10月, 2018年

時代は「65型4K液晶」9万なの⁈

2018-10-07

家電製品の“日進月歩”は素晴らしい。時々、時代の変化に「ついて行けない」と思うこともある。なんとテレビは今や“55型”や“65型”が当たり前になりつつある。そして“4K”という高品質映像も当たり前のようだ。さらに一番の驚きは価格が安いということだ。このほど発売される“65V型4K液晶テレビ”は9万4500円…10万円を切るのだ。なんという安さ。我が家のテレビもそろそろ“切り替え時”ではないか。ただ我が家のテレビの良いところは“録画一体型のテレビ”だという点だ。こういう面倒くさくないのが良い。何でもそうだが、面倒なのは嫌なのだ。42型のテレビは1か月前の地震でも倒れなかった。テレビを設置してもらう時、お願いして接着してもらったからだ。あの時一瞬迷ったが、今になってみると倒れないで良かった。ベランダ側に倒れるとガラスにヒビが入っただろう。ところで、この10万円を切るテレビ、通常の家電量販店では買えないらしい。アマゾンなどの“直販”なら購入できる。問題はちゃんと設置までしてくれ、その後も問題など生じたときに対応してくれるかだ。訊かなくても慎重な妻の回答はわかっている。オプトスタイルなどという聴いたことのないメーカー品に手を出すはずがない。けれどもパナソニックなどのメーカー品は、ほぼ同じ製品が20万以上する。半額以下なのだから、その辺は目を瞑らなければいけないところかもしれないのだ。それにしても昔だったら60万とか80万とかした65型4Kテレビが10万を切るようになるとは、時代も進んだものだ。こういう風に、やがて“AI全自動運転の車”も安くなっていくのだろうか。15年くらい後には100万を切る価格になっていたなら誰もが購入できる。だが、それらを購入したからといって幸福になるわけではない。先進国の科学は間違いなく生活を便利にしたし、ゆとりのあるものに変えた。けれども、それで“幸せ”が手に入ったかというと、そうではなかった。心身の病は決してなくなるわけではないし、むしろ増えている。人々の心は“何もなかった頃”ほど大らかではない。人と人との関係が“何もなかった頃”ほど、繋がっていないような気がするのだ。携帯電話やラインで“繋がり”は増えたのに、“心”と“心”はどんな家電もITも結び付けられない。

止まったままの「誕生日」

2018-10-06

その人との関係がプツンと切れると、人は誰でもその人と最後に逢っていた映像で記憶に残す。そして時間がそこで止まる。何年経っても、何十年経っても、その人は「あの時」のままである。こうして多くの人は“愛する人”を記憶にとどめている。「めぐみ」さんを北朝鮮に拉致された横田早紀江さんの中で娘の誕生日は54年目なのだが、映像は13歳のままである。だから、彼女が逢いたいと想うのは、戻って来てほしいと思うのは、中年を過ぎた娘ではなく拉致された13歳の娘なのだ。言葉少なに昨日、横田早紀江さんは54歳になっているはずの“娘の誕生日”にコメントを寄せた。82歳になった今、一時期ほどの活動力はもうない。体力が許さない。それに、一緒に活動していた夫の滋氏は入院中なのだ。もう十分すぎるほど手は尽くした。その講演回数は1400回を数える。熱心なクリスチャンでもある彼女は、おそらく神に対しても毎日祈り続けたことだろう。それでも、無情なままに月日は過ぎた。2002年の時、突如、横田めぐみさんの娘だというキム・ヘギョンさんが出現する。この時、ヘギョンさんは14歳だった。つまり“拉致された娘の年齢”と一つしか違わなかった。その“孫”は泣きながら「祖父母に逢いたい」「一緒に暮らしたい」と言った。けれども横田夫妻は北朝鮮まで行って逢おうとはしなかった。周りの拉致被害者たちが、そこで“幕引き”になることを恐れたからだといわれる。それから12年が経って、今度はモンゴルという第三国で、すでに結婚し、出産して“赤ちゃん”を授かったヘギョンさんと横田夫妻は逢うことが出来た。なぜかそれ以降、横田滋氏の口が重くなった。或る意味で、孫とひ孫に直接会えたことは、この上ない喜びであったはずだ。けれども、娘と逢えたわけではない。また、逢えたといっても、一瞬にすぎなかった。孫とひ孫に会えたことが、その一方で哀しみを増幅させたかもしれない。運命学的には、もし、ヘギョンさん14歳の時、彼女を日本に迎え入れて“事実上の娘”として育てれば、横田夫妻は幸せを半分取り戻せたかもしれない。孫を娘のように傍において育てている夫婦はたくさんいる。けれども、横田夫妻は“本物の娘”にこだわった。私にも、もう15年ほど逢っていない娘がいる。たまに夢に出て来るが、決まって記憶に残る少女姿である。ところが実際には、もう27歳のはずだ。私は冷たいのか娘の誕生日も忘れがちだ。向こうも似ているのか、冷たいもので年賀状さえ来ない。

