5月, 2020年

「メロン」と「芸人」の“怪しい価格”

2020-05-26

物事は何でも“需要”と“供給”の関係から、その「価値」というものが定まってくる。だから多くの場合、その“価値”として表示されている価格はおおむね正しい。けれども、中には“明らかにおかしい”と感じられる「価格」が表示される場合もある。例えば「メロン」の“初セリ”の価格だ。昨日、札幌の中央卸売市場で「夕張メロン」の“初セリ”が行われた。実は昨年「夕張メロン」は、ここで“二玉500万円”という驚くべき“ご祝儀価格”が付けられた。どうしてそんなに高いのか、また高くても買う人がいるのか、理解に苦しむところだが、実際にそういう価格で取引が成立していたことは間違いがない。さて、今年はどうだったのかというと、何んと“二玉12万円”だったのだ。何んと昨年の“十分の一”にも及ばない。まあ、考えてみれば、いくら高級メロンと言っても、単なる果物で“二玉12万円”でも十分に高い。昨年までの価格が“異常”だったに過ぎない。世の中、そういうものはたくさんあって、例えばTV番組の「ワイドショー」とか「バラエティ」とかに出て来る“芸人”もそうである。一体、なぜあんなに多数の“ひな壇芸人”を並べなければいけないのか知らないが、とにかく、どんな番組でも“芸人”が出て来ていた。なぜかプロのアナウンサーではなく、芸人が“番組進行係”まで務める。とにかく、似たような芸人が毎日、入れ替わり出てくる。たくさん出てくる。それが“当然”のように番組作りが行われていた。もちろん、それだって“需要”と“供給”の関係から形作られた仕組みなのかもしれない。けれども、今回の“コロナ騒動”は、TVから“三密”を助長する芸人たちを追いやった。別にTVに“芸人”が出ていなくても、それなりの視聴率は稼げることを制作サイドは知ったことだろう。“売れている芸人”は値段(出演ギャラ)が高くなる。別に、そういう人を使わなくても、必要な番組であれば大衆は視聴してくれる。少なくとも「夕張メロン」のように“正常価格”に戻すことは出来る。占い古書の価格などもそうなのだが、時々べらぼうに高い価格が付けられている。私の著書などでも何万円もしたりする。もちろん、それが売れたからと言って、私には1円も入らない。どの業界であっても、もう少し“適正価格”を普及させる取り組みも必要なのではないだろうか。

「見切り発車」でも“取り残される”人々

2020-05-25

いよいよというべきか、予定では今日5都道県の「緊急事態宣言」が解除される。厳密にいうと、神奈川と北海道とは本来の“解除規定”からは外れるのだが、多分、一緒に解除される。実際には、もう“経済面”が限界に来ているからだ。いくら、行政が手厚くカバーすると言っても、すべてをまかなうことなどとてもできない。あちこちから悲鳴が上がっていて、これ以上の“自粛要請”は政府や自治体そのものの首を絞めかねない。実際には、だから「見切り発車」でOKを出すのだ。ただ世界的に観れば、日本の見切り発車など“可愛いもの”で、欧米の「見切り発車」は、本当の見切り発車で、だから“封鎖”していた割に感染者数はまだまだ急減していない。日本は“だらだら型”なので一気には減っていないが、元々それほど多いとは言えないのだから、それなりの成果は出ていると言える。少なくとも、一時期心配されたほどには蔓延していない。日本人は基本的には“公共のルール”に敏感なので、“規律に飛んだ国民性”がプラスに働いたと言える。既に“自粛解除”となっている京都・大阪・兵庫の三府県の“コロナ騒動”に起因する負債額1000万円以上の倒産件数が27件であったと報告された。観光関連産業が圧倒的に多く、その経済的損失は7000億円に達するとも言われている。三府県だけでもそうなのだから、全国合わせるとどのくらいになるのか、多少、見切り発車でも“解除”してしまいたくなる気持ちがわかろうというものだ。こういう場合、よく「人命と経済とどちらが大切か」というようなことをいう人がいるが、間違いなく両方大切なのだ。経済が枯渇すれば、飢え死にする人が出てくる。つまり「人命」が失われるからだ。病気になってだけ、人命が失われるわけではない。“飢え死に”しないまでも、職場を失い、住居を失い、未来を失う人が出てくる。病気の人も救わなければいけないが、職場や住居を失った人も救わなければいけない。少なくとも、行政というのはそういうものだ。ただ、全国的に“自粛解除”がなされたことで、すべての業種が“元に戻った”と言えるかというと、そうではない。まだ、海外からの渡航者に関しては“制限”が掛けられているからだ。実際、こちらの方は、そう簡単に外すわけにはゆかない。日本の場合、訪日客によってもたらされたものが圧倒的なので、まだまだ海外では拡大中であるから、その部分の規制は外すわけにはゆかない。つまり、訪日客によって成り立っていた職種は「見切り発車」から取り残される。それらの人達をどう守っていくか、それが今後の課題となっていくだろう。

