良くない。こういう女性は“接客的な仕事”をしない方が良い。事件に巻き込まれやすいからだ。付き合う場合も“接客業の男性”は避けた方が良い。そうでないと同じ間違いを繰り返しやすい。真面目な会社員と結婚して、すぐに子供を産むと、子供の方に愛情が移るので恋愛トラブルを避けられる。

旧暦「七夕」は、やっぱり“手書き”

2018-08-19

近年、中国は急速な勢いで“IT王国”に変わった。どこでもスマホ決済が当たり前になり、タクシーアプリを使うのが当然になりつつある。そんな中国で、意外に進んでいないのが“婚活事情”だ。もちろん、それは中国だけでなく、日本も韓国も同様なのだが、中国の場合には元々“一人っ子政策”で男女の比率が異なるだけに、より深刻と言える。そこで“親たち”の登場となる。旧暦の「七夕」に当たる昨日、北京では親たちによる“婚活”が行われた。広場に集まって、それぞれが“手書き”による「花嫁募集」「花婿募集」のアピール合戦だ。主催者側が用意した紙に“手書き”で自己紹介を書く。それを見て気に入った相手がいれば、その親に直接交渉するか、又は“連絡先”に電話やメールを入れるかなのだが、興味深いのは必ず“身長・体重・年齢・住所・職業”を記載してあることだ。まるで企業に応募するような記述なのだ。ところが、企業の展示会と違って、なかなか“交渉成立”している親たちは少ない。特に女性の場合には相手男性に対する“条件”が厳しく、なかなかそれに“見合う相手”を得られないのだそうだ。結局、親たちは立ち尽くしたまま時間を過ごし、すごすごと引き上げていくケースが多い。北京や上海のような都会に暮らす女性の場合、周りに“高収入”で外貌的にも教養的にも優れている男性を見慣れているせいで、男女比率では圧倒的に女性優位なのに、なかなか結婚相手を得られない場合が多い。そう“見慣れる”ということは、或る意味で危険なのだ。条件的に“良いもの”を見慣れてしまうと、ちょっとしたマイナスポイントでも見逃すことが出来なくなってしまう。「結婚」というのは“最良”を択ぶゲームではなくて、“適応”な相手を択ぶゲームなのだが、その点を勘違いしがちなのだ。こうして、本来からすれば“結婚できる条件”を備えながら、独身のまま経過していく男女が増えていく。日本でも“生涯未婚率”はどんどん高まっていて、2015年の統計だと男23.4%、女14.1%の数字が出ている。1970年には男1.7%、女3.3%だったというのが信じられない。何でも“最良”を求めすぎてはいけないのだ。

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