10月, 2019年

“横並び社会”が「イジメの学校」を生む

2019-10-08

神戸市の小学校で昨年4月以降行われ続けていた男女教員4人による“後輩20代教員”へのイジメ問題。事件は、今年9月になって被害者教員が学校に行けなくなって、それを心配した家族が教育委員会の方に相談、市教委の本格調査によって全容が把握された。イジメの加害者は同じ教職員で後輩達への指導を任された30~40代の男性3人と女性1人の教員たち。単に「ボケ」とか「カス」とかの暴言だけでなく、ミミズ腫れが出来るほど尻を殴る、同僚の女性教員に対して性的メッセージを送るよう強要する、激辛カレーを羽交い絞めにして食べさせる…など常軌を逸している。その結果、20代の男性教員は学校へ行けなくなったのだ。実は今年6月、同じ学校の別な教員複数から、市教委の方に「イジメが行われている」旨の相談が寄せられていた。そこで学校側に対して“口頭注意”が行われたのだが、校長は「問題は収束した」として連絡している。つまり、校長は加害者教員たちに対し、20代教員たちへの指導を託し、それが明らかに“行き過ぎ”で観かねた教員たちが市教委に連絡したのにもかかわらず、加害者たちに注意さえも与えなかった。これでは被害者教員が学校に行けなくなるのも当然である。本来、小学校は「イジメ問題」にもっとも敏感でなければならない。私が小学生の時、悪ガキ同級生に帽子を沼に落とされたのだが、すぐに母親は学校に乗り込んでいった。日頃、物静かな母親であったが、そういう時は果敢に行動した。あの頃の“イジメ”は今のように陰湿ではなく、人一倍大人しかった当時の私は、母親に頼もしさを感じたものだ。現在は“イジメ”が陰湿化しているのと、集団化しがちなので、学校内での把握が重要になる。そういう時に、生徒同士ではなくて“教員間でのイジメ問題”があったということに、まず驚かされる。さらに、驚かされるのは、校長が把握しながら見逃そうとしていた事実だ。他の教員たち複数から市教委の方へと相談が持ち込まれたのは、よほど見かねた状態だったからである。もはや、それは“教育の場”ではない。けれども私は、これが一つの学校だけのことだと思えないのだ。これほどまでではなくても、似たような学校がいくつも存在している可能性がある。それを防ぐには、校舎内にも防犯カメラを設置すべきだ。そうすれば、自然と“学校内イジメ”は減っていくだろう。現代の日本は“横並び社会”の意識が強く、みんなと同じでなければ“イジメの対象”とされやすい。経済的な圧迫というか余裕のなさが、心の中まで“余裕を失わせている”部分が大きい。だから、ちょっとの違いとかミスとか遅れとかを許さない。みんなが「正しい」と言ったものは正しく、みんなが「へん⁉」と言ったものは変にされてしまう。みんなが「キライ」と言ったものに、自分だけ「好き」とは言わせない雰囲気がある。そういう“それぞれの個性”“それぞれの感性”“それぞれの思考”“それぞれの意見”を封じるところに「イジメ社会」は誕生する。特に「ネット社会」にはそういう風潮がみられる。無記名で“批判できる”形はネット上から無くした方が良い。