ネットの「誹謗・中傷」本名を公開すべき‼

2020-05-24

スターダム所属の女子レスラー木村花氏が22歳の若さで死去した。ネット上で愛猫に“別れを告げる”写真投稿を遺しての死去となった。男女間のリアルなシェアハウス生活をドキュメント化する番組「テラスハウス」に出演中でもあった。日本人の母とインドネシア人の父との間に産まれ、母親も女子レスラーとして活躍していたので、デビュー当時からスターの素質を持ち、アメリカでも活躍できると期待されていた女子レスラーだった。本職のプロレスで悩んでいたのではなく、出演していた「テラスハウス」における言動が、視聴者からSNSで多数の誹謗・中傷を浴び、生きていく意味を見失ってしまった…。近年、SNS上の誹謗・中傷が狙われた人の心身を破壊していくケースが多くなっている。人間というのは「見える敵」は防御できても「見えざる敵」には打つ手がないので脆いのだ。肉体的な脅威には強いレスラーも、精神的な脅威には、ましてやそれが“見えざる敵”であればなおのこと、あっけなく崩れていく。その“見えないこと”を良いことに、誹謗・中傷で襲い掛かってくる輩たちがいる。私などでも、たまにネット上でこき下ろすような不届き者がいる。私は、だから無記名で何か言ってくるような人物には、必ず「名を名乗れ‼」と言う。江戸時代、市中において背後から切り付けて来るような輩に対して、剣豪は必ず「名を名乗れ‼」と、まずは応じた。そうすると昔の武士達は、必ず、名を名乗って、同時に襲う理由も述べて、それから再び切り付けて来る、という悠長なことを行った。けれども、考えてみれば、日本らしい“潔さ”が感じられる一コマでもあった。今日のSNSでも、日本でなら、日本人ならば、このような形で“決戦する”くらいの“潔さ”は残っているのではないだろうか。そういう風に、日本では取り決めてしまえば、今後、無意味な誹謗・中傷、及び悪意ある誹謗・中傷は減っていくのではないだろうか。よく、SNSにおける“口コミ”を無記名だから本音で言える、という人がいるが、無記名だから“嘘もつける”し“傷つけても”罰せられない。書かれた方は、それを否定しても信じてもらえないケースが多いのだ。特に、社会的に“力を持っている存在”が、“力を持っていない者”の言動を押しつぶそうとするとき、数の力によって“抹殺”を計るのに無記名は都合が良いのだ。そういう意味でも、無記名の誹謗・中傷を野放しのままにしておいてはならない。

