6月, 2019年

「性的虐待」からの「安楽死」は正しいか⁉

2019-06-06

もし、同じようなことが日本で行われることになったなら、マスコミや世論はどう反応するのだろうか。そう考えずにはいられない出来事が6月2日、オランダで秘かに実行された。17歳の少女ノア・ポートベンさんが、過去の性的虐待やレイプの記憶から逃れられず、心的外傷後ストレス障害=PTSDを発症、さらに“うつ病”や“拒食症”まで併発し、生きる気力を失って「安楽死」を選択したのだ。彼女からの要請を受けたオランダの専門医は、彼女の権利行使を妥当と判断して「安楽死」の薬剤を与えていた。彼女は、自らのインスタグラムの中で数日中に安楽死すると予告し、その予告通り6月2日に自宅リビングで実行したのだった。つまり、彼女はきわめて合法的に「死」を選択した。「一時的な衝動なのではない」と彼女は述べている。確かに、そうなのかもしれない。それでも、その選択は「正しいことなのか」と問いかけてしまう。医療上のシステムとして、オランダでは2001年から「安楽死の権利」が認められるようになった。日本人の多くも、それを知っている。ただ、だから“正しい選択”だといえるのだろうか。亡くなった彼女は自伝的作品を出版している。それによれば11歳の時に性的虐待を受け、さらに14歳の時にレイプされた。その結果、PTSDを発症して、その苦悩・苦痛から逃れられなくなった。彼女は「安楽死」を「何年も戦った末の選択」だと記述している。そして安楽死の可否を決める専門医も、彼女の判断を「妥当」とした。その“耐えがたい苦痛”から医療的には「逃れる術がない」と結論付けたのだ。本当にそうなのだろうか。少なくとも、彼女の病気の根底にあるのは「現在の事象」ではない。「記憶」の部分のみである。もし彼女の頭脳から、その記憶だけを消すことが出来れば、苦悩からも解放される。そうだとすれば、彼女はまだ17歳である。今後の医薬の発達によって、或いは医薬ではなくても、精神医学とか、宗教とか、呪術とか、催眠療法とか…何かが発見できるかもしれない。特に高度な催眠療法が可能なら、その部分だけの記憶を消して、哀しみや苦悩を消して、生まれ変わらせることは可能だったのではないだろうか。運命学的には、彼女の才能とか資質を見極め、その部分に意識を集中させることで、少なくとも“生きる気力”は取り戻すことが可能だったような気もする。もちろん「安楽死」を選択した彼女を責めることは出来ない。けれども、何かしら、その選択が「正しかった」とは言えない私がいる。

「美穂」と「スズキ」の“ハダカ”の勝負⁉

2019-06-05

中々ユニークなストーリーだとは思うものの、果たして2019年の今“こういう映画”が世間に受け入れられるのだろうか、と考えてしまった。それが松尾スズキ氏が監督・脚本・主演する「108~海場五郎の復讐と冒険」という作品で、この映画で彼の妻役を演じるのが中山美穂氏だ。彼女演ずる「妻」は“不貞を働く”ことで離婚という筋書きなのだが、法律的に財産の半分は“妻にも権利がある”という部分が主人公には納得いかない。どうして不貞されたのに財産を分け与えなければいけないのか。そこで彼は、或る結論に辿り着く。財産を使い切ってしまえばいい。そして、そのお金で“自分も不貞を働けば”平等(?)になる。こういう“奇妙な発想”を実行化していく過程を描いたのが「海場五郎の復讐と冒険」のようである。当然のことながら、この映画で「妻」となる中山美穂氏は“ハダカ”となる。そういう役どころなのだから当然である。しかも、本人の方から望んだ役どころであるらしい。かつて“風邪薬のCM”で清潔感が印象に残った中山美穂氏ももう49歳。“ハダカ”で客を呼べる年齢ではない。この映画は一応“復讐劇”であるから、彼女以外にも多数の女優陣が“ハダカ”となる。よって「R18」の指定作品だ。主演の松尾スズキ氏も、当然ながら“ハダカ”となるが、彼はこの映画を完成させることに必死で“金を使い切り”文字通り「裸」となった。それでも製作費が途中で不足し、駆けずり回って5年という歳月を要したそうだ。「5年間をかけた大作」と言えば聞こえは良いが、要するに“お蔵入り”するかギリギリの制作費の中で完成までこぎつけた作品のようである。まあ、そういうわけで松尾スズキ氏も中山美穂氏も“ハダカで勝負”している作品であり、その中身も文字通り“裸になっていく”内容で、懐に余裕のあった“バブル期”であれば大ヒットしたかもしれない映画なのだが、この“経済の見通し危うい”現代において、今秋に公開予定だが果たして“お寒い状態”にならないことを願うばかりである。