「文学賞」は“ノーベル賞”より“新たな賞”が相応しい

2019-10-07

今年も今日7日から「ノーベル賞」の発表が行われる。特に今年は昨年スウェーデン・アカデミー関係者の不祥事によって選考・発表が見合わせとなった「文学賞」を、昨年分と合わせ発表ということで注目が集まっている。けれども、私はかねがね「文学賞」には疑問を持っている。本来、ノーベル賞というのは“科学的な功績”に対して贈られる賞ではなかったのか。もし、本来なら“芸術分野”に属すると思われる「文学賞」を加えるのであれば、絵画などの「美術賞」もなければおかしい。もっと言えば、さまざまな芸術部門「絵画・デザイン賞」「詩・作詞賞」「小説・戯曲賞」「音楽・歌唱賞」「評論・エッセイ賞」「彫刻・陶器賞」「漫画・アニメ賞」「舞踏・映画賞」など種々な分野が存在している。そのうちの小説分野だけを取り上げるのはおかしい。例えばピカソの「ゲルニカ」は“戦争の愚かさを問う作品”である。科学的な形で世の中に貢献するものもあれば、精神的な形で世の中に貢献するものもある。もし、ノーベル賞が「文学」をそれに値するとみなすのであれば「絵画」「彫刻」「映画」「音楽」「舞台」にだって、そういう作品はたくさんあるのだ。さらに「文学賞」の問題は、それ以外にもある。言語の問題だ。例えば日本語で書かれた作品は、英語で書かれた作品に比べて“不利”だと言われる。翻訳出版されても、日本語の“微妙な表現”はなかなか伝わりにくい。さらに「歌」等とも違って、文学には“その年”というものが定めにくい。例えば長編の場合には“どの年”を発表年とするのか、判然としない。これまでの功績というなら、その年ごとに発表する意味もない。さらに、これは文学だけではないが、趣味・嗜好の問題もある。芸術作品は“科学的な功績”のように、客観的な評価というものを与えにくい。例えば何年か前、日本人でイギリスに帰化しているイシグロ氏が「ノーベル文学賞」を得た。その作品は、正直、私には解かりにくかった。何となく“重たい作品”であることは解かるし、複雑なアイデンティティーの中で生きていかざるを得ない人々がいるということは解かったが、それが“世界に寄与する”ことなのかは疑問だった。そういう風に、その価値を客観的に“計りにくい”のが文学である。もちろん、芸術作品として、あらゆるジャンルの中から“優れた作品・作家”を選出するのなら良いとは思うのだが…。文学だけに特化するのが解からないのだ。だから世界的な「芸術のノーベル賞」のような“賞”を早く創設して、そちらの方に回した方が良い。誰かノーベル氏のように芸術分野で“大儲けした人物”は居ないのであろうか。

犯罪者が「命の恩人」になる⁉

2019-10-06

海外からは時々「粋なニュース」というのが飛び込んでくる。例えば犯罪者を追いかけていた警察官が死にそうになった時、その命を助けてくれる犯人というのはどうだろう。昔、私が好きだったドラマ「逃亡者」のようではないか。アメリカの昔のTVドラマには、よくそういうヒューマニズムの精神が描かれた。子供時代に、そういったドラマを観て育った私は、アメリカ人を“そういう人達”だと思っている部分が今でも抜けない。「反日」で育っている子供達は、どういう大人になっていくのだろうか。さて、現実の事件はスペイン南岸沖で起こった。9月4日朝、麻薬密輸の取引が行われているところを警察の捜査船がキャッチした。海上で麻薬取引をしている大型高速モーターボートを追跡し始めた捜査船に対して、容疑者たちが乗った高速船は突然向きを変え体当たりを噛ました。その結果、捜査船が大きく傾き、乗っていた警察官たち3人が海中へと投げ出されたのだ。当時、上空には警察のヘリコプターも旋回していた。このままでは危険と見てヘリコプターから拡声器を使って、容疑者たちに救助を求めたのだ。それに対して容疑者たち4人は要請に応じて海上に放り出された警察官3人をボートに引き上げた。「命の恩人」となったのだ。もっとも、だからと言って“麻薬密輸”が許されるわけもなく、その後になって容疑者たちは御用となった。それでも容疑者たちやその家族は、警察官の妻や子供達から「命の恩人」として感謝され続けるのだ。その「命」を授かった日に“悲劇”が生まれることもある。ノルウェーに住むクリストファー・バーガン氏は、妻の父親が暮らすアメリカのフロリダまでサプライズで訪ねて行った。義父リチャード・デニス氏61歳の誕生日を祝ってあげるためだった。デニス邸に辿り着いたのは午後11時半を過ぎていた。玄関のドアを叩き、その後、敷地内に隠れた。そうして、義父が玄関から出てきたとき、茂みの中から驚かそうと飛び出していった。義父は侵入者と勘違いして自動小銃を発砲、バーガン氏は亡くなってしまったのだ。サプライズの“お祝い”には時として「死の報酬」が待っているという教訓を、この事件は伝えている。