「都知事選」を盛り上げる堀江氏の立候補⁉

2020-05-23

元ライブドア社長で現在はいろいろ手掛ける堀江貴文氏の動向が注目されている。「都知事選」に“立候補する”ともっぱらの噂なのだ。本人は何も言っていないので「N党」の“話題集め”という見方もある。ただ堀江氏は今月末に『東京改造計画』という本を出す。この題名が、かつての首相・田中角栄氏が出した『日本列島改造論』と似ている。都知事を目指していないなら、実質的に改造するのは難しいような…。したがって、ただ単に“噂”だけが先行しているというのでもないらしいのだ。もっとも、堀江氏のような“型にはまる”のを嫌う人物が、政治家に向いているかというと話は別で、向いているとはとても言い難いが、面白いことは面白い。但し、この人の言葉遣いだけは決して褒められたものではない。特に、弱者やお年寄りに対しての言動には、批判を浴びやすい要素がいっぱいで、仮に政治家となっても、長続きできるかは疑問としか言いようがない。もしも、実際に立候補したなら、当選するだろうか。昔、広島で立候補した時には亀井静香氏に僅差で敗れた。弱者やお年寄りに対して配慮を欠く部分が直らないと、票は伸びないだろう。ただ私は、アメリカのトランプ氏のような強烈な個性の持ち主に対しては、堀江貴文氏のような強烈な個性の持ち主の方が、“対等に話が出来る”という点で興味がある。この人の持っている“ぶしつけな部分”は、近年各国で誕生している強烈なトップたちと比較しても引けを取らない。それともう一つ、現在のように経済が低迷している時には「財運の強い」政治家が必要である。財運の乏しい政治家は、人気は得られるかもしれないが、日本の経済そのものを強力に押し上げてはくれない。そういう意味では、かつての堀江氏には、日本に“夢”を与えてくれるすがすがしさがあった。けれども、どういうわけか、刑期を終えて以後の堀江氏には、その言動にやや“ダークな部分”が見え隠れする。その部分が、私にはいちばん気になる。今度の『東京改造計画』にも「現金などというものは使わせない」という極論が述べられている。彼の言わんとすることが解からないわけではないが、その言葉が、どれだけお年寄りたちに恐怖を与えるか、考えてみる頭脳も必要なのだ。

日本が防ぐべき「三つの凶災」

2020-05-22

今年は地球環境にとって稀に見る「凶災の年」である。私が以前から述べていたように、どんなに“大きな出来事”であっても、人が日々興味を抱き続ける期間というのは、そう長くは続かない。だから私は今年2月の時点で、“新型コロナ騒動”は4カ月後くらいが限度で、それ以降になれば、つまり6月くらいになれば徐々に人々の興味は“新たな事件・出来事”へと移っていくだろうと述べておいた。そういう点では、その通りの展開で収束に向かうのは良いことなのだが、やっかいなのは「次」に何が来るかなのだ。実は昨日の“世界のニュース報道”の中で、私の“予知本能”に警告を促す三つの出来事があった。その一つは、インドを襲った“巨大サイクロン”のニュースで、日本で言う「台風」と同様のものだ。インドのオディシャ州や西ベンガル州を襲っているサイクロンで300万人が避難し、84人の死亡を確認したと伝えている。その一つはアメリカ・ミシガン州からの報告で、豪雨によって二つのダムが決壊し、その濁流がミッドランド市中を襲っている。一気に3m以上の水が流れ込む可能性が高く4万2000人の住人に避難命令が出されている。その一つはパキスタンからのニュースで、アフリカからやって来たバッタの大群が農作物を食い荒らしていて5470億円もの被害をもたらしているというのだ。その繁殖力はすさまじく、脅威を感じるほどの大群移動である。これら三つとも、私が前から言っている「防ぎようのない自然災害」に属する。けれども、前もって、それに備えておくことは可能だ。これらの中で、日本にもっとも起こりやすいのは台風による集中豪雨かもしれない。けれども、実はいちばん怖いのは「バッタの大群」のような気がする。日本の場合、アフリカやパキスタンとは気候や自然条件が異なるので、よほどのことがない限り「バッタの大群」が繁殖するということは有り得ない。けれども、それで言うなら、今回の「感染症」だって、日本は島国で隣国と隔たっているので「感染症は心配いらない」と言われてきたのだ。ところが、実際には海外から持ち込まれてしまうと、あっという間に自国の中でも波及していった。だから、バッタの大群に関しても油断は禁物なのだ。今から「備えあれば患いなし」という風な感じにしておかないと、泣きを招くかもしれない「三つの凶災」なのだ。