「同性愛を治した」という大統領の発言⁉

2019-06-04

フィリピンのドゥテルテ大統領というのは、その“見た目”も“行動”も“発言”も、なかなかにユニークである。その彼が先週、来日していた時の発言の中で“大いに問題となる発言”があったとフィリピンのオンラインメディア「ラップラ―」が伝えている。それは最近、彼の政権を脅かす存在になりつつあるアントニオ・トリリャネス上院議員に対して「彼の身体の動きは見るからに同性愛者だ」と揶揄するように断定。続けて「自分はかつて同性愛者だったが、自分で治した」と言ったらしい。う~ん、どちらの発言も問題だけど、どう見てもそんな風には見えないが…。百歩譲って、そうであったとして、どうやって、自分で治すのか。というか、治るものなのか。それに、もし自分自身がかつてそうであったのなら、そういう人達を揶揄できるものだろうか。いろんな意味で、疑問がいっぱいだ。彼は、こうも発言したらしい。「元妻のエリザベス・ジマーマンに出逢うまでは同性愛だった」ということは、この元妻が彼の同性愛を「治した?」ということで「自分で治した」という言葉とは矛盾するような…。ところが、彼は結婚後に治った(?)せいなのか「浮気をした」ということで、夫人の方から離婚されている。離婚後はどうかというと、入籍はしていないが内縁の夫人がいる。もちろん女性で25歳も年下だ。その夫人との間にも子供も居る。「治す」とかいう以前の問題として、彼は本当に“同性愛”だったのだろうか。確かに彼は、大統領になる以前は“同性愛”を認める法律を導入すると発言していた。ところが、大統領になってからはコロリと変わって「今や男にも女にもなれるからジェンダーはない、というのはアチラの文化だ」と、真っ向から否定している。「司教どもはろくでなしだ、連中の大半はゲイだ」と差別発言が目立つ。もう少し、ものの言いようがありそうな気がするが…。まあ客観的に見直すと、若い頃は「いろいろ体験した」というのが本音のような気がする。とにかく、良くも悪くも、政治家らしいといえば政治家らしい。“麻薬撲滅”に対してもそうだが、自分の地位・立場を脅かす者は徹底的に叩きのめし容赦しないという点で、確かに「フィリピンのトランプ」なのだ。

「破天荒な生き方」を貫いた“横山やすし”