「占星学」と「推命学」は“共存”するか

2019-10-05

私はいつからか、人の“運命”を観る時「占星学」のホロスコープと「推命学」の四柱命式とを併用させるようになった。自分でも、いつからこのような方式を採用し出したのか、正直、よく憶えていない。20年以上前からであることは確実だ。実は私は「西洋占星学」の専門書も「四柱推命学」の専門書も、その両方の専門書を執筆・出版している日本で唯一の占術家だ。これに関しては一部勘違いする方がいるかもしれないので補足しておく。実は佐藤六龍氏が、その両方の本を書いている。彼が四柱推命の大御所であることは論を待たない。何十冊も書いている。少し書き過ぎだが…。さて占星学書の方はどうだろう。実は『太陽占星術入門』という本を1974年に出している。けれども、これは入門書であって専門書ではない。しかも、かなり“大雑把な入門書”である。佐藤六龍氏も、浅野八郎氏と同じく、若い頃には精力的に“さまざまな占術”の入門書を執筆していた。ちなみに、私と佐藤氏の執筆姿勢は“正反対”であり、彼が行間を開け、図解もエピソードも乏しく、無味乾燥な実用書としての記述を心掛けるのに対し、私は極力文字を詰め多数の図解を挿入してぎゅうぎゅう書籍とする。もし、私が佐藤氏のような書き方に変えれば、一冊で四冊分くらいは出来上がることであろう。話がずれたが、私が洋の東西の“観方”を併用するには理由がある。互いに“補い合う”ような要素もあるからだ。実際、こういう観方を取り入れていたのは私が最初ではない。中国では元代~明代(西暦1200年~1600年頃)にかけて「星平会海」とか「星平参合」と呼ばれる観方が存在した。これは「占星学」と「子平学(四柱推命)」とを合わせた観方で“西洋式の占星学”を使う方法と、“東洋式の占星学(紫微斗数)”を使う方法とがあった。私が東洋系の占いで一番最初に身につけたのは「紫微斗数」であるから、最初は「占星学」と「紫微斗数」を合わせようとした。実際、初期にはそうしていたのだ。けれども、紫微斗数は表出するのに時間が掛る。そして一番の問題は“出生時不明”の人に対してはお手上げなのだ。しかも、的中率が悪い。そこで、いつの間にか「占星学」と「推命学」を合わせる現在の観方に落ち着いたのだ。ところで、9月までZOZOを率いていた前澤友作氏が新たな「スタートトゥディ」を立ち上げた。実際には9月に設立していたらしいが、公表を控えていたようだ。これを四柱命式で捉えると、彼にとって今年は「正官・建禄」の年であり、独立しての新会社設立に相応しい運気の年ということになる。これを占星学の方で観ると、9月以降はトランジットの天王星が出生時の天王星に180度の位置に来て、環境上の大きな変革、或いは独立・自立の時ということになる。トランジット惑星的に考えると、昨年の12月頃から徐々にそういう意識が強まっていったのではないかとみられる。ただ最初に起業した1998年5月頃、株式会社に変更した2000年4月頃にはいずれも出生時の金星に対して、好ましいアスペクトがあった。今回はそれがない。「愛と美の女神」が事業に味方してくれるか、微妙な運勢ではある。

「N国党」担ぎ出す豊田真由子&堀江貴文の両氏

2019-10-04

豊田真由子氏も堀江貴文氏も「N国党」から出馬すると決定したわけではない。まだ「その可能性がある」という段階に過ぎない。けれども、N国党を率いる立花孝志氏の方は既に“その擁立”に向けて動き始めている。とにかく立花氏というのは“ユニークな発想”の持ち主であることは間違いなく、しかも山本太郎氏が率いる「れいわ新選組」の“初心者たち”に比べて、実績を持つ“即戦力”を引き抜いている印象が強い。そういう意味では既成政党にとって本当に怖いのは「N国党」であり、その党首たる立花孝志氏であるに違いない。もちろん、今のところ、この党に“引き抜かれた”人達は“過去に問題を起こした人達”で、言い方は悪いが“問題児”ばかりである。まあ党首の立花氏自身が問題児でもあるから、それにふさわしい“仲間”が集まりつつあるともいえる。私は個人的には、別に政治家としてどうこうではないが、せっかくなので豊田真由子氏も堀江貴文氏も「N国党」入りを果たしてもらいたい。少なくとも、こういう“問題児”ばかりを加えようとする立花孝志氏という人物が、運命学的にも興味深いからだ。もし、これらの人物を上手くまとめてゆくことが出来るのなら、それは政治手腕とは別に、人間として立花孝志氏の「器の大きさ」を証明するものになる。或る種、瀬戸内寂聴氏のような「器の大きさ」になる。ただ「NHKから国民を守る党」という党名は感心しない。なんとなく、それだけのために集まる人々のような印象や誤解を与えがちである。だから早急に党名は改めた方が良い。よく企業で、創業当時は諸事情あって“とりあえず”の企業名から出発したが、だんだん規模が大きくなって社会に通用しやすい企業名へ変えていくようなものである。そうした方が、イメージ的なものも含めて“党支持者”の為にも良い。ところで豊田真由子氏は「このハゲー‼」で一躍有名になったが、その暴行疑惑が出た2017年6月22日の段階で、私は次のように記した。《現在トランジットの天王星が出生時の天王星に180度、人心を失い「再出発」を余儀なくされる可能性が強い、危うい運気です》やがて7月になって自民党を離党、その年の10月に衆院選に出馬したが落選。予告通りの人生を歩んだ。けれども、私は、この人が政治家として“不向き”だとは思っていない。いずれは何らかの形で、政治に関わるだろうと考えていた。そういう意味では“良い機会”なのだ。堀江貴文氏の方は、予想外の形で“御用”となったが人気運は衰えず、出所後は精力的に動き回っている。この人は「敵」を作りやすい。それに時々言葉が荒くなる。もし、政治家となるなら、言葉だけはもう少し考えた方が良い。ただ現在のような“混沌とした世界情勢”のなかでは、日本の喧嘩っ早い人たちが少しは必要なのかも…。