いっせいに飛びつき、いっせいに引く

2018-10-05

いつだってそうなのだ。日本のマスコミ報道というのは“横並び”でしか動かない。10月1日、日本のマスコミはノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑氏をいっせいに報道した。もちろん、ノーベル賞の受賞なのだから、いっせいに報道するのは当たり前である。ただ加熱したマスコミは本人がそのようには言っていないのに、彼の発見はがん患者に対する“究極の治療法”の新薬として結実したかのように報道した。特にワイドショーなどでは、その新薬「オプジーボ」が“がん患者の命を救う”かのような形で紹介されたりもした。もちろん、全国のがん患者がこれらの報道に反応したのは言うまでもない。それを用いれば、自分のがんも治るのではないか、そう単純に考えたとしても無理はないのだ。ところが、この“免疫療法”はそれほど単純なものではなかった。患者たちからの反響の大きさに戸惑ったのは医療関係者たちだ。誰にでも投与できる薬ではない。どのがんにも効く薬でもない。副作用も懸念される薬だった。つまり“がんの万能薬”などではない。マスコミ全般に対して種々な方面から“誤解を生じやすい報道”もあることが指摘された。それまで“夢のがん治療薬”のように報道してきたマスコミはいっせいに押し黙った。もちろん、免疫細胞にブレーキをかける「PD-1」の発見と、そのブレーキを外す研究はノーベル賞に値するものである。けれども、マスコミはもう本庶氏報道には過熱しないような気がする。実際、それ以降のノーベル賞に関しては簡素に紹介するだけだ。私は9月22日に《15人のうち7人のがん細胞が消えた》というタイトルで、本庶氏とは異なる「光免疫療法」というものがあることを述べた。詳しくはそちらの内容を見て欲しいが、副作用というものがなく、短時間で済み、高額な医療費ともならない。おそらく、こちらの方が“夢のがん治療法”なのだ。しかも、この方法のもっとも良い点は本人の免疫力が戻るので、再発しにくいことである。がんで亡くなる人が相次いでいる昨今、一日も早く正式認可され実用段階に辿り着くことが望まれる。

誰を意識しながら仕事をするか

2018-10-04

NHKからフリーとなり現在は日テレでニュース番組を担当する有働アナが10月2日出演のタモリにアドバイスを求めた。それに対してタモリ氏は「見ている側に立って何かをやることはほとんどない、自分が面白いからやっている」と答えた。有働氏は「27年ずっと視聴者の側に立ってきた…自分が面白いかどうかわからない」と困惑気味だった。お二人の仕事に対する姿勢は“正反対”なわけだが、おそらく、どの仕事であれ、その“どちらかの側”に立つ人たちが多いに違いない。私は“直接鑑定”“メール鑑定”“電話鑑定”と三つの形を持っているが、これらに関しては基本的に“相手の側”に立って仕事を行っている。つまり、その依頼者の場合は、どういう方向へ向かえば幸せを掴めるか、幸運な人生を歩めるか、後悔しない結果を招くか、そういう意識の元に仕事をしている。まあ仕事の性質から言って当然だともいえるが、占い師の中にはその“進むべき道”を押し付けるようなタイプも多い。私は基本的に“人生は自分で選ぶべきもの”だと思っているので、方向性は指し示すが、押し付けるようなことはしない。私の仕事の中で比較的“自己中心的”に進めていくのはブログや書籍など“書く方の仕事”である。これらは読み手をあまり意識していない。自分が描きたいように書く。いや、より正確に言えば、自分だったなら“こういうものを読みたい”と思うことを書く。一般の人達が読んだときに、どう思うかということはほとんど気にしない。私は基本的に同業者のブログなどはほとんど読まない。正直に言えば興味がない。ただ、もし私が書くような内容に近い“占い雑記”や“占い記録”を書いている人物がいるなら、ぜひ読んでみたい。どんな占いでも良いが、プロ占い師が読んでも“大いに役立つ”と言えるようなブログである。但し、専門技法だけを自分たちに判る言葉で並べているのはごめんだ。すぐに“大昔の人物”を持ち出す人もごめんだ。ところが調べ方が悪いのか、私はそういう「師」として頼れる占い師を残念ながら知らないのだ。もし、私にとって大いに参考となりそうなブログや勉強になりそうなブログがあったなら、ぜひ教えて欲しい。