「鬼滅の刃」を抑えて「マンガ大賞」を得た作品

2020-05-21

5月21日から熊本市現代美術館で再開されるのが漫画家・高浜寛氏による“企画展”である。元々、文化庁メディア芸術祭漫画部門優秀賞を受賞して2月22日に始まった“企画展”だったが、途中“コロナ騒動”で休止となっていた。ところが、その休止となっている最中に「手塚治虫文化賞マンガ大賞」を受賞するという名誉があった。しかも、受賞した『ニュクスの角灯』という作品は、現在、爆発的に売れている『鬼滅の刃』という作品を抑えての受賞であった。元々、この人は海外での評価が高く、その作品のほとんどがフランス語に翻訳されている。大学卒業後に、どの企業からも採用されなくて、やけくそのような形で描いた漫画から話が進んで漫画家になったとは思えないような栄光と言える。だから「運命」というのは解からない。人間には、幼い頃から定まっていたかのように“その仕事”に向かっていく人もいるが、そうではなくて、いつの間にか“運命の糸”に導かれるような形で“その仕事”をやらざるを得ない場合もある。技術を伴う仕事だからと言って、必ずしも優秀な技術者が“世間的に評価される”作品を生み出すとは限らない。技術ではない何かが、人々を惹きつけることもある。いつの間にか“歴史的なもの”に題材を求めるようになった高浜寛氏は、もしかしたら歴史に埋れていった人々の“生きていた証し”を描くことが使命となったのか。“日本のマンガ”は、今や“世界のマンガ”となったが、日本と日本人を、世界に理解させる最も効果的な方法として、マンガ世界の中に“日本の歴史物語”を取り込むという方法があるような気がする。世界的大ヒットとなった『鬼滅の刃』も、元々は日本の昔話を現代的に脚色した作品らしい。考えてみれば、マンガの場合は時代というものを超越することが出来る。言葉の壁も“雰囲気”としてうまく乗り越えられる。時として“日本語の普及”にも一役買っている。昨日発表された4月の訪日外国人の数は「2900人」という人数だった。もちろん、ストップをかけているのだから、ビジネス客以外は来なくて当然だが、それにしても驚異の落ち込みである。これを再び「観光日本」に戻すのは容易ではない。漫画やアニメが果たす役割と使命は、そういう意味でも大きいのだ。

新たな「温泉」が誕生するかも…⁉

2020-05-20

同じ地震でも「震度4」と「震度5」とでは、ニュース報道の扱いが異なる。「震度4」までは“地元のニュース”に留まることが多い。けれども、それが何回も続いて発生するとなれば、話は別だ。長野県と岐阜県との県境付近で、このところ体に感じる地震が異様なほど連続して発生している。地震学で言う「群発地震」と呼ばれるものだ。4月22日から昨日まで130回以上も発生している。昨日の昼過ぎに発生したものは高山市で震度4、飛騨市で震度3だった。一日に何回も身体で感じられる地震が発生すれば、誰でも、そのうち“大きい”のがドカンとやってくるのではないか、と不安になる。ところが、専門家から言わせるとそうでもないらしい。「群発地震」というのは、たいていの場合は一定期間、震度5弱程度までの地震が続いていくが徐々に治まっていくものらしい。その間に地底マグマの変化が起こるので、時には地形が徐々に変貌したりする。当然、長野県と岐阜県の県境には飛騨高山の北アルプスが広がっている。だから、その山の形状などに若干の変化が生じるかもしれないのだ。もう一つ、高山市の近くに「新平湯温泉」という温泉郷がある。実は先週から30年前以上前に枯れ果ててしまったはずの温泉源泉が、再び勢い良く湧き出しているのだ。もしかすると、もっと別なところにも、新たな温泉が湧き出ているかもしれない。奇妙なもので、温泉地帯というのは活況を呈する時期と、さびれてしまう時期と、周期的にやってくるようなところがある。一番活気づくのは温泉が“お披露目”されて2~3年後くらいの時である。そして、大体40~50年経つと、徐々に人気が薄れていく。ひょっとすると、元々が地球の内部から湧き出て来る“自然界の恵み”であるだけに、温泉そのものにも、人を惹きつける“活性期間”のようなものが備わっているのかもしれない。その周囲に、他に温泉があるのかどうか知らないが、おそらく“地底の神”は“新たな温泉地”が開拓型の人間によって誕生するのを密かに待っているに違いない。