年間4000人以上が「改名」をする⁉

2019-10-03

「Eテレ」には、普通テレビなどには出ないような人たちが時々出演する。「改名100人」に取材した「私が名前を変えたワケ」も、さまざまな理由から改名をした“普通の人達100人”に取材した内容で大変興味深かった。そして、私が一番驚いたのは日本では年間4000名以上もの人たちが“名前を変えている”事実だった。理由はさまざまだ。キラキラ・ネームだったために不利益が生じやすいという理由、トランジェスターであることから不都合が生じやすいという理由、幼少期の家庭的なトラウマから逃れたいという理由、元受刑者が社会復帰が難しいいう理由…それぞれ改名の理由は異なるが、ナルホドと思われるものばかりであった。ちなみに放送された中には「姓名学で凶名だったから」という理由はない。多分、それだけだと家庭裁判所の方も認めてくれないような気がする。芸能人やスポーツ選手などは時々「改名」をする。それによって大きく飛躍することもあれば、ほとんど変化のない場合、逆に改名したことで“表舞台から消えていく人”もいる。大体、芸名などは「姓」も「名」も“社会的に変更する”ことになるわけで、それだけ影響力は大きい。通常の仕事でも、戸籍は簡単には変えられないが、名刺などの「通用名」を変えるのは自由である。自分の名前が気に入らない人は、勝手に改名をして「通用名」を使い始めれば良い。そうすれば、徐々に“その効果”が表面化する。よく「親に貰った名前」は勝手に変えるべきではない、などという人がいるが、親は“我が子”に幸運な人生を歩んで欲しいと思っている。もし「この名前を付けられたせいで不幸な人生を歩んだ」などと恨まれるくらいなら、改名して幸運になってほしいと思うのが親心というものである。もっとも、俗にいう“幸運な画数”だから“幸運な人生を歩む”という保証はない。というか“幸運な画数”と呼ばれているものが、本当に“幸運”を運んでくれるものなのかどうか残念ながら確証はない。それに、ただ単に“画数合わせ”で漢字を選定すると、ほとんどの場合は失敗する。「姓」と「名」に繋がり乏しい名前、読めない名前、書きにくい名前、意味の通じない名前…これらは画数以前の問題で“凶名”となる。まずは“解かりやすく”“読みやすく”“書きやすく”“憶えやすく”“見栄えが良く”“姓と名のバランスが良い”名前であることが「幸運名」の条件なのだ。但し、名前だけで人生が決まるわけではない。さらに職業によっても「良名」「凶名」は異なってくる。特殊な分野で成功したい人の場合に「平凡な姓名」であれば、より多くの努力が必要になる。