2018年10月の運勢

2018-10-03

「エロい眼」で見ることの方が問題

2018-10-03

最近はさまざまな人達がさまざまな形でブログやインスタグラムを更新する。そのせいでTVやマスコミに出ていなくても、予期せぬ“炎上”と言う形で話題になるタレントも多い。SNSによる“発信力”がスポンサーを生み、それが“収入”につながることもあるのだから、或る意味では見てもらうための手段として、自ら“炎上を仕掛ける”ケースもあるような気がする。今、ネット上で叩かれているのはクワバタオハラ・小原正子氏のブログだ。何が叩かれているのかというと、子供達と一緒に“お風呂に入る画像”であるという。つまり、裸で入っている写真を載せたことが「気持ち悪い」とか「叶姉妹じゃないんだから…」とか「母親だったら子供のことを考えろ」とかいう具合に批判されているらしい。正直、よく意味が解らない。そこで問題のブログを見てみた。ただ単に母子三人が狭い浴槽内に居る写真だ。この画像のどこが問題なのだろう。もし、問題があるとすれば、彼女は“セミヌード写真集(?)”らしきものや“美容本(?)”らしきものを出していて、それらもブログ内に画像を載せているので、その“宣伝的な意味合い”の強い写真と見れないこともない。あえて“炎上”を誘って、それによって本にも興味を持ってもらい、購入してほしいという意図があるのかもしれない。もし、批判されるとすれば、その“あざとさ”が批判の対象となるくらいで、少なくとも、上記に記したような意味での批判はまったくの“的外れ”のような気がする。大体、風呂に入る写真を載せるのに、洋服を着たまま入っていたらおかしいだろう。叶姉妹と比較するのは、次元の異なる話で、小原正子氏だけでなく叶姉妹にも失礼だ。大体、同じ“ハダカ”といっても、こういう日常的な“ハダカ”にエロスを感じる方がおかしい。どこにもエロい部分などない。むしろ、なぜ本人が胸の部分をぼかしたのか、その意図の方が気になる。つまり、本人も、このような“つまらない浴槽写真”に“エロさ”を意識しているということなのだろうか。もし、そうだとしたなら、あまりにも悲しい。自分のハダカを売り物にして、しかも子供まで道ずれにして、そんなに多くの人から見られて“炎上”させたいのだろうか。男の芸人でも“ハダカ”を売り物にしての芸は長続きしない。このような“中途半端なハダカ”を売り物にするなら出さない方が良い。もし、そうではなく、純粋に“子供達との楽しい時間”として載せたのなら、誤解を生むような“ぼかし”など入れずに、もっと大らかな形で発信すべきである。