2019-06-03

「漫才師・横山やすし」と言えば、その相方だった「西川きよし」氏しか思い浮かばない。ところが、彼を「師匠」と仰ぐ漫才の「横山たかし」という人物がいたらしい。1994年には「たかし・ひろし」のコンビで「上方漫才大賞」も受賞している。その横山たかし氏(70歳)が、6月1日に多臓器不全で亡くなった。そのことがニュースになって、はじめて私は横山やすし氏に“愛弟子”がいたということを知った。あのような人物でも「師」と仰ぐ人物がいたことを知って、世の中“見捨てたものではない”となぜか思った。今は横山やすし氏が亡くなってかなり経つので、或る意味“伝説の人物”として受け入れられているが、そのあまりに「破天荒な生き方」は世間やマスコミから“猛バッシング”を受け続けていた。私には少し“天邪鬼”なところもあって、世間やマスコミから猛バッシングを受け続ける人物を見ると、可哀想に…と同情したり、もう許してやれよ…と抱きしめてやりたくなったりする。そういう私でも「こいつは面倒見切れないなぁ」と思ったのが、横山やすし氏だった。あまりに“喧嘩っ早い性質”を治さないと、“敵”ばかりを増やしていってしまう。そういうところが垣間見えた。TVの生放送でも“一触即発”の口論はしょっちゅうで今でいう“切れキャラ”なのだが、元々がやせぎすでいかにも神経質に見える。毎日、散髪に行って、ほんの1ミリでも違うと駄々をこねたらしい。もう少し“大らかなところ”があれば、“切れキャラ”を演じることが出来て、もっと支持が広がっただろうに、作った“切れキャラ”ではなく、本物の“切れキャラ”なのでたちが悪い。あっちこっちに敵を作って周りを常にはらはらさせるタイプだった。警察にも何度も捕まり、そのたび謝罪会見も開いていた。まあ、昔の「芸人」の風情を残していた最後の人物だったのかもしれない。今なら、すぐに猛バッシングされ、世間から総スカンを打って二度とTVやマスコミに出られなくなる。実際、彼は若死をしたが、その方が時代的には良かったかもしれない。今だったら、とても再起などさせてもらえないからだ。ただ、そういう人物でも“受け入れていた時代”の方が、活き活きと感じられるのはなぜだろう。結局、コンプライアンスに引っ掛からない芸人やタレントばかりになると、世間の顔色を窺うことばかり言うようになる。要するに、当たり障りのないことを言って、批判されないようにしようという人物ばかりの“世の中”になる。芸術作品でもそうだが、批判の出ないような作品は大体つまらない。ところが、そういう作品ばかり、そういう人物ばかりにスポットライトが当たって、時代の波というか、大きなうねりというか、そういうものが見逃されていく。そういう社会になってほしくない、と思うのは私だけなのであろうか。

「引きこもり」と「孤立無援者」の微妙な違い

2019-06-02

川崎で起こった「19人殺傷事件」と昨日の午後起こった「元官僚の息子殺人」とは、共に“引きこもりの人物”が関わっている。一方は殺傷の加害者であり、一方は殺人の被害者である。加害者の方は50代で、同居していたのが80代の親戚。昨日の被害者の方は40代で、同居していたのは70代の両親だ。このような家族構成の時に問題が発生しやすい。それは30代くらいまでは子供が“引きこもり”状態でも「仕方がない」と傍観していた親達が、徐々に自分達も高齢化してくることで「何とかしなければ…」という気持ちが強くなるからだ。内閣府の調査によれば、中高年(40~64歳)の“引きこもり”は61万人を超え、青少年(15~39歳)の“引きこもり”54万人を上回っている。もはや“引きこもり”は「若き挫折時の姿」などではないのだ。運命学的な観点からいうと、世の中には最初から“引きこもりやすい生れ”の人達がいる。まずは先天的に“心身の病気や障害”を持って生まれている場合。これは必然的に“家中心”の生活となる。次に知能的に社会生活が難しい場合。さらに、性格的に“社会不適合”の場合。これは“完全不適合”と“やや不適合”の人とが居て、“やや不適合”程度であれば、仕事や職場さえ吟味すれば、普通に社会人として生活できる。つまり、一時的に“引きこもる”ようなことがあっても、本人さえその気になれば、いくらでも“引きこもり生活”から脱出できる。“完全不適合”の場合は、適応する仕事を見つけて“独立自営”で生活できれば、他人から見れば“引きこもり生活”であっても、社会的には何ら問題がない。仕事ができるということは、それがどのような仕事であれ、社会性が身についているということで、決して「孤立無援者」にはならない。“引きこもり”が事件と重なりやすいのは、時として「孤立無援者」ともなりやすいからである。仮に親と関りがあっても、自ら“対話を拒否”しているような場合、家族と一緒でも実質的には「孤立無援者」に属する。そういう場合に、自暴自棄となって“予期せぬ衝動”に駆られて事件を引き起こすなどしやすいのだ。したがって、仮に5年以上の“長期引きこもり”であっても、家族との交流や対話が常になされているなら、社会性という点に関しては何ら問題がない。状況さえ改善すれば、必ず“引きこもり”から脱出できる。親など家族とも完全に遮断した“引きこもり生活”を続けている場合は、基本的に「孤立無援者」となりやすく、何かのきっかけがあれば“予期せぬ事件”を引き起こす可能性はある。したがって、そういう“引きこもり”の人達には、本当は運命学的な観点から「どう生きれば良いのか」伝えてあげることが必要なのだ。ほとんどの場合、社会的な「突破口」というものは有るもので、あまりに年齢が行ってしまった場合や、本人が気力を失ってしまっている場合は別だが、時期さえ誤らなければ、予想外のヒントで“引きこもり”からの脱出は可能なのだ。