「がんの手相」は予知できるか

2019-10-02

1970年代にアメリカで『人間の手の物語』という学術寄りともいえる“手相の本”が出版されたことがある。その多くのページを使って、がんの手相の研究を紹介していた。日本でも翻訳出版されたが、地味な内容なので話題にも上らなかった。その後になって日本では木星王氏が『ガンの手相』という“そのものずばり”のタイトルの本を出したこともある。さらに、その後、西洋医学と東洋医学の両方を修めた直塚松子氏が『手相で病気がわかる本』『驚異の手相術―病気・ガン・突然死は予知できる』『手相でわかるガンと成人病』などの著書で“実症例”を手型として多数公開した。この一連の流れは、その後なぜか中国の方に引き継がれて、現代ではさまざまな“実証研究の本”が出版されている。日本では、こういう学術寄りの研究書を出版しても、それを後押しするマスコミがない。だから自然と埋れてしまう。ところが“がん予知”に対する医学的研究・開発になると話は別だ。マスコミがこぞって取り上げてくれる。そういうわけで、昨日、九州大発のベンチャー企業「HIROTSUバイオサイエンス」が開発した“がん予知検査薬”「N-NOSE(エヌノーズ)」を2020年1月から実用化すると発表した。葯85%の確率で15種類の“がん予知”が可能としている。方法的には単純で、本人の尿を一滴投入するだけで判別できる。線虫と呼ばれる虫が“がん患者の尿の臭い”を求めて集まって来るからだ。逆に、健康な尿からは逃げ出すらしい。ただ私は85%というのが気になった。つまり本当は逃げ出すはずの線虫が“寄ってくる尿”もあるということで、それは現在は“がん”ではないがやがてそうなるからなのか、それとも“紛らわしい臭い”というだけなのか、その部分が気になる。これは手相の「ガンの相」でも言えることで、実質的には生命線やその付近の「小さな島型」が一番“がん”の確率が高い。ただ厳密にいうと生命線上の「島型」は身体の“重い慢性的な内部疾患”を意味するもので、がんだけとは限らない。また生命線そのものには出ないで、その付近に「島」或いは「複数の✕字型」として出現していることもある。さらに記号としてではなく、異様な雑線として一部に集中することもある。手相の場合には、時に数年後とか数十年後とかの現象が“予知の形”で出現しているケースも稀にある。ただ、このようなことを書くと多くの方から「これが癌の相か」「これは島型か」「これは✕字型か」など問われることが多いのだが、ほとんどの場合には見当違いである。掌に出る“記号”は判然としている。10人の内8人までが“島”も“✕”もすぐ解かる。よくよく見なければ解からないような“微妙な形”は記号ではない。だから心配など不要なのだ。「島」の場合も、比較的大きいものはガンとはならないケースが多い。小さいがクッキリしている、連続的にいくつか出ている、などの場合は要注意だ。また生命線以外でも“慢性的内部疾患”になる確率は高いので“がん家系”以外の人も要注意だ。

2019年10月の運勢

2019-10-01

「拳銃」無くても大丈夫な国⁉

2019-10-01

あまり大きな声では言えない。けれども、確かにそれは“必需品”ではなかった。だから1時間以上経っても気付かなかったのだ。そして、もう一つの理由がある。「日本」という国の出来事だからだ。これがもし“東南アジア”とか“アフリカ”とか“中東”の「怪しい国」だったら、忘れたとか失くしたでは済まされない。とんでもない事件が勃発する可能性がある。日本で良かった。なぜなら、日本では駅トイレの中にモノが置いてあっても、すぐ盗まれたりはしないからである。大抵の場合は親切にも駅員のところまで届けてくれる。それを使って、すぐ犯罪を行おうとする者も滅多にいない。9月29日の午後4時頃、鉄道警察隊の女性巡査長(27歳)は山陽新幹線の相生駅構内のトイレを利用した。その際に革製ベルトを外しフックにかけたのだ。そのベルトには実弾入りの拳銃一丁と手錠とが装着されている。かなり重いはずで、外したままトイレを出たら“違和感”があるような気がするが、女性巡査長には他に気になることでもあったのかもしれない。悪く言えば“気が緩んでいた”のだ。拳銃は必需品ではないのだから、身軽になって爽快だったかもしれない。そうはいっても勤務中の出来事で新幹線車内とか、各駅構内とかで犯罪が起これば、直ちに拳銃や手錠の出番となる。とにかく、午後5時20分頃にトイレを使用した女性客が駅員のところまで“忘れ物”として届けてくれたのだ。決してすぐ「売りさばいてしまおう」とか「隠し持っていよう」とか「あいつを殺そうか」とか、そういう発想にはならなかったのだ。メデタシ。メデタシ。改めて「日本」は“平和”な国で、“親切”な国でもあることを実感する。この警察官が拳銃を無くしても“気にならない状態”で居られるということが、続いていくことを私は願うのだ。「犯罪率」は極端に少なく「犯罪検挙率」は極端に多い国が理想なのだ。もっと進めば、警察官が“拳銃を持たない国”にまで到達できるかもしれない。アメリカのように、誰もが“拳銃を持てる国”の場合、怖くて“拳銃を忘れる”など絶対に出来ない。いや、拳銃を持っていたとしても安全ではなく、いつ、だれに狙われるか解からない。「夕日のガンマン」はドラマだから許せるのだ。

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