「子供のために…」は“逆効果”になる

2020-05-19

5月16日に“妻への暴行”容疑で逮捕されたタレントのボビー・オロゴン氏が、起訴に持ち込まれることなく釈放となった。本人は否定しているらしいが、子供達の証言から実際に暴力をふるったのは間違いないだろう。もっとも“傷害の診断”が出るほどの怪我もなく、DVとしては比較的“軽いもの”とみなすことも出来る。一応、夫婦間の出来事であるから、今回のことだけですべてを決めつけることは出来ないが、夫人の玄関前インタビューによれば「永年ずっと我慢してきた」と話していて、ガスを止められるとか、家を出て行けとか、離婚用紙に判を押せとかの話もあるらしく、ただ単なる一時の感情ではない印象が強い。夫婦間で“DV問題”がある場合、往々にして被害者側が「子供のため我慢している」というケースが多い。多くの場合、離婚が成立すれば、妻側が子育てをする形になるので、十分な養育費など得られそうにない場合は「離婚を我慢する」ということになりやすい。けれども、そうすることでほとんどの場合DVは継続するし、子供達には“夫婦間の悪い印象”だけが記憶に残る。幼い子供の場合、両親の間で行われるDVの目撃は或る種のトラウマになる。そういう場合には早期に弁護士の元を訪れた方が良い。子供のためだけに我慢するのは逆で、子供のために良くないのだ。この場合、DV被害者が口にしがちなのは、加害者側の“豹変”である。「昔はあんな人ではなかった」とか「子供達には優しいので…」とか「お酒を飲まなければ…」とか「お金のことさえなければ…」とか「私が口答えしなければ良いんですが…」とか「朝帰りを責めると…」とか…どこかで加害者を擁護しがちな点が見受けられる。占いの相談者の場合には、最終的に「出来れば離婚せず、やっていきたい」というケースが多い。「運命的には同じことの繰り返しになりそうなので…」と離婚の方を奨めても、納得してくれない女性が多い。そういう場合、私は必ず「今でも愛情はあるのですか?」と訊く。そうすると、ほとんどの場合「わからないです」と答える。おそらくは「愛・憎」が一体化してしまっている。こういう場合、情愛の強い人はなかなか別れない。少なくとも「子供達の犠牲になる」という考え方は、正しいとは言えないのだが…。

ススキノ百貨店「ラフィラ」が消えていく

2020-05-18

昨日、札幌ススキノの玄関口で開業46年になる百貨店ビル「ラフィラ」が閉館した。一応、言っておくと、今回の“新型コロナ騒動”による閉館ではない。前々からビル自体の老朽化が指摘されていて、6月にも解体して“新しいビル”として3年後に生まれ変わることが決まっていた。ただ、今回の騒動で、実質的に閉店まで営業していたテナントは半分以下となっていた。本来なら「閉店セール」を大掛かりにやって“一儲け”したいところであろうが、今回の場合はそれも出来ず、何ともさびしい幕切れとなった。このビルは、最初1974年に「札幌松坂屋」として操業を開始している。それから「ヨークマツザカヤ」となり「ロビンソン百貨店」となり「ススキノ・ラフィラ」となった。おそらくだが「ヨークマツザカヤ」としての期間が一番長かったのではないだろうか。ススキノの玄関口にあるので、場所としては最高なのだが、近年は漏電による火災が起こるなど、防災面からも問題が指摘されていた。実はススキノにある飲食店ビルには、この百貨店ビルと同じような時期に開業したビルが少なくない。ススキノの玄関口にあるので、札幌に長く居住している者なら、この百貨店ビルを訪れたことがないという人はいないのではないか。それくらいシンボル的な百貨店なのだ。私はそんなに出歩く方ではないが、札幌に来る前、室蘭に居住していた時代から、ここだけは解かりやすいので、札幌に来た時、よく立ち寄ったものだ。待ち合わせにもよく使ったし、7階と8階の飲食店も良く利用した。地下から最上階まで、使用しなかった階はない。すべての階で、お金を使っているのだ。考えてみれば、そういう百貨店も珍しい。最近は住居に近い丸井や三越のデパートを使用することの方が多いのだが、どの階の店でもお金を使ったというビルは記憶にない。例えばファッションの階はそのまま通り過ぎたりする。そういう点でも「ラフィラ」の百貨店では、宝くじ売り場も使用し、スーパーも使用し、ケーキ店も使用し、酒屋さんも使用し、ファッションアパレルも使用し、眼鏡店も使用し、書店も使用し、カフェも使用し、レストランも使用し、居酒屋も使用し、バック店も使用し、インテリア店も使用し、歯医者も使用し、修理の店も使用した。あらゆる店を使用した。それにしては、寂しい幕切れだった。

「変貌した男」を演じる俳優・沢田研二⁉

2020-05-17

主役として出演予定であった故・志村けん氏の代役に歌手・沢田研二氏が決まった。なかなか興味深い人選である。沢田氏の方から買って出たのか、或いは監督の山田洋次氏の方から依頼したのか知らないが、いずれにしても“単なる代役”とは根本的に異なる。ましてや、この作品で演じられる主人公は「ダメオヤジ」の設定である。そこが良い。近年の沢田研二は、若いころと違って、決してスマートなアイドルではなくなった。むしろイメージ的には「ダメオヤジ」に近い。だから、今の沢田研二であれば、“家族から見放されたギャンブル好きの親爺”でも違和感がない。昔、映画に携わっていた男…という設定も符合するから、山田洋次監督がどこまで沢田氏の“ダメっぷり”を引き出せるかにもよるが、決して単なる友情出演などではない。或る意味で“新たなコメディアン”が誕生するかどうか、そういう意味でも興味深い作品となる。この作品は二部構成になっていて、そのダメオヤジの若い頃は若手俳優・菅田将暉氏が演じる。つまり、年齢を経たことで、そして人生上の変化があったことで、人は“変わっていく”ということを暗黙のうちに物語る作品でもある。若き日の“恋のライバル”が登場する点では「男はつらいよ」にも共通する作品だ。沢田氏は38年前、山田洋次氏の「男はつらいよ」で今の奥さんと出逢った。そして少し“不倫の期間”を経て、後に正式に結婚した。そういう意味でも山田洋次監督は“人生を変える”きっかけを作った人物である。志村けん氏とは“コントで多数共演した”のだが、そしてなかなかのコメディアンぶりも発揮したのだが、なぜかアイドルのイメージは崩れなかった。容貌が邪魔をしてコメディアンとして変貌できなかったのだ。今なら、十分に“ダメオヤジ”でも演じられる。むしろ、志村氏よりも“ダメオヤジ”っぽくなれるかもしれない。若き日を菅田将暉氏が演じるのも良い。若き日の沢田研二氏からすると少し“甘さ不足”だが美男という点では合格点かもしれない。運命は変わる。人生は変わる。それを説教臭くなく感じさせるのが山田洋次氏なのだ。