どこか共通性がある片山さつき氏と舛添要一氏

2018-10-02

男女というのは“わからないもの”で、一見、何も共通性がないような2人が結ばれたりする。例えば、過日亡くなった樹木希林氏、彼女の夫は言わずと知れた内田裕也氏だが、通常なら“お似合い”とは言えない夫婦である。ところが、これが最後まで“夫婦”のままだった。まるで“深く愛し合っていた”かのように報道された。それは多分、どこかに“共通性”があることを誰もが感じていたからなのだ。そうでなければ40年間別居していた夫婦の愛情など“きれいごと”以外の何物でもない。同じように“不似合い”なまま結ばれ、すぐに別居し、やがて離婚した夫婦に片山さつき氏と舛添要一氏がいる。もう30年以上前の話で、しかもお二人とも“再婚”しているのだから、もはや“他人の二人”なのだが、妙に“セット”となってのイメージが浮かぶ。つまり、この2人にも、どこかに“共通性”があるのだ。だから、どちらかに“何か”があると、つい想い出される。その片山さつき氏はとうとう新しい安倍政権への初入閣が決まったらしい。おめでたいことだ。ところが、ネットの反応を見ると、過去の発言に対して“厳しい意見”が並んでいる。ファンも多いが敵も多い。そういう点でも舛添要一氏に似ている。この二人、共に頭脳優秀で仕事は出来るのだ。TV番組に出ても常に堂々と自説を述べる。ところが“弱者に対する配慮”というのが、やや欠けている。元々二人ともエリートで挫折をあまり経験していない。少なくとも、そうみられやすい履歴の持ち主なのだ。そういう人は、なおのこと“やっかみ”や“ひがみ”を受けやすい。だから政治家となった場合には、慎重な発言や行動をしなければならない。片山さつき氏は参議院選挙に初めて立った時、それまでは常にブランドのスーツで固めていたのに、いきなりユニクロのTシャツに変え、ヒールだった靴をスニーカーに変えた。頭を下げたことがなかったのに、頭を下げ続けた。そういう豹変ぶりも、どこか“政治家的”であった。舛添氏の方も、急に“介護問題”を叫ぶようになったと思ったら、自分の親に介護が必要な状態になってのことだった。お二人とも政治・行政に向いた才覚を持っていることは誰もが認める。片山さつき氏は日本では数少ない“政治家向きの女性”だけに、本業以外の部分で“潰れて”欲しくない。そういう意味で“慎重な発言”を肝に銘じて頑張ってほしい。

「国宝」が逃亡犯を捕まえた

2018-10-01

人にはそれぞれ“こだわり”というものがある。なぜ“それ”にこだわるのかは、本人にしかわからない。その代表的なケースが、一ヶ月半以上もの間、逃走し続けた樋田淳也容疑者の“入れ墨”である。彼はふくらはぎの部分に“打ち出の小づちを持つウサギの姿”を彫っていた。この奇妙な入れ墨は、実は国宝に指定されている「鳥獣人物戯画」に含まれている画像なのだ。この鳥獣戯画自体が“謎の国宝”で、だれが何の目的で描いたものなのか、未だに判らない。したがって、その一部を彫り込んだ人物の気持はもっとわからなくて当然ともいえるが、結果的に“その画像”が樋田容疑者逮捕のきっかけとなった。実は「道の駅」で捕まえた補導員も、通報されてやって来た警察官も、逃走犯として全国に指名手配されていた樋田容疑者とは気付いていなかったのだ。単なる万引き犯として、大人しくしていれば“情状酌量”となった場面だったのだ。ところが“強引に逃げようとした”ので警察に通報されることになった。やって来た警察の方も、ただの万引き犯として少し署内でお説教してから帰そうか…という雰囲気でしかなかった。ところが、樋田容疑者は執拗に手指でふくらはぎを隠した。だから警察官は怪しんだのだ。その手指をどけさせると“特異な入れ墨”が表れた。それで「ひょっとしたら…」ということになったのだ。もし、樋田容疑者が自ら手指で執拗に入れ墨を隠さなければ、逮捕になど至っていなかったのだ。それは、あまりにも手配写真と現在の本人とが違っていたからだ。いつも思うのだが、手配写真というのはかえって“逆効果”になる場合が多い。逃げ続けていた樋田容疑者は真っ黒に日焼けし、写真とは別人の容貌に変わっていた。だから気付かなくて当然だったのだ。多分、ふくらはぎだって日焼けして、よくよく見なければ“打ち出の小づちを持ったウサギの姿”だと分からなかったに違いない。樋田容疑者は自らを“隠そう”として、反って“自分が樋田淳也だ”と告げていたようなものである。それにしても“打ち出の小づちを持ったウサギの姿”はあまりにも特殊で、特定の“決め手”となる。彼はどうしてそんな「国宝」を自らに彫り込もうと思ったのだろう。単にウサギが野原を駆け抜ける画像にしておけば、逃げ続けられたかもしれないのに…。

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