2019年6月の運勢

2019-06-01

「SNS」は世界から「自由」を奪った

2019-06-01

現代人で広義の「SNS(ツイッター、フェイスブック、インスタグラム、ラインなど)」に関わりなく生きている人は稀であろう。或る意味では、それらを無くしてしまうと“生活”自体が成り立たなくなるという人さえいる。21世紀の世の中において、それはもはや“生活用品の一部”となっているが、その弊害も決して少なくはない。その一つは、世界から本当の意味での「自由を奪った」という点にある。SNSの普及によって、今起こっている出来事やニュースが瞬時に「世界」に伝わるという“利点”もあるのだが、同時に“一つの基準”が「世界」にとって“絶対”であるかのような錯覚も生み出しつつある。つまり、個々の“天然な個性”や“自由な生き方や考え方”というものを制限しがちな傾向があるのだ。例えば過去に「ハラスメント」と呼ばれる“行為”を行っていたと発覚した場合、その人の“全人格”が否定される。その人の“社会的功績”の全てが奪われる。まるで“世界から抹殺すべき人物”のような扱いに変わる。そのような在り方が、今や「世界基準」となりつつある。これって、大丈夫なのか。この新しい「世界基準」の出現によって、実に多くの人達が、その社会的地位や名誉や生活の糧を失った。もちろん、パワハラやセクハラやモラハラなどをしていたのだから、当然といえば当然なのかもしれない。けれども、何十年も昔の話は「時効」となっている。既に“現役”を退いている人たちは、過去にどんなにひどいパワハラやセクハラをしていたとしても、罪になることはなく、その社会的履歴や人格も守護されたままだ。そういう人達が山のように居る。「時代が時代だったのだから…」でセーフとなる。例えば力道山氏は、毎日のように“付け人”アントニオ猪木氏の頭をビール瓶で殴ったが「パワハラ」は適用されない。アントニオ猪木氏も、十数年前にはいつも一般人に対して「活を入れる」という訳の解からない理由で“びんたを食らわせていた”が「パワハラ」でも「モラハラ」でも処分はされない。それなのに、たまたま“現役”で記憶に新しい“数年前までの企業上司”は事態によっては、部下を激しく怒鳴っていただけで「パワハラ上司」の烙印を押されてしまう。或いは女性部下を誘ったというだけで「セクハラ」の汚名を着せられる。そして役職を奪われてしまうだけでなく“過去の業績”とか“仕事上の栄誉”も奪われる。その企業に「存在しなかった」かのような扱いを受ける。このほどロシアの企業で、一つの広報宣伝が注目を浴びた。それはアルミニウムの製造会社なのだが「女性らしさのマラソン」という“新制度”を発表した。つまり「女性従業員できちんと化粧し、スカートをはき、髪をアップにして出社すれば、一日に付き100ルーブル(170円)の特別手当を出す」というのだ。ところが、この“制度”について、SNS上では嘲笑するようなコメントが並んでいる。「暗黒時代の産物を持ち出す」とか「まず経営陣が化粧をすれば…」とか「明らかな女性蔑視…」など、どうも評判が良くない。別に、これは女性従業員に対して“強制”しているわけではない。それでも、現代の「世界基準」からすれば「セクハラに近い制度」ということになるのだろう。世界を“一律”に変えていくことが正しいことなのだろうか。「ユニークな企業」として、認めてあげる優しさは、もう望むべくもないのだろうか。

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