「コロナ」に感染した「アパレル名門」の“死”

2020-05-16

“新型コロナ”が影響して上場企業初の倒産が出た。東証1部上場のアパレルの名門「レナウン」である。私が生れた時には既に存在していた企業だ。そして私がまだ子供だった頃、TVのCMで際立って輝いていた企業だ。1960年代から70年代にかけて「レナウン」のCMは誰もが知っていた。「ワンサカ娘」「イエイエ娘」として、音楽に合わせ飛び跳ねながら登場する“三人娘”が、当時としては斬新だったのだ。だから「レナウン」という企業名はだれもが知る企業名であった。その営業利益も80年代初期には2000億円を超えていた。けれども、その後、急速に利益が伸びなくなった。時代が変わったのだ。アパレル企業は時代の変化と波をもろに受けやすい。流行の先端を行っていたはずの企業は、いつの間にか「老舗」と呼ばれ、“時代遅れ”の企業と変った。いったん、そうなると巻き返しは難しい。ずるずると後退していった。それにしても、まさに“時代の波”としか言いようのない“新型コロナ”の影響で、流行を先取りするアパレル業種が上場企業倒産の「第一号」となるのは皮肉である。本来なら、飲食業とか、観光業とか、ホテル業とか…直接的に影響する業種が、真っ先に「ギブアップ」しそうなものであるが、そうではなくてアパレル企業だった。実際、アパレル企業はどこも急速に売り上げが落ち込んでいる。なぜなら、外出の自粛を求められている。女性は外出するのとしないのとではオシャレへの“向き合い方”が異なる。要するに外へ出ないなら、どんな格好でも良い、というのが本音らしい。外出しなくても、オシャレを欠かさないのは少数の“本当のオシャレさん”たちだけなのだ。したがって、もしも、このまま自粛期間が長引けば、或いは本格的に「テレワーク」が当たり前になってしまったなら、もっとも困るのはアパレル業界かも知れないのだ。特に若い人たちの“ファッションセンス”は、昔のように“良いものを長く”ではなくて、“安いものを次々と”という流行の“着流しスタイル”が定着しつつある。外出しないなら、次々と変えていく必要性がない。当然のことながら、ハンドバッグなども必要性が薄れる。化粧品などは決定的に必要性が消える。こうして、“新型コロナ”はさまざまな業界の人々を“苦境”に貶めていく。

「十年の大運」は“存在”するのか⁉

2020-05-15

最近、占いの生徒さんからも、占いの鑑定希望者からも、同じような質問を受けたので、そのことについて少し書きたい。推命学上の「大運(行運)」についてだ。古典的な推命学では、通常十年間ごとの「大運」と呼ばれるものを重視している。早い話が十年間ごとに大きく「運が変わる」という捉え方だ。こういう“仮説”のことを、運命学上では「進運」とか「行運」とか「流年運」とか呼ぶ。東洋でも西洋でも古来から存在していて、未来の運勢を物語る「尺度」とされている。推命学の流派によっては、この「大運」を抜きにした先天運など“無意味である”とさえ極言する人たちもいる。西洋の場合には、実はノストラダムスの時代(16世紀の頃)にそういう観方があった。もっとも、そのノストラダムスは古代ギリシャやペルシャの占星学原書からそれらを吸収していた。つまり、ギリシャ・ローマの時代から存在した“運勢判断の観方”なのだ。どういう観方をするのかというと「太陰暦」と「惑星周期」というものを使って、仮想上の“大きな運勢の周期”と、それを細分した“小さな運勢の周期”があって、それらの影響で、どの周期の時には幸運で、どの周期の時には不運なのか、機械的に割り出していく。この占星学の手法を推命学に取り入れたのが「大運法」なのである。西洋が「1日=1年法」を基礎としているのに対して、東洋は「3日=1年」を基礎とする。「違うではないか」と思う人がいるかもしれないが、実はそうではない。東洋の「3日=1年」は正確に言うと「3同一干支日=1年」という捉え方なのだ。つまり、東洋の場合には「干支暦」なので、一年間の間に“同一の干支日”が6回巡って来る。ここが重要なのだ。6回巡るので、本来なら「6日=1年」としたいところだが、陰陽の理論から、男女の運は「逆方向に向かう」という、解かったような解からない理論によって男女の仮想進運を、片方は順行させ、片方は逆行させる。こうすることによって「6干支日」は「男=3日間・女3日間」となって、合わせて6日間となり、一年間の“同一干支日”が埋まる。これが推命学上で「3日=1年」と観たてるそもそもの根拠なのだ。ちょっとややこしいが、要するに根拠として元々薄弱なものなのだ。だから、そんなものに振り回される必要などない。今日のような、あっという間に“世界が変わる”ような時代に「十年間は大きな運が変わらない」と考えること自体が虚しいではないか。

「パチンコ闘争」は「IR投資」の“火”を消した

2020-05-14

あまり大きく取り上げられることのないニュースが私の眼を引いた。昨日、米ラスベガス・サンズが「IR(カジノを含む統合型リゾート施設)」による日本進出を断念したと公式に発表した。しかも、その理由については明確なコメントがない。もちろん、IR事業に手をあげているのは米サンズだけではない。けれども、実は“この時期”に米サンズ社が“手を引いた”のには重大な意味がある。このところ、ずっとパチンコ店及びそこに集う人々と、行政及び世論におけるバトルが続いているように見えるからだ。海外から見た「日本」という国では、カジノと同じような仕組みの娯楽、お金を掛けてギャンブル的に“遊ぶ”とか“愉しむ”とかいうことは、頭から「悪だ‼」と決めつけられている傾向がある、ということを外国人に感じさせたようなのだ。そうでなければ、わざわざこの時期に「撤退」の意思表明を社長名で行ったりしない。元々サンズは最初、大阪での進出を構想していた。それを土壇場で覆し、横浜・東京に進出することを昨年8月、正式に決定した。しかも、横浜の行政もそれを後押しすると大歓迎だった。本来であれば、今になって急に「手を引く」のはおかしいのだ。日本に進出するということは、何千億円ものお金を掛けて“観光の目玉”となるものを用意してあげるということである。まさしく投資事業なのだ。それが結果として、大きな収入につながるかどうかは、本当のところはわからない。日本という国では「カジノ」そのものがないのだから、しかも、依存症になると反対する者が多いのだから、成功できるかどうか保証はない。それでも何千億円も投資して観光事情に加担してくれようとしていたのだ。私が怖れるのは、米サンズが撤退したことで、これまで進出を意図してきた他の投資会社もが、それに追従しなければ良いが…という点である。何しろ、日本に“巨大な観光施設”を無償で建設してくれるのだ。もちろん、彼らだって商売だから、元が取れないことはしない。けれども、それによって日本各地に普段から訪日客が多数訪れ消費してくれるなら、最終的には日本国が潤うのだ。そうやって、シンガポールだって、マカオだって、急速に発展した。マカオなどはカジノ収益によって、マカオ市民にボーナスが支給されている。日本人は、日本の政府にばかり「何とかしろ‼」と金を要求するが、日本の政府が持ち出せるのは、当たり前の話だが“日本国内の税金”からで、要するに自分たちが払ったものを貰うのだから高が知れている。ところがIR事業というのは“外資”である。外国人たちが勝手にお金を出して“華やかな施設”を作ってくれるのだ。そこに、外国人たちを引っ張って来てくれる。なぜなら、引っ張って来ないと、投資の元が取れないからだ。こんな“上手い話”を頭から「悪だ‼」を決めつける人の気が知れない。カジノなどなくても、日本人の“ギャンブル依存症”など無くならないのだ